小谷城 会盟の儀
1567年9月、市が長政のもとに輿入れした同年同月。
信長は同盟関係にあった義父の斎藤道三が長男の義龍に1556年長良川の戦いで討ち取られて以来、一進一退の膠着状態にあった美濃の斎藤氏(義龍はすでに病死しており、家督は龍興が14歳の若さで継いでいた)の居城、稲葉山城を攻略。
道三の孫、宿敵龍興(当時21歳)は逃がしてしまったが尾張の小牧山城から居城を奪い取った稲葉山城へと移し、岐阜城と名称を改めた。
翌1568年2月8日三好三人衆が擁する足利 義栄が第14代将軍に就任した。
事態は急を要するに展開となった為、足利義昭は朝倉軍2000に送られて越前を出発、長政が兵2000人を率い、織田家の使者 不破光治と村井貞勝、島田秀満、和田 惟政とともに余吾荘(現在の滋賀県長浜市余吾)にて義昭を出迎えることになった。
「御屋形様の傍を決して離れるでないぞ。ただし、織田家の皆様にはそちの面が知られぬように注意を払うのだ。そちは浅井家にとって切り札となるやもしれぬからな。」直経が白夜を呼び、このように命じた。
直経は小谷城守備の為、城代として残らねばならなかった。
白夜の姿を見ると長政は何とも言えない複雑な表情を浮かべ、見送りに出ている直経と市に留守を頼むと告げた。
長政たちとともに2000人の兵が出発して間もなく、白夜は市が一心に呼び掛けていることに気づいた。
『さすがお市様、なかなかに飲み込みが早うございますね。』
足軽のひとりになりきって荷車を曳かせている馬の手綱を引いて歩く白夜が笑う。
九歳の子どもが大人の中に混じっているのだからどう見ても奇異なのだが、白夜は一行の兵たちの意識に干渉して違和感を打ち消していた。
『良かった...心が読めるとそなたが言ったのでこうやって呼び掛けておれば気づいてくれると思ったのですよ。』
『アハハ、某そんなにいつも人様の心の内を覗いて回っているわけではありません。お市様が某を呼んでいる気がしたのでございます。お市様はもしかしたら某と似た力をお持ちなのかもしれませぬ。』
『うふふ、そなたが先日、妾の心に記憶の全てを送り込んだせいかもしれませんよ。そうそう、新九郞様には白夜が浅井家のこと、いかに大事に思っているか懇々と言い聞かせておきましたからもう心配要りませんよ。』市の思念が少しだけ笑いを含んでいる。
なるほど...それで御屋形様のあの表情なのか...白夜は納得して薄笑いを浮かべた。
『新九郞様を許してあげてください。あの方は人を疑うことが苦手なのです。』市の思念が語る。
白夜は自分の心の内を読まれた気がしてびっくりする。
もちろんそれはそうではなく、ひとえに市の洞察力の鋭さの賜物だった。
「長政殿、織田家中の方々、幕府再興への尽力まことに大義である。余は忠義に必ずや報いると約そう。」
尊大に構える義昭は小才の利く賢さと育ちの良さばかりが目立ち、誰かに頼るだけで志を果たそうという姑息さと覚悟の甘さに白夜は少なからず失望を感じていた。
7/16 恙なく義昭を小谷城に迎えた長政は五日間に渡ってもてなした。
7/22 小谷城を出発。
7/25 美濃 立政寺へ入った義昭はこれを仮御所とした。
8/1 小谷城内は喧騒を極めていた。信長と彼の家臣団が小谷を訪れ浅井家との会盟(両家の家臣を集めて行う盟約の儀式)をするというのだから当然であった。
越前の朝倉家に親近感を感じている者が多い浅井家中の家臣にとって、かつては朝倉の家臣でありながら義昭に朝倉義景は頼りにならぬと進言し、信長こそと薦めた明智光秀の存在に不満を熾火の如く宿していた。
「義兄、此度は公方様上洛への布石、整いましたことまことに祝着至極に存じ奉ります。」
上座に信長を座らせて長政が祝いの口上を述べる。
「うむ...だが新九郞、これはこの三郎ひとりの誉れではない。浅井、織田、両家の一族郎党の悲願への一歩である。公方様が御本意を遂げられるまでお支え申し上げ戦国の世を終わらせ、天下万民の為に尽くすことこそ武士の本懐である。」
信長の言葉に一同が感じ入って平伏するなか、白夜はこの部屋に信長の言葉通りに思っている者などひとりもいないことを意識の表層を撫でるように見て回るだけでわかってしまいシラケた気分になった。
正面に座る信長の左側に手前から長政、浅井家の重臣、赤尾清定、清綱親子、丁野若狭守、百々内蔵助、直経、安養寺三郎左衛門氏秀、浅井 玄蕃允と居並び、向かい合う形で織田家の家臣団が対峙し、更に後ろの部屋に序列に従って浅井家の家臣達が座していた。
長政は終始上機嫌で会盟の起請文に署名した。
白夜は直経の家来ではあるが、長政の家臣ではなく、まして月代すらない元服前の子どもの風体であったので当然、部屋に入ることすら許される筈もないのだが、いつものように自分を目にしても違和感を覚えず、さりとて姿が見えないわけでもないくらいの存在感が極めて薄い状態で末席にいた。
信長主導で今後の方針が決められていく。
喫緊の課題は上洛の途上、安土にある六角 承禎 (義賢の法名)と義治父子の居城、観音寺城をどう攻略するかである。
初めの内は六角父子は義昭の幕府再興に対し矢島御所を提供するなど恭順の意を示していたのである。
ところがその矢島御所を『永禄の変』の首謀者のひとり三好 長逸が3000騎を率いて襲撃し、義昭方は奉公衆と呼ばれる近侍の御家人たちの奮戦でどうにか撃退したが、その後六角父子と三好三人衆の間で内通があったという情報があり(これは六角家を近江周辺の政治勢力から遠ざける為に白夜が流布したものだが事実その通りであった為むしろ偽情報によって義昭は窮地を逃れたのかもしれなかった。)
義昭が矢島御所を去ってしまうと六角家は三好三人衆らに擁されて第14代将軍に就任した足利 義栄を支持していた。
さらに浅井長政とは近江の支配を巡って敵対関係にあり(かつて浅井家が六角家に従属していたことは記述の通り)独立を宣言して挙兵した長政の1万2千の兵に2万5千の兵を率いて承禎本人が近江野良田にて合戦し六角側が大敗を喫して以降、浅井家と対抗する為、同じく織田家、浅井家と敵対関係にあった斎藤家と同盟を結ぶなどしているという状況であり、六角承禎、義治父子を味方に引き入れることは極めて困難であることが予想されたが、信長は無用な流血、戦力の消耗は避けるべきと主張し、病気がちで上洛すら覚束ない義栄よりも義昭こそが武家の棟梁たる将軍としての器量を備えているとして承禎らの説得をしようと提案した。
白夜は信長の思慮深さに少なからず感心を持った。激昂し易く敵にも家臣にも苛烈、冷酷であると伝え聞く人物像とはかけ離れていて、市が敬愛すら兄というアドバンテージを差し引いても今後を見ておきたい指導者だと評価した。
「お主のような幼子が何故ここに座っておる?」
会盟が無事終わり、信長や長政が退出した後、白夜の傍に座り込んで不意に話し掛けてきた男がいた。
歳のころは30代、色は浅黒く、細面で目つきは鋭く才気走っていたが、口調や物腰は柔らかく、やたら自分を立派に強そうに見せたがる武士が多い中では珍しいタイプだった。
しかし、そんなことよりも気配を完璧に消していたのにも関わらず、男が話し掛けてきたことに驚いて返事すら出来ずにその男を見上げた。
「何じゃ?お主の方が驚いておるのか?ふむ、他の者はお主のことを気にしておらんことが実に不思議なのじゃがな?...まあ、良いわい。お主、名は何という?」
「金糞山の里の白夜と申します。」白夜は頭を下げた。
「金糞山...ほお、その名聞いたことがあるぞ、金さえ出せば誰とでも戦う傭兵の里だとか...いやいや、これは悪口ではないぞ、武士なんぞはもっと質が悪いからのぉ、権勢の為に兄弟で争い、姉や妹の人生を蔑ろにし、親子で命を奪い合うのだからな。それに比べればお主らが金の為に働くのは実に気持ちが良い。それに、百人程度の寡勢であるにも関わらず数多くの武勲を上げているそうだな。吾は木下藤吉郎という者じゃ。ところで白夜とやら、その頭はまだ元服も済ませておらんのだろう?」
「この頭でございますか?某、武士になるつもりはありません故、月代は致しません。年寄りになって前の方が禿げて参りましたら後ろ髪を結って髷に致しましょう。」白夜は笑った。
「面白い奴だ。武士でもない者がここで何を聞いておった?」
「この世は武士だけで成り立っているわけではありません。だが、武器を取って闘う武士どもが日本の趨勢を決めてしまう以上、某は黙って見てはおれません。」
「ならば、白夜も武士になって国造りに携われば良かろう!」藤吉郎が白夜の肩に手を置く。
「某は武士が嫌いなのです。だから、傭兵をやっております。」
「傭兵とは何だ?」
「傭兵とは、金で戦争を請け負う者。吾は傭兵、殺戮する者でございます。」
幼子としか思えない白夜が漂わせる殺気に藤吉郎は興奮した。
「気に入った!浅井家を辞して吾の家来になれ。必ずやお主を納得させる日本を見せてやろう。」藤吉郎は瞳をギラギラと輝かせた。
「木下様は尾張守の御家来ではないのですか?まるでご自身が天下人になられるおつもりのようでございますね。」白夜は笑った。
「小生意気な小僧じゃな?御屋形様と吾は志を同じくしておるのだから問題ないわい。それで吾の家来になるのか?」藤吉郎は悪戯が見つかってしまった子どものようにばつの悪そうな苦笑いをした。
白夜はきちんと座り直し、両手を突いて頭を下げた。
「某のような下賤の者に勿体なきお誘い、痛み入ります。しかしながら某、喜右衛門様に召し抱えて頂いております。これは里長の厳命でございますから折角のお申し出でございますがご遠慮致します。」
額を畳に擦り付けたままで白夜は藤吉郎の本心を覗き込もうと意識を集中する。ところが、そこには闇が広がるばかりで何も見つからない、そんな経験は初めてで白夜は少なからず動揺して動けなくなってしまった。
「ほほぉ...吾の真意を読み取ろうとしているな?なるほど...やはり吾と似た力をお主も持っているようだの?いやあ、これは驚きじゃ。」
藤吉郎の言葉に驚愕し、言葉を発することも出来ずに顔を上げて木下藤吉郎と名乗ったその男の顔を見つめた。
「人の心を読んだり、操ったりするのは面白いじゃろ?吾はこの力に十五の時に気付いたのじゃ。だが、吾は読み取るまでで操るのは策略を持って当たるしかない、だがお主はこの部屋におった御屋形様以下家臣全員に己の存在を不自然に感じさせなかったのだから吾よりも優れた力を持っておるのかもしれんな。...ふむ...やはりいずれ吾のものにしておかねばならんな。」
藤吉郎は返事をしない白夜の頭をワシワシと撫でまわすと愉快そうに嗤いながら大股で部屋を出ていった。
「...白夜?そこで何をしておる?」
どれほどの時間をそのままでいたのだろうか、白夜はすっかり暗くなった部屋でひとり座っていた。声を掛けた人物を見上げると直経が心配そうに見下ろしていた。
「こ、これは喜右衛門様...織田家との会盟の儀、恙なく終わりまして誠におめでとうございます。某、この会盟がもたらすものが何かずっと考えておりました。」咄嗟に白夜は応えた。
「ふむ...もっと深刻そうに見えたぞ...いや、会盟のもたらすものか...確かに大事なことであるな。して、どう考えたのじゃ?」直経は真正面にどっかと胡座をかいてすわりこんだ。
「尾張守はいつか天下を束ねるおつもりかもしれません。少なくとも、六角、朝倉にはそのような野心はありません。近いと言えば三好、松永あたりでございましょうか?ただ、巷で言われているほど冷酷、苛烈な御仁ではなさそうでした。」白夜は感じたままを述べた。
「うむ、余も同感じゃ。領地の守護と拡大ばかりに血道を上げている戦国大名とは少々違うようじゃ...」
直経が多少自虐的な意味を込めていたので白夜は小さく首を振る。
「領地、領民の安寧を守るのは領主の務めでございます。」
白夜の気遣いに直経は苦笑いでうなずく。
「六角は尾張守の誘いに乗ると思うか?」
まだ十歳にも満たぬ子ども相手にする会話ではなかったが直経は白夜の意見を聞いてみたいと思った。
「残念ながら説得は不首尾に終わりましょう。六角家は一度は義昭様に矢島御所を与えておきながら永禄の変の首謀者の三好三人衆と密通するなど腰が定まりません。さらに、和田 惟政様、細川藤孝様の説得で尾張守との和解に応じておきながら上洛の兵を上げた尾張守を襲撃した治部大輔(斎藤龍興)も浅井、織田を選ぶよりも三好方の調略を選ぶでしょう。そもそも、あちらも義栄様を擁している以上、正当性を主張出来るわけでございますから...さらに六角家には鎌倉様の御代より続く伝統ある家柄で足利将軍家よりも近江守護を任ぜられたという自負があります。それに比べ、尾張守は主君『斯波義銀』を傀儡としてしまった成り上がり者です。義栄様にはご健康面では不安がありますが、伝統や家柄にあまり敬意を払わない尾張守にいつ排除されるか怯えるよりも、やはり同じく鎌倉より続く三好方に靡くのは必然かと推察致します。」
直経は年端もいかぬ白夜の慧眼に舌を巻いた。
「ううむ、やはり白夜は武家に対して手厳しいようだの?伝統に囚われておるのは浅井家も同じ...耳が痛いぞ。」直経は苦笑いする。
「では、この見込みのない交渉をやる尾張守の狙いは何だと其方は考えておるのだ?」
「端から諦めているような御仁ではないと思いますが、今回の交渉で実際に観音城に参られますのは(義昭様ご本人、それに幕臣 細川様もご同道されます。13代将軍義輝様を永禄の変で弑した三好家はそもそもは阿波守護細川氏の守護代だったのにそれが下克上によって取って代わったという家柄、そして、その細川家も管領という将軍家を補佐する立場でありながら長らく足利宗家と争ってきたわけですから、織田尾張守を新参者として軽んじる心が六角側にあるならこの交渉人にどう対応するのか見ておきたくはありませんか?」白夜はそう言って笑った。
「うむむ...まさか尾張守は交渉決裂は承知の上で六角をからかうつもりだと申すのか?」
「もちろん、それは二次的理由。大事なのは大義名分、滅ぼすにしてもきちんと筋を通すのと問答無用で滅ぼすのとではかなり違うのではないでしょうか?もちろん某、尾張守の心を読んだわけではありません。しかし、無用な血を流したくないとお考えなのは間違いないと感じました。それでも、この度の会盟に臨み至極楽しげなご様子でした。」
聞き終わった直経は『ふうむ』と唸ったきり、しばらく何事かを考えていた。
「良い話しを聞かせてもらった..余は、いや某は今後、其方を子ども扱いはせぬぞ。」
直経は大きな手で白夜の散切り頭をヨシヨシと撫でた。
「言っている傍から子ども扱いしているではありませんか?」白夜は眉をしかめてみせる。
「これは良き臣下に対しての労いじゃ。これからも頼んだぞ吾が幼き友よ。」
直経に『友』と呼ばれた時、白夜は直経の真意に触れていた。そして、直経のその言葉には一点の曇りも無く、白夜に敬愛の念すら抱いていることが分かり、そのことでむしろ白夜の方が感激してしまっていた。
白夜の感激ヲコト点よそに直経は話しを進める。
「八月七日に尾張守が公方様とともに佐和山城に入られる。佐和山城より安土、観音寺城にいる承禎殿、義治殿との交渉を為されるのだがその佐和山城での接待役を御屋形様より仰せつかったのだ。其方も付いて参れ。だが織田家の皆様には顔を覚えられぬよう充分に気をつけるのだぞ。」
新たな命令を下す直経の言葉に白夜は先ほどの木下という男との一件を思い出した。
「喜右衛門様、実は会盟の折、某に気付いて声を掛けてきた方がおられました。」
「なんと...気配を消している其方に気付く者が居るのか。...それで其奴は名乗ったのか?」
気配を消すというより他人の意識や感覚情報を上書きしているのだが直経は白夜の不思議な能力を金糞岳の山里に伝わる秘術だと思っているらしかった。
「はい、木下藤吉郎様と名乗っておられました。」白夜は応える。
「木下、木下...おお、思い出した。先の稲葉山城の戦いではただならぬ活躍をして大出世した男がいると聞くが其奴がそういう名前であった。」
「そうでございますか?あまり戦働きが得意そうな武人には見えませんでしたが...」白夜は痩せぎすの藤吉郎の顔を思い浮かべる。
「うむ、策を弄して斎藤の小倅をまんまと謀りおったらしい。」
藤吉郎なら戦わずして勝利する手段があるなら迷わずその道を選ぶであろう、白夜は『納得する日本を見せてやる』と語った藤吉郎の顔を思い浮かべた。
「そういえば、某のことを家臣へと誘っておいででした。」白夜は隠さずに伝える。
「なにっ?!むむっ...木下とやら中々に侮れぬ奴のようだの?白夜の凄さを理解出来る者など決しておらぬと思っておったが...」
その夜、白夜は市のもとを訪ねた。
人目を避けて部屋に入ると市はひとりきりで算盤と台帳のようなものと広げて筆を動かしていた。
「せっかく兄上にお引き合わせしようと思ってずっと呼び掛けていたのに...何をしていたのですか?」市は筆を硯の上に置くといきなり叱りつけた。
「申し訳ありません。お市様が呼びかけておられることは分かっておりましたが喜右衛門様より織田家の皆様方には某のことは知られぬようにと命じられていたのでございます。」白夜は誤魔化さず本当のことを言う。
「あら...いやだ...そうだったの...白夜を浅井家の懐刀にするってことなのね...」市は少しだけ淋しそうな表情をみせた後、ハッとしたように白夜を見つめた。
「...ちょっと待ちなさい白夜、其方のことを兄上に話そうとする度に邪魔が入りましたが、あれも其方がやったことですか?」
「気付かれましたか?さすがお市様、不自然さを感じないようにしたつもりだったのにやはり勘が宜しいのですね。」
「褒めても駄目です。頭の中に直接話し掛けて自分のことをしゃべらないように伝えれば良いではありませんか?妾と白夜は既にそういう繋がりを持っているのでしょう?」
「...そうでございます。申し訳ございません...人を手玉に取ることばかりに慣れてしまって一番基本的なことを失念しておりました。」
「全くです。でも今回は許してあげましょう、この次はお尻を叩きますからね。」市はまるで子どもを躾けているような口調だった。
市はしばらく難しい顔をしていたが反省をしている様子の白夜を見てクスッと吹き出すと笑顔を取り戻し話しを続けた。
「それで白夜は会盟の席に潜り込んでいたのでしょう?どうだったのです?」
「はい、尾張守上総介様は巷で言われているような気性の荒い冷酷な男だとは思えません。思慮深く、古いしきたりに囚われぬ自由な発想が出来る方、御屋形様はすっかり心酔のご様子でいささか心配になりました。」
白夜がそう言って笑うと市も口許を袖で隠して笑っていた。
「白夜の言う通りです。新九郞様も少しは人を斜め上から観られるようになれば宜しいのに...白夜の爪の垢を煎じて飲ませてみようかしら。」市が目を眇めて白夜を見る。
「某...人を見下したり致しません。」
「まあご謙遜ね。ところで兄上は僅かな手勢を率いて佐和山城に入ると仰っておられましたが白夜はどう思いますか?」市の表情が真剣になる。
「御屋形様は尾張守を害そうなどとは露ほどにも考えてはおられぬはずです。しかし、御家臣の中には危険人物と見なしておられる方も少なからずおられます。」
白夜は喜右衛門の顔を思い浮かべた。
「白夜...兄上のことを守ってはいただけませんか?」市が思い詰めた顔をする。
「お市様...承知致しました。それに上総介様の今後を某も見てみたいと思っておりました。孫次郎殿(朝倉義景)よりはよほど面白き世の中を見せてくれそうでございます。」
朝倉義景の名前を出すと市は表情を暗くした。万福丸のことを思い出してしまったのだ。
「白夜は兄上のどこが面白いと思うのですか?」
気を取り直そうと市は話題を変えた。
「他の戦国大名とは少々お考えが違うところでしょうか。例えば、居城に執着なさらないところでございます。最初は生まれ育った那古野城から清洲城に移られました。清洲の土地は尾張の中心、鎌倉往還と伊勢街道が合流する交通の要衝でもあり、尾張支配には最適でございました。しかしこれを美濃攻略の為とはいえ清洲城下に屋敷を持つ多くの家臣の猛反対を押し切って小牧山城を築城され本拠とされました。そして、稲葉山城を落とされるとたった四年で稲葉山城...今では岐阜城と改められましたがこちらに移られております。これは古きことを尊しとする武家社会にはかなり新しき考えであり、統率力の強さの証明でもあります。かの軍神、越後守護の上杉様も雪深い春日山城を出ようとはしません。いくら武勇に優れていようとこれでは国をまとめることも戦乱の世を終わらせることも叶いません。」
「不識庵謙信殿は義に厚い方、野心無く助けをこう者があれば手を差し伸べるとも聞きます。今川、北条の塩止めに困窮した宿敵甲斐の武田に塩を送ったという話しも聞きます。兄上にもあのような立派な振る舞いをして頂きたいのです。」
「駿河(今川氏真)と相模(北条氏康)の塩止めに同調しなかったのは謙信殿らしい振る舞いでございますが、海の無い甲斐の国は塩商いの上得意、これからの戦は種子島などの新式の武器が増えたこともあり、武芸よりもどれだけ兵を集め、武具を揃えたかで戦う前に勝敗が決まるようになりましょう。今度のことで謙信殿は甲斐に対して塩の専売権を得たわけでございます。青苧の栽培を奨励し、青苧商人からの税を取り立てるという領国経営の手腕をお持ちですから、ただの義侠心ではないと某は思っております。」
ふと腰をあげ手を伸ばして市は手のひらで白夜の口許を塞いだ。
「子どものくせに白夜の話しは難し過ぎですよ、他人の心の内が分かるという特技はそんなに其方を老成させてしまったのですか?」
「申し訳ございません。つい調子に乗ってしまいました。」叱られた気持ちになって白夜が謝る。
「いいえ、悪いわけではありません。むしろ感心するくらいですよ...妾も兄上が人とは違うということは感じております。そしてそこを尊敬申し上げているのですが、同時に心配もしているのです。兄上は好んで敵を作ります。」
市は苦笑交じりのため息をつく。
「ところで某からのお尋ねですが、稲葉山城落城の際に治部大輔『=斎藤龍興』殿にお力添えをなさったのですか?」
白夜からの思い掛けぬ問いに市の顔が青ざめる。
「な...なにゆえそのようなことを聞くのですか?」
「確か、治部大輔の母君であらせられる近江局様はご隠居様(久政)のご養女。治部大輔が伊勢長島に逃れた後も尾張守が差し向けた追っ手の軍勢から逃げ果せたのは誰か手を貸す者がいたと考えられます。しかし、哀しいかな治部大輔は飛騨守を重用した失政がたたり多くの家臣に見限られてしまうほど...将としての人望がありません。最早頼れるところは血縁あるいは縁戚、血は繋がっていなくとも近江局様と御屋形様はご兄妹、助けを求められれば情に流され易い方ゆえ手を貸したと考えるのが道理。それに加え、織田方の盟友である浅井家に導かれての逃避行ならば最も安全でした。」白夜は淡々と語った。
「新九郞様と妾、そして一部の者しか知らぬこと、喜右衛門殿すら知らぬことです。しかし、ここで否定してみせても其方には分かってしまうのですね。それとも、言い出した時には既に妾の心の内を読んでいましたか?」市は隠そうとするかのように胸元を両手で覆った。
「いいえ、今回は違います。無論、このような質問をしなくとも探り出すことは出来ましたがお市様の口から直接お聞きしたかったのでございます。治部大輔は未だ二十歳そこそこの若者...命を散らさせるには忍びないという気持ちはわかりますが兵を失い、国すらも失った将は降伏し、軍門に下るか、将軍義輝様のように命尽きるまで闘うかを選ぶべきです。そうでなくてはいつまでも同じ争いに付き合わされる兵隊はかないません。」白夜は冷たく締め括った。
「...心に留めておきます...」市は耳が痛かった。
「其方の申す通りです。臣下に命懸けの戦いを強い、領民の生活基盤を保障し秩序を守るという名目で税という形で富を収奪してきた大名が全て置き去りにして逃げてしまうのは無責任と言われても仕方ないことです。」市は唇を噛む。
「お市様は降伏し、命乞いをすることを勧めたのでございますね。」白夜は市の思考の表層を読む。
「...助命を妾からもお願いすると申し上げましたが、新九郞様はあくまで尾張守に歯向かう意思を無くさない治部大輔にとても感心なさって力をお貸しになったのです。」市はその時のやりとりを思い出してため息をついた。
「それでは浅井家が織田家の盟友である限り、治部大輔とは剣を交えるかもしれぬということでございますよ。朝倉家にご嫡男を人質に出し、織田家の姫を迎えて盟友となり、これから奉じて京へ向かわんとする公方様をもかつて害そうとした治部大輔を...しかも反抗の意思をはっきり示した後にも助力するとは...御屋形様には戦国の乱世を終焉させるという使命感はさらさらないようでございますな。」白夜の物言いはとげとげしかった。
「新九郞様は愚か者かもしれません。しかし、その愚かしくお優しいところが妾は好きなのです。白夜...其方は武士には成らぬのですか?浅井家の正式な家臣となり、新九郞様や妾を導いてはくれないのですか?」市の声はまるで懇願するような響きを帯びていた。
「申し訳ございません。やはり某は武士には成りたくありません。金の為と思えば戦場にも立てまするが名誉だとかの血迷いごとを口にするくせに女子どもをも簡単に手に掛ける武士をあまりに多く見て参りました。ただ...この頃は金の為だけではなく、好きという利己的で身勝手な理由で働くというのも悪くないと思っております。」
「それは妾のことが好きだから頼みを聞いてくれているということですか?」市は心なしか頬に赤みが挿していた。
「はい、お市様も喜右衛門様も大好きでございます。」白夜が無邪気な笑顔を見せる。
「なるほど...姉と父親という感じかしら?」市は納得したとばかりに微笑んだ。
「喜右衛門様は今日、某のことを友と仰いました。」
白夜の言葉に市は大きな瞳をパチパチと瞬かせた。
「そう!随分年上の友だけど...喜右衛門殿は白夜のことを対等に思ってるのね。」
白夜の嬉しそうな様子に市も心が弾んだ。
「対等だなんて...とんでもないことでございます。だけど、友が出来たのは生まれて初めてでございます。」
「あら、金糞山の里にはいなかったのですか?」市が怪訝そうに首を傾げた。
「仲間として認めてはくれていますが...皆、心の中では某のことを気味悪がっています。」
「そう...それは...そうかもね、心の中を知られてしまうのは誰にとっても怖いことだもの。」
「お市様は少しも怖がっておられませんね。」白夜はにっこり笑った。
「あら、妾は白夜に隠したいことなんて無いもの。むしろ、もっとしっかり覗いてみなさい。ずっと、私の心と繋がってなさいと言いたいくらいですよ。」市はそう言って笑った。
「お市様は御母様と同じことを仰るのですね。」白夜は不思議そうに言う。
「うふふ、可笑しいわね。これじゃまるで母上も妾も其方に恋をしているみたい。」
「恋?でございますか?」白夜が首を傾げた。
「そ...それで、白夜は母上と心を繋げているの?」市がコホンと咳払いをひとつする。
「はい、今のこの瞬間も御母様に見せて聴かせております。」
「嘘!そんなことが出来るの?」市は思わず大きな声を出した。
「はい、凄く力を消費するので困るのですが...」
「恥ずかしいじゃない!」市が狼狽えて立ち上がる。
「今、御母様も同じことを言っております...お市様とお話ししたいそうです。」
「そんなことが出来るの?妾もぜひお話ししたいわ。」
市の耳...いや、頭の中に鈴を転がすという表現が相応しい声が響いた。
「女同士の会話です。お前は聞いてはなりません。」弥生に命じられて白夜は自分のコンタクトだけを切り離した。
市が肯いたり、ころころと笑うのを眺めながら白夜はしばらく待っていた。
「ありがとう白夜。楽しかったわ。とても美しい方なのですね。」市は会話が終わったことを伝えた。
「お見せしたのは某の記憶の中に生きている御母様でございます。今は病の為、枯れ木のように痩せております。」
『余計なことを言うではない!』頭の中で弥生の叱責が響いた。
白夜の様子を見て察しがついたのか市がほんのりと笑った。
「ところで新九郞様のことはどうなのですか?」先ほど名前が出てこなかった長政のことを市は尋ねてみた。
「そうですね...残念ながら某、嫌われてしまったようです。それに某も御屋形様の統率力の弱さには不安を覚えます。家臣の顔色をうかがって朝倉と織田を両天秤にしておられます。呉越同舟、いずれ破綻するのは必定でございます。尾張守の半分くらいで良いから我を通されるなら某も力をお貸し致しますものを...」
家臣団の反抗分子の粛清の提案を断られたことを白夜は不満に思っているようだと市は思った。
「朝倉家には万福丸を人質に出しております。そんなに簡単にはいかないのですよ。」市が宥める。
「万福丸様なら朝倉には死んだと思わせる工作をして某が連れ帰って見せます。」当然のように白夜が応えた。
「そんなこと出来るわけ...いや、白夜ならば可能なのかもしれませんね。」
「しかし、浅井家内部には朝倉家と通じておる者がかなりおります。万福丸様をお連れするならば彼らを粛清しておかなくてはなりませんが、さすがに某には分かっていると申し上げても証拠もなく同朋を手に掛けるのは無理でございましょう。ですから、万福丸様を小谷へ取り戻してからの動きを見てからでも...」
「ま、待ちなさい、白夜。妾は織田の血を引く者...しかし、そのような策略を巡らせる為に浅井家に輿入れしたのではありません。」市は激しく頭を振った。
「申し訳ございません。お市様のお立場も考えずに...今の話は誰にも聞かれておりませんのでご安心ください。」
安心させる為に白夜は出来るだけ穏やかな口調でそう告げたが、市の鼓動はしばらく収まらなかった。
「そういえば本日の会盟の儀が終わった後、織田家臣のおひとりから家来のお誘いを受けました。」
話題を変えたつもりの白夜のひと言に市は飛び上がるほど驚いた。
「ま、ま、まさか浅井家を去りたいなんて言いませんよね?其方のような子どもにいったい誰が?」
「木下藤吉郎と名乗っておいででした。」
その名前を聞いて市がどのような反応を示すか白夜は観察した。
「その者のことは知っております。人懐っこく小才が利く男で兄上も目を掛けているようでした。ただ、女好きのようで嫁をもらったばかりだというのに妾を見る目がいやらしくて...妾はあの男は苦手です。もちろん、そんな誘いはきっぱり断ってくれましたよね?」よほど嫌な思いをしたことがあるのか市は憤然としていた。
「アハハ、断りました。ですが、木下殿が少々気の毒になってきました。」
白夜は大笑いしながら少なくとも市は藤吉郎の持つ力には気づいてないことを悟った。