浅井家とお市の方
1567年9月、白夜が直経に小姓として召し抱えられる1年前。
浅井長政のもとに織田信長の妹、市が輿入れした。
織田家と浅井家の政略結婚であって、浅井家にとっては六角父子を始めとする周辺列強への牽制。織田家にとっては同じく宿敵、斉藤龍興に対する牽制。そして信長の目指す上洛に際し、尾張から京までの通り道を確保でき、また障害である朝倉家への封じ手になると期待したのである。
年が明けて金糞山の隠れ里に侵攻してきた六角家の軍勢を白夜が里の民を率いて殲滅したことでむしろ里を取り巻く緊迫した情勢が悪化していく。
さらに13代将軍、足利義輝が殺される(永禄の変)。
義輝の弟、覚慶(後の15代将軍義昭は出家しており、その法名)は奈良から脱出し、六角承禎(義賢の法名)、義治父子の庇護を受け『矢島御所』に入る。
そして、還俗して義秋と名を変え、将軍家復活への意欲を示した。
このまま六角父子庇護のもと、室町幕府の再興ともなれば金糞山の里は逆族とされて滅亡は間違いないと思われた。
白夜は義秋の思惑通りに上洛させぬつもりで永禄の変の首謀者、三好三人衆に揺さぶりを掛け、矢島御所を襲撃させた。
さらに、1566年8月信長が上洛の為の出兵する情報を斎藤龍興にいち早く流し、襲撃させることに成功、信長が尾張に撤退したタイミングで六角承禎と義治が三好三人衆と内通したという情報を義秋に与え、義秋を六角家から引き離した。
義秋は妹の嫁ぎ先である若狭国の武田 義統を頼るが義統は一向一揆に加えて、家督争いが絶えず、上洛などする余裕はなかった。早々に見限った義秋は朝倉家に出国してしまった。
ところが、朝倉家の領地、越前も一向衆の勢いは強く、朝倉義景は上洛の為に国を開ける余裕はなかった。
「御母様、織田と浅井の同盟どう思われますか?」
体調が優れずに伏せっている弥生に白夜は尋ねる。
「そなたこそどう思っているのです?」弥生は反対に尋ね返す。
「はい、公方を庇護する義景とこれに敵対する信長、朝倉と同盟する浅井と同盟を結んだ織田。まさに三竦みのこの状態は里にとっては好都合、大名どもが疑心暗鬼に溺れ、ひとつにまとまらない限り里は仕事を失うことがありません。」
「白夜...そなたはこの乱世が続けば良いと思っているのですか?」弥生は病で気弱になっているのか疲れたような微笑みをみせた。
「どうしたのです?御母様、吾らは傭兵、戦が無くては飯が食えません。」
弥生の戦いぶりは白夜の憧れだった。
敵の意識を乗っ取り、相打ちを誘う白夜とは違い、戦場で圧倒的な殺傷力を誇る騎馬武者に小太刀一本で立ち向かい、首を切り飛ばす神業を白夜は赤子の頃から見ていた。弥生は母親と喧嘩した時、白夜を預けず帯で背負って戦に出ることがあった。弥生は白夜にとっての英雄だった。
「そなたを戦士に育てておいて、今さらこんなことを願うのは無責任かもしれません。でも、妾はもっと別の...人間らしい生き方をして欲しいと思うのです。」弥生の手が白夜の手を包む。
「別の...生き方?」
熱のせいだろうか?弥生の手はとても温かい。
「そうです。人を生かす、人々を幸せにするような生き方をして欲しい。」
「吾は御母様と里のみんなが喜んでくれたらそれで良いのです。」
白夜は弥生の伝えたいことが理解出来ず、力を使って弥生の意識下に潜り込ませてみた。しかし、そこには春のような温かな想いが溢れているだけだった。
「白夜...今、そなたは妾の心を覗いているのですね?何か分かりましたか?」弥生が微笑む。
「いえ...ただ御母様が吾を愛してくださっていることだけは真実です。」
そう白夜が応えると弥生はにっこりと笑った。
「大名たちを翻弄するのではなく、この国をまとめ平和に導いてくれる領主に力を貸してあげなさい。取りあえず里の存続の為何処かの大名の士官となってみませんか?...そうですね、長政様とお市様は両家の政略結婚結婚にも関わらず夫婦仲睦まじいと伝え聞きます。せっかくですから、金糞山とも関わりが深い浅井家に奉公してみなさい、妾が推薦の手紙を書いてあげましょう。ただ...そうですね...百名足らずの傭兵団の首領に過ぎない妾ごときが浅井家宗家に手紙を出すのは不遜、長政様の御家臣で卑しい傭兵団を受け入れる器量のある御仁...」
「それならば、喜右衛門殿に仕えてみようと思います。」
白夜は浅井家の重臣の中でも六角攻めに積極的だった直経の名を挙げた。
「ふふっ、そなたは六角義賢がよほど嫌いなのですね。」病の床にあっても弥生の笑顔は美しかった。
こうして白夜は直経に仕えることに決めたのであった。
それから数ヶ月後、小谷城に登城する直経に随伴を許された白夜は市と初めて出会うことになる。
長政と直経が近江の情勢について熱い議論を交わしている間、白夜は人払いを命じられ部屋の外で控えていた。
すると、ひとりの童女がトテトテと歩いてきて肩を叩く。
「これはこれは、いずれの方のおひい様か?某お役目中ゆえ遊んではやれませぬ。」
白夜はヨシヨシと頭を撫でてやった。すると、童女は嬉しそうにひしと抱きついた。
「お姫様がお話ししたいって...来やれ」
そう言って、やたらに手を引く童女に根負けした格好で立ち上がった白夜が屋敷の中を導かれて行くとそこに天女のように優雅で美しい女性が座っていた。
「あらっ!連れて来てくれたのね。ありがとう。」美しいその女が頭をクシャクシャと撫でると童女は誇らしげな笑顔を見せ、ぴょんぴょん跳ねながら表へ駆け出していった。
「そなたが喜右衛門殿のお気に入りの白夜ですね。」女性は優しい声で尋ねる。
「お気に入りかどうかは分かりませんが、いかにも白夜でございます。」白夜は畏まる。
「妾は新九郞の妻、市でございます。」女性は自己紹介した。
新九郞とは長政の通称であった。
「な、なんと?小谷の方様...!?」
白夜は庭に駆け下りて平伏する。
「良いのですよ。妾がそなたとお話しがしたかっただけですから。」
織田家から市とともに浅井家にやってきた侍女が慌てて止めようとするのも構わずに市は庭に降りて白夜の傍に膝を突いて肩を抱いて引き起こそうとする。
「そ、そんな、足が...おみ足が汚れてしまいます。」白夜は狼狽えた。
「そう思うなら顔を上げなさい白夜。」
市があまりにも肩を押し上げようとするので白夜はおそるおそる顔を上げた。するとそこにはこの世で一番美しいと信じている弥生の次くらいに美しい女性が優しく微笑んでいた。
「やっと顔を見せてくれましたね。うん、噂以上に可愛らしい男の子ですね。」
男として喜んで良いのかわからない褒め言葉に白夜は苦笑する。
「そうだ、美味しい羊羹があるのですよ。妾の部屋へいらっしゃい。」
市がとんでもない誘いをしだす。
「よう...かん?」思い掛けない単語を白夜はそのまま尋ね返す。
「いけません!部屋に殿方を招くなど浅井家の方々になんと謗られることか。」市が白夜の問いに応える前に侍女が市を嗜める声が響いた。
「妾を幾つと思っているのです?こんな子ども相手になんの疑いを持たれるというのですか?とき、そちも一緒にいるのだから心配無用です。」
とき、と呼ばれた40過ぎの侍女は溜息をついた。
侍女を言い負かしたと思ったのか、市は白夜の手を握ると意気揚々と自分の部屋へと引っ張っていく。呆気にとられながらも白夜は浅井家の家臣とすれ違うことがないように通り掛かる者たちの意識に先回りして干渉し、遠ざけた。
「あぁ~もぅ怖ろしくて心の臓が口から飛び出そうでございました。手を繋ぐなどもってのほか、お部屋までどなた様とも会わずに済んだのは奇跡でございました。」追いついてきた、ときがは胸の辺りを押さえていた。
「ウフフ、ときは心配症ですね。さあ、お入りなさい、白夜。」
入るもなにも市は白夜の手を握ったままで自室に入っていく。
「ここにお座りなさい。」市が畳の上をポンポンと叩く。
白夜にしてみれば畳敷きの部屋すら珍しく、その上に座ることすら初めてだった。
「これが羊羹ですよ。」市は重箱を取り、開けて見せると中には黒っぽい塊が入っていた。
「茶を点ててあげましょう。足を崩して待ってなさい。」
市が切り込みのある小さな畳を外すと小さな炉があり、部屋の火鉢にあった炭を火箸で摘まんでその中へ移した。
炉の上に重い茶釜を移そうとする市を見て白夜はさっと手助けする。
「ありがとう、でも大丈夫ですよ。」市は笑う。
「でも、お腹の御子には大事な時ですから。」白夜は市が妊娠していることに手を繋いでいる間に気づいていた。
「あらやだ、まだ子どもは出来ていませんよ。」市は勘違いと思って笑った。
「これは失礼致しました。てっきり姫様を御懐妊されていると思っていました。」
「なるほど、噂に聞いた白夜の不思議な力ですね。妾は身籠もっているのですね...姫なのですか?」市は白夜の言葉を否定したが伝え聞く不思議な力を思い出して尋ね返す。
「はい、姫様がいらっしゃいます。話し掛けた某を無礼者と詰っておいでです。」白夜は笑った。
「年長者を詰るとは、ずいぶんと気位の高い姫のようですね。しかし、姫ならば安心です万福丸のためにも...」
市は長政が離縁した平井定武の娘との間に設けた嫡男、万福丸を不憫に思っていた。
「足を崩して良いのですよ。」市は笑顔を見せる。
「いえ、某はこちらの方が落ち着きます。」白夜は背筋を伸ばしきちんと正座した。
「万福丸様とは先の奥方様の...浅井家御嫡男、万福丸様。」
「万福丸は今は妾の子です。でも、あの子は朝倉の元にいます。まだ四つなのに...浅井家の為に人質として命を掛けて働いておるのです。」
織田家と朝倉家、その危うい均衡の上に幼子の命が掛かっているという理不尽さに市は苦しんでいた。
「吾ら傭兵は人の皮を被った獣のように言われますが、幼子の命を預けようなどとは考えつきません。」白夜が吐き捨てると市は小さく頷いた。
湯が沸くと市は茶器に抹茶を点てた。
「それでは羊羹を召し上がりくださいませ。」
市が切り分けた羊羹を菓子鉢に盛り付け、白夜の前に差し出す。
白夜は菓子鉢を少しだけ持ち上げて感謝の気持ちを込めて頭を下げ、菓子鉢の間に懐紙を置き、箸で羊羹を一切れ取ってその上に乗せ、懐紙の端で箸を拭ってから鉢の元あった場所に戻してから鉢を横に置いた。
羊羹を懐紙ごと持ち上げ、楊枝で切り取って刺して食べた。
「旨い...こんなに甘くて美味しいもの、初めて頂きました。」白夜は生まれて初めて食べる菓子に年相応の歓声を上げた。
「小豆と葛粉を混ぜて蒸した菓子なのだそうですよ。」
万福丸のことで白夜に軽蔑されたと思って、萎れていた市は白夜が喜んでくれたことにホッとする。
白夜が食べ終わるのを待って市は点てた薄茶を差し出した。
「お先に」白夜は、ときに一言ことわってから市に向かい、
「お点前頂戴致します。」と頭を下げた。
それから茶碗を軽く持ち上げ、正面にある茶碗の絵柄を堪能した後に左手に乗せて右手を添え、絵柄を横に回してから3口半で飲み干した。そして、右手の人差し指と親指で飲み口を拭いて懐紙で指先を拭い、茶碗を反対に回し今度は絵柄を市の方に回してから下に置いてから『ご馳走様でした』と頭を下げた。
「お粗末様でした。若いのに見事なものです。その作法どこで身に付けたのです。」市はもちろん、侍女のときも感心していた。山猿も同然の白夜に茶の湯の作法の心得があるとは思ってなかったのだ。
「御母様から躾を受けました。」白夜は嘘をついた。
実を言えば茶を飲むことすら初めてであった。本当は市の意識を読み、その通りにやってみせたのだ。
「ただ、白湯しか飲んだことがなかったので茶の美味しさに感服致しました。」それは本当のことだった。
「まあ、そんなに喜んでもらって亭主冥利に尽きるというものです。羊羹もまだありますよ、お茶のお代わりもあげましょうね。」市は柔らかく笑った。
「御母上はどんな方なのです?」新しく茶を点てながら市が尋ねる。
「御母様は本当の母ではありません。本当の母は某が乳呑み児の頃に落ち武者どもに殺されました。その時、まだ十の御母様が...弥生が某を助けて連れて帰って育ててくれたのです。」
「なんと!十の幼子が子育てをしたというのですか?...なんと素敵な御方でしょう。妾は弥生殿を尊敬致します。それに感謝もしなくてはなりません。」
「もったいなきお言葉です。しかし、感謝とは?」白夜は首を傾げた。
「それはもちろん、妾のお気に入りの白夜の命を救って、しかもこんな良い子に育ててくれたからですよ。それにしても、御母様とは雅な呼び方ですね。」市が笑う。
白夜は市が寄せる好意があまりにストレートなのに驚き、真意を探ろうと意識を集中し、市の深層へ潜り込ませてみたが、そこには穏やかで暖かな思いやりが溢れているだけで表裏はなかった。
「...お、お気に入りとは...お戯れを仰らないでくださいませ。ところで御母様というのは、弥生がそう呼べと言うのでそれが習いとなりました。きっと若いのに『おっかあ』などとは呼ばれたくなかったのでしょう。」白夜は苦笑する。
「そうでしたね。弥生殿と白夜は十しかし離れていないのですよね。ときに白夜は今、幾つなのでしょう?」市が小首を傾げる。
「弥生が19、某は九つでございます。」
「なんとそうでしたか。妾よりもふたつも年下なのですね...一度お会いしたいものです。」
その言葉は社交辞令ではないようで、市の瞳はキラキラと輝いて白夜の返答を待っていた。
「御母上...弥生は、病で伏せっております。元気ならば小谷の方様にお目通り適うと聞けば直ぐにでも飛んで参るのでしょうが、今では家の中でさえ人の手を借りねばならぬほどなのです。」
「まあ、それは大変...上様にお願いして、曲直瀬道三先生に良いお薬がないか聞いて頂きましょう。」
市は日本随一の医者と称され、大名でもなければとても相手にさえしてもらえなさそうな人物の名を上げた。
「有り難き仰せ、しかし弥生の病はおそらく治るものではありません。理屈では無く、某には分かるのでございます。きっと躰の内部からくる病...ですが、幸い人に感染るものでは無いので里の者に世話をしてもらっております。」
「白夜には不思議な力があると喜右衛門殿から聞いておりますがその力で弥生殿の病のことが分かるのですか?」
市が訝しげに眉をひそめる。
「はい、信じがたいとは思いますが左様でございます。」
「治癒しないなどと、息子のそなたが諦めてどうするのですか...いつ頃からお加減が悪いの?」
「かれこれ十月になります。食欲が無くなり、今では重湯を少し口にするのが精一杯で見る影もないほど痩せ衰えてしまいました。」
白夜には今現在の弥生に話し掛けることが出来たし、弥生の姿を脳裏に呼び起こすことが可能だった。
「白夜...そなた浅井に仕官して半年は経ちますね?その間、弥生殿の見舞いには帰ったのですか?」
「いえ...一度も...しかし、これは里長たる弥生の命を受けての仕官でございます。そうそう帰っていては叱られてしまいます。」
心だけは何十里離れていようとも重ね合わせる事が出来る白夜であったがやはりまだ九つの子ども...弥生への思慕は断ちがたく、大人ぶった言葉の端々にその綻びが見え隠れし、市は愛しさを感じるのだった。
「なるほど、ならば命じます。小谷の方たる妾が弥生殿に認めますから、そなたが届けなさい。それから、確か滋養が付いて食欲が増すような薬があったであろう?ときやあれを用意してくれぬか?」
市が言った薬というのは兄、信長からの贈り物の漢方薬であったが大名のような支配階級の者たちでも簡単には手に入らない高級品であった。そのため、ときは困ったような顔した。
「小谷の方様、某の里にも古来より伝わる薬がございます。どうかお気遣いくださいませぬよう。某がもはや助からぬなどと不用意なことを申し上げましたので要らぬ心配をさせてしまいました。要は母とも生きて会わぬ覚悟でお仕えさせて頂いているということでございます。」
市は侍女のときが指示通りに漢方薬を準備してくれぬことや、ふたりの立場を慮った白夜がやんわりと辞退したことに姫様育ちの奔放さで少しだけ勘気を起こし、むくれていたがやがて気を取り直して白夜の前に薄茶を新しい茶碗を置いた。
「お代わりをどうぞ。ところで白夜、そなた妾を小谷の方と呼んでおりますが、これからは市と名前で呼びなさい。」
「奥方様、それは白夜殿が困ってしまいます。」先ほど勘気に触れ掛けたばかりではあったが侍女の立場としては黙っておれず、ときが諫めようとした。
「お上と喜右衛門殿には妾からお願いします。ほら、白夜...『市』と妾を呼んでみなさい。」
市はいたずらをするような笑みを浮かべて目を閉じ、白夜が自分の名を口にするのを待った。
「お...お市の方様...」いくら待っても市がこの試練から解放してくれそうもないので白夜はその一言を絞り出した。
「駄目です。『市』と呼び捨てにしてみなさい。」
「奥方様!」ときが跳び上がる。
「お...お市様...どうかこれ以上はご勘弁ください。」白夜は畳に額を擦り付けて懇願した。
「分かりました。今日のところはその呼び方で我慢致しましょう。さあ、顔を上げなさい。」
いつの間にか市は直ぐ傍らに来ていて両膝を突き、白夜の肩に手を置いていた。
白夜には市がこれから何を企んでいるのか分かっていたがこれ以上、頑なな態度をとるのも無粋と思い、なるべく自然に頭をあげ身を起こした。その途端、市の両腕が脇の下から背中に回され、白夜の顔は良い香りが焚き染められた市の胸元に強く押し付けられていた。
「白夜や...この浅井家におる限り、妾のことは母と...いや、姉と思って甘えなさい。」
「奥方様!いい加減になさいませ!」
そう叫んだものの、ときは人が来ないかの方が心配でふたりの間に割って入るよりも部屋の襖がきちんと閉まっているか確かめに行く方を選んでいた。
『ありがとうございます。』市の優しい気持ちが嬉しくて白夜は口に乗せるのではなく、市の心に直接、感謝を伝えた。それは、今まで弥生以外にはやったことがない事だった。なぜなら、そうすることは白夜には心の内にあることが全て知られてしまうという事実を否応なしに認識させられるに等しいからである。それは自我のある人間に取っては決して好ましいことでは無いはずだから、白夜はずっと避けてきたのだ。
「まあ!今のは?」
市が躰を離して、白夜の顔をしげしげと覗き込んでいる。
「素晴らしき力ですね。」市は瞳を輝かせた。
『口には出さずに心で話し掛けてください。』再び白夜は市の心に話し掛ける。
『なんと!思うだけで話しが出来るとは...』
『慣れてくれば言葉として考えなくても伝わるようになります。』
『...もしかしたら、隠し事は出来ないということ?』
『左様でございます。しかも、某の内心は隠すことが可能でございます。』
『そ、それは...卑怯よ。』市の顔が忽ち朱に染まる。
『お市様の心は某が知る限りの人の中でもっとも美しい、弥生と同じくらいに清らかでございますよ。』
『ありがとう、嬉しい...ダメ、誤魔化されない...白夜、そなたの心の内を妾に全て晒しなさい。』
『す、全てでございますか?』
『そうです。全てです。』
『承知致しました。深呼吸してください。』
「え?どうして?」白夜の言った意味が理解出来ず市は思わず聞き返した。
『では、送ります。』
白夜からの思念が届いた次の瞬間、言葉では翻訳出来ない思いが奔流となって市の心に押し寄せた。
たかだか9年生きただけとは思えない情報量、人の心に触れる能力を持ったが故の苦悩、苛立ち、焦り、そして、慈しみと希望。
市はその全てを受け止めきれず、「あっ」と叫んだ後、ペタンと座り込んでしまった。
「どうなされたのでございますか?奥方様しっかりしてくださいませ!」ときが慌てて市を助け起こす。
「大丈夫ですよ。少し目眩がしただけ...」
そう言うと市は少し疲れたように笑い、炉の前に戻った。
白夜は何事もなかったように薄茶を頂き、礼を言った。
「たった九つの子どもでもこれほどの思いと経験を抱えているというの?」
「人は記憶の全てを常に巡らせているわけではありませぬ。普段は忘れている...というより、記憶の奥底にしまい込んでいるのでございます。」
突然再開したふたりの会話の意味が分からず、ときがポカンとしている。
「そなたが武士を嫌っておるのは分かった。」市は笑顔でうなずく。
「妾がそなたに声を掛けた理由も既に分かっているのであろう?」
白夜も静かに肯いた。
「その力を浅井家のために使ってもらいたい。」
「某、喜右衛門様に仕える身、陪臣として御屋形様のために働くは必定でございます。」
「そうではなくて、他国の朝倉や兄上の真意を知りたいのだ。」市は尊敬し、慕っている筈の実の兄、信長のこともどこか信用出来なかった。
「お市様...武士は嘘偽りなく手を結んだ相手を状況が変われば突然、裏切ります。兄弟が、親子が殺し合い、仇と手を結ぶことを厭いません。」
『心を、武士を標榜する者たちの真意を見抜いたところで何の役に立ちましょう?』
最後の言葉は市の心の中に響いた。
「そう...だから、そなたは武士が嫌いなのでしたね。」市は白夜から送り込まれた膨大な情報のひとつを整理する。
「それでは、そなたの考えが聞きたい。浅井と織田、この後どうなると思いますか?」
「某のような卑しき身分の者がそのような大それたことを口にする訳には参りません。」
「良いではありませんか?おなごと子どもの世間話ですよ。」
市は白夜をリラックスさせようとわざと膝を崩してみせた。その様子に白夜は笑顔になり、ときは反対に眉を寄せた。
「それでは...あくまで某の思うところでございますが、御屋形様とお市様は大変仲睦まじく、両家にとって良き道標となっておられます。しかしながら御尊父(久政)様を中心に多くの方々が朝倉との縁こそ大事かるべしと思っておいでございます。」
「尾張守は、朝倉とは事を為さぬと約しておられます。御上(長政)も尾張守を本当の兄の如く慕っておいでなのですよ。」市はまるで白夜に抗議しているように言った。
「確かにそうでございましょう。御屋形様は戦国大名には珍しいほどに誠実な方、尾張守に示している誠意は本物でございます。しかし、御家臣に対してもやはり誠意を尽くそうとされます。平時はそれで構いませんが、いざ事が起きた時には板挟みとなり苦しまれることになりましょう。」
「その時は白夜の力で御上と尾張守を救って頂けませんか?」
市は膝を揃えて座り直した。
「某の力など狐狸の類いと変わりません、人を惑わすなどはほんの一瞬、世の流れを変えるような力ではないのです。今のところ朝倉家に公方様がおいでですから尾張守は朝倉家に手は出せません。しかし加賀の一向衆は強力、越前殿は国を空けるなど不可能、公方様の上洛のお手伝いなど出来ますまい、いずれはお見限りになられるはず、その時は尾張守様は我こそはと名乗りを上げられるご様子。」
「やはり、そなたは歳に似合わぬ事情通のようですね。」市は感心する。
「『天下布武』の朱印は幕府再興を誓ったものと尾張守は公言されておられます。」
「そうは思っておられぬ方々も多いことは存じております。」市はため息をつく。
「こちらにとって善きことはあちらからすれば悪しきこと。野心の収まらぬ公方様が尾張守様の誘いに乗って織田家にお移りになられたら時代は大きく動くことになりましょう。」
市は大きな瞳をさらに大きく見開き、いざり寄って白夜の躰をひしと抱いた。
「やはりそなたは神が使わした子。どうか浅井を...織田をお救いください。」市の躰は小刻みに震えていた。
「市!市はおらぬか!」長政が廊下を歩いてくる。
市は白夜を解放し、素早く炉の傍に戻った。直後、無遠慮に襖が開かれ長政が現れた。
長政が出入り口に立ちふさがっているため庭へと抜けることも出来ず仕方なく部屋の隅で畳に額を擦り付けた。
「ほぉ、可愛い来客があったようだな。」長政は茶道具と白夜を見比べる。
「喜右衛門殿の小姓、白夜殿でございます。お話しがしたくてお役目と知りながら妾が無理やりお連れしました。どうか叱らないであげてください。」市が両手をついて頭を下げる。
「なんの叱るようなことがあるものか。白夜よ、奥方殿のわがままに付き合ってくれたこと礼を言うぞ。喜右衛門からそちのことは聞いておる。とんでもない掘り出し物で将来が楽しみと言うておったぞ。」
長政は上座に座った。
白夜はその間に庭に駆け下り地べたに平伏する。
「御屋形様、若い者をそう手放しに褒めてはなりません。図に乗ると伸びるものも伸びなくなってしまいます。」
戸口に控えた直経は日頃の鬼の如き強面を温かな笑みに変えていた。
「奥方殿!公方様が義兄のもとにお移り遊ばされたぞ。」
長政は上機嫌であった。
市はほんの数十秒前、白夜が口にしたことが予言であったように思え庭先で地面に額を擦り付けている少年を見つめてしまう。
「どうしたのだ。まさに武家の誉れ、義兄の名誉はそなたとこの新九郞の名誉でもある。」長政は我が事のように誇らしげだ。
「たった今、白夜に浅井と織田は今後どうなるか聞いておったのです。白夜は公方様はいずれ朝倉を見限って織田を頼ると予想しておりました。そして、そのとき時代は大きく動き出すと...」
ここだけの話しだと発言を誘ったくせにあろうことか市は長政と直経に漏らしたのである。
「な!なんと!不遜であるぞ。白夜、慎め!」直経が叱りつける。
「喜右衛門殿、どうか叱らないであげてください。妾が、女と子どもの世間話と安心させて無理やりに話させたのです。」慌てて謝った市は深く頭を下げる。
「まあまあ、良いではないか喜右衛門、幼いのになかなかの慧眼。白夜とやら、そちの言う時代はこれからどう動くのか申してみよ。」長政はポンと膝を打ち身を乗り出した。
白夜は顔をあげ、チラリと直経の顔色をうかがう『振り』をした。
「御屋形様がおっしゃっているのだ。思う通りに話してみよ。」直経は苦笑している。
「恐れながら某、門前の小僧でございます。道理を知らぬ愚か者の浅知恵と笑い飛ばしてお聞きください。尾張守様は公方様を奉じて上洛され、朝廷に公方様の将軍宣下を迫るはずです。しかし、足利将軍は傀儡も同然。かつての執権、北条のようなやり方は尾張守の好むところではないと思いますが、実権は尾張守様のものと言っても過言ではありません。幕府再興の名の下に国中の大名の忠誠を迫られることになりましょう。尾張守様に匹敵する大大名は数多おられます。しかし、武家の方々は権威に大層弱い。尾張守様は天下人となられるでしょう。」
そこで、白夜は一息おいた。
「天下人とは、将軍様がおられるのだぞ。」長政が口を挟む。
「なにも一番上に立つことはないのでございます。先ほど述べました執権然り、関白然り、摂政然り、そもそも、将軍の職そのものが天子様より賜った臣たる証、幕府が国を治めるはもとより僭王の政治、実質が一番上か二番目かが大事ではなく、実権を握った者が天下人なのです。」
「白夜...それ以上はおよしなさい。」さすがに心配になったのか市が止めようとする。
「いや、良い。続きを聞かせよ。」長政の顔から笑顔が消えている。
「はっ、では...尾張守が将軍の名の下に発布する号令に従わぬ者が当然出て参ります。一番に思いつくのは浅井家の同朋、朝倉家でございます。朝倉家は将軍家とも縁深い古き家柄、それも少し前まで公方様をお守りしていたのです。これでは朝倉家の面目は丸つぶれ、少なからぬ遺恨が残りましょう。御屋形様は朝倉家と織田家の間に立つ御身、ひとたび事が起きればどちらに味方為されるのでしょう?」白夜は正面から長政を見た。
「ぬぬぬ...子どものくせに...」腰を浮かし掛けた長政は市が鋭い視線で自分を凝視していることに気づき、再び腰を落ち着けて深く息を吐いた。
「案ずるな。義兄は朝倉とは事を為さぬ約束しておる。白夜の申す通り、義兄は幕府再興を果たすであろう、及ばずながら余もその手伝いをするつもりだ。もしもの時は朝倉殿と義兄の間に入り、全て丸く収めてみせようぞ。市よ、こんな子どもにまで心配を掛けてしまうとは余も情けない...しかし、家中にいない人間だからこその発想であるな。白夜よ、喜右衛門の下でこれからも励むが良い。」長政は芽生えた懸念を吹き飛ばそうとして朗らかに笑った。
「御上...妾も白夜も御上がお優し過ぎる事が心配なのです。」市が呟く。
「優し過ぎだと?余は理不尽な事が嫌いなだけ...だが、なにゆえ優しいと心配なのだ?」長政は首を傾げる。
「家中には様々なお考えの方がいらっしゃいます。その中には御屋形様と全く反対の考えをされる方もいらっしゃいます。」市の代わりに白夜が応える。
「よもや...それは父上(久政)のことを言っておるのではあるまいな。」長政の声が怒気を孕んでいたが白夜は少しも意に介していないようだった。
「小谷の方様に羊羹と薄茶をご馳走になりました。某、どちらも生まれて初めて口に致しました、美味しくて感激でございます。御礼がしたいのですが...例えば、家中におられる御屋形様と対立する分子の方々の粛清を某がお引き受け致しましょうか?その後ならば万福丸様の救出も容易かと...」
戦国時代ゆえに人の死を常に身近に見てきた三人の大人であったが、あどけなささえ残る九歳が発しているとは思えない言葉に凍りついた。
「怖ろしき事を口にする子だ。さすが夜盗同然の傭兵に育てられただけはあるな...もうよい、下がれ。」
そう命じた長政であったが、自分の方が先に立ち上がってふらふらと出て行ってしまった。
「白夜よ、其の方には浅井家に仇なす者が分かるのか?」直経が尋ねた。
「仇なす者は時と場合によって代わります。某も喜右衛門様さえもそれとなる可能性はございます。間者も少なくありません。しかし、その者どもさえ使いようによっては益となります。御屋形様も御隠居様(久政)も決して間違ってはおりません。いえ、おふたりとも大名なぞにしておくのが勿体ないほど高邁な御方たちです。しかし、それだけでは乱世は浅井家の舵取りは難しいものになりましょう。」
「難しいとはどういうことなのだ?」直経は重ねて尋ねる、そこには年長だからという尊厳にこだわる矮小さは微塵もなかった。
「はい、喜右衛門様。まずは尾張守様でございますが、進取の気性に富み、実に面白き御仁。しかし、格式を尊び因習に囚われることに喜びすら感じるこの国の人々では尾張守様を悪しき者と捉え敵となる方は多いでしょう。そして、孫次郎(義景)様は国盗りへの野心が感じられません。心ある家臣はいずれ朝倉家を見限るかも知れません。どちらに着くのが正しいかは某にも分かりません。ただ某は美味しいお茶と羊羹を頂きましたのでお市様のお味方を致したいと思ったのでございます。」
白夜の言葉に市は息を呑んだ。
「羊羹の礼に人を殺めるなど口にしてはならん。そして、小谷の方様を名前で呼ぶでない、不躾だぞ。」直経が叱った。
「妾がふたりの時は市と呼ぶように命じたのでございます。喜右衛門殿お許しくださいませんか?妾は白夜が弟のように思えるのです。」
「なんと...そうでございましたか?むむぅ~分かりました。しかし白夜、他の者がいる前ではそうお呼びしてはならんぞ。」直経は渋い顔していた。
「うふふ、白夜。そなたの誠意、有り難く思います。妾もそなたに出来る限りの誠意を尽くしましょう。そうそう、喜右衛門殿に叱られたら妾のところに逃げておいでなさい。」
「それは参りますな。それでは某うかうか小言も言えませんな。」
直経が大笑いし、その場は和やかで温かな雰囲気に包まれた。