敗戦と友の死
ジリジリと照りつける陽射しは本格的な夏の到来をつげていた。
織田、徳川連合軍の囲みを突破し、白夜が七尾山中にたどり着いたのは姉川河原で榊原康政の攻撃を横腹に受けた朝倉軍と、同じく激戦のさなか長く伸びてしまった陣形を横合いから稲葉 良通の攻撃を受けた浅井軍がともに崩れ出してから半日が過ぎていた。
「どうやら日没まで生き延びたな...」
ここまで逃げるのに何人の命を奪ってしまっただろう...10人までは数えていたが先回りされたうえに、追っ手が『種子島』まで持ち出したので余裕が無くなり数えるのを忘れてしまった。
「吾など...殺したとてさしたる手柄にもならぬのに...」
白夜は死体から奪った『種子島』を埋め隠した場所の目印をもう一度確認した。
鉄の塊は白夜には重過ぎて一挺ずつしか運べず三往復もしなくてはいけなかった...
それでも、売れば良い金になりそうだし、里の土産にすれば手先の器用なのがいるから仕組みを解明して新しい武器が出来るかもしれない。
白夜は一応、浅井長政の陪臣ということになるのだが、武士などになったつもりなどない白夜にとって雇い主は遠藤
直経~通称、喜右衛門~であり、その喜右衛門の主である長政がどうなろうと知ったことではなかった。
「喜右衛門様...長政様の小谷城も時間の問題でございましょう。お市様がいらっしゃいますが信長様との和睦は最早、叶いません...所詮、朝倉と織田は水と油...双方と上手くやろうなどと時勢を読めぬ長政様ではこの乱世を治めることなど不可能、いずれはこうなる定めだったのかもしれません。」
白夜が話し掛ける相手、直経は最早この世の人ではない。
首だけになってしまった直経は眠っているように目を閉じ、穏やかに笑っているようだった。そして、友であるその首を胴体から切り落としたのは他ならぬ白夜自身であった。
小谷城城主浅井長政の重臣である直経に小姓として白夜は仕えていた。
小谷城の北、金糞岳の山深き土地にある隠れ里の出身である白夜は未だ12歳の子どもであったが里長であった。
山の民とも呼ばれる里の人々は武芸に優れ、戦国大名の傭兵となって生計を立てていた。
前の里長が病に倒れ、その後を託されたのだが、白夜は彼女の実子ではなかった。
彼女と表現したが前の里長は名を弥生といい、亡くなった時はまだ二十歳の乙女だった。
幼少期、蛙の子は蛙とでも表現すべきか、運動神経が優れた里の子ども達の中でも、弥生は特にずば抜けた才能を持った子どもだった。
それは10歳で初陣を許されたことからも自明であろう。
そしてその日、首尾良く勝ち戦となって敗走する敵を追撃しているとき、戦火に巻きこまれ心の荒んだ兵士たちに蹂躙された村で生き残っていた乳飲み子を拾い、里の大人たちの反対を押し切って育てたのが白夜なのである。
10歳の誕生日を迎えた日、弥生は大人たちに混じって戦に同道することを許され、興奮で眠れぬ夜を過ごしているとき、小屋の板戸の隙間から眩しいほどの光が差し込んでいることに気付き、驚いて飛び起きる。表に転がり出た弥生の前に、真夜中なのに昼間のような...いや、昼間なら見えるはずの里の風景が真っ白に光って何も見えなくて、そこに『お多賀さん』と近江の人々に呼ばれ篤い信仰を受けている多賀大社の祭神伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱が現れ、弥生に話し掛ける。
「この子をそなたに授けよう、大切に育てるも良し、いらぬなら捨て置くも良し。」伊邪那岐命の腕の中には赤子が抱かれていた。
「よき雄に育つぞ。気に入れば夫にするがいい、我らのような良き夫婦になれようぞ。」伊邪那岐命が笑った。
神々しさに立ち竦んでいる内に気が遠くなり、目が醒めるといつも通りの朝だった。
里の大人たちとともに敗走する敵を追って人気の無い村を通り抜けようとしていると、一軒の家から人の争う気配が聞こえてきた。
残党が潜んでいるのかと覗いてみるとそこには家人らしき村人とその子ども達が無惨な死体となり、特に妻は裸にされ腹を割かれて息絶えていた。ところが、死体はそれだけではなく下手人であるはずの敗残兵共が刀を抜き放ち、鬼の形相で切り殺しあっているのだ。そして、その足下には両親と家族の血を浴びた赤子が籠に入れられて泣いていた。
しかし、狭い家の中、数名の男たちが暴れ回ったにも関わらず、赤子の入った籠は蹴り飛ばされることなく、今も生き残った二人の男は籠を敢えて避けるように走って飛び回り、刀を振り回していた。
『このままでは赤子が踏み殺される!』
そう考えた弥生は小太刀を抜刀して家の中に飛び込んだ。すると、不思議なことにそこは家の中ではなく、火山火口のような熱気と硫黄の臭いが充満する荒涼とした空間へと変貌していた。
訳が分からず、一時的に混乱した弥生だったが、激しく刀を打ち合う音で自分が幻覚を見ていることに思いあたる。
そして、やはりそこには二匹の醜い鬼が相手を殺そうとして鋭く長い爪で互いの体を切り割こうとしていた。
あの二匹の鬼は切りあっていた敗残兵に違いない。互いが化け物に見えているのだろう。弥生の里でも幻覚を見せる花が栽培されており、敵を錯乱させるという使い方をすることもある。しかし、これはそんなレベルではなかった。
ハッと赤子のことを思い出し、寝かされていた籠のあった辺りに目をやるとそこには底の見えぬ深い穴があり、赤子どころか籠も何もかも無くなっていた。
争っていた鬼の片方が切り立った穴の淵へと追い詰められ、足場の悪さ気を取られ遂に致命傷にはならないが腿の辺りを切られて絶望の雄叫びをあげながら穴の中へ落ちていった。
生き残った鬼は肩を大きく上下させるような荒々しい呼吸をしていたが、弥生に気づくと牙を剥き出しにして襲い掛かってきた。
「ふん、コイツに妾をどんな姿にして見せているのだ?」
弥生は鬼の爪を軽いステップだけで躱すと懐に踏み込み小太刀を肋骨の間に刺し、心臓と肺を傷つけた。小さな傷口だが心臓から溢れた血液が肺へと流れ込み、数秒で鬼は窒息して絶命した。
「赤子よ。信じがたいがこの幻覚を見せているのはそなたなのか?」弥生は赤子のいた辺り、今は大穴の中心部に向かって問いかける。
「そなたの親の仇、家族の仇は討ち果たしたぞ。妾は多賀の二柱の御神の神託を受けてそなたを救いに参ったのだ。術を解かぬか。いくら人外の力を持っていようと赤子ひとりでは今日の一日すら生き延びること叶わぬぞ。」
何故、昨晩見た夢をこの不可思議な現象と結びつけたのか自分でもわからないが、弥生は言葉と心で赤子に向かって必死で呼びかけた。
すると、地獄のようなその風景が歪み、やがて霞むように消えていき元の粗末な家の中に戻っていた。
足下には弥生が刺した侍が転がり、家人の遺体と殺戮の果てに幻覚を見せられて殺しあった敗残兵の死骸が八つも転がっていた。
そして、赤子の籠の横に倒れた侍は腿を切られただけなのに高いところから落ちて岩に叩きつけられたかのように潰れ息絶えていた。
「むぅ...穴など実際にはなかった筈、しかし...これは幻覚が現実に及ぶというのか?」
見渡してみると幻覚で作り出された火口のマグマに触れたのか火の気すらない床の上に焼け爛れた兵の死体も転がっていた。
赤子の泣き声が再び耳に入るようになり、弥生は籠に駆け寄ると家族の血を浴びた赤子は火がついたように泣いているのだった。
「よしよし、泣くでない。これからは妾がそなたの母となってやろう。」
10歳になったばかりの少女が抱き上げた赤子に向かって話し掛ける。
すると赤子が弥生の言葉を理解したかのように泣き止み、弥生の心の中に温かな感情が流れ込んできた。
「おや?妾を信じてくれるのかい?やはり、そなたは人の心を操る力があるのだな。神の子か、はたまた鬼の子か...その力、妾が良しというまで人に使うてはならぬ。約束出来なければ此処に置いていくぞ。」弥生は可愛らしい表情で自分を見つめている赤子に話し掛ける。
すると今度もまた言葉ではないが、わかった努力するとでも言っているような波動が流れ込んできた。
「その赤子どうする気だ。」
赤子を布で包み、躰に縛り付けて追撃本隊に戻ってきた弥生に今回の指導役になった里の男が尋ねる。
「親も家族も皆殺しにされていた。妾が母となって育てる。」
「バカなまだ首も座らぬ乳飲み子ではないか、乳も出ぬ弥生がどうやって育てる?それに里にも今は赤子のおる女子はおらん、連れ帰っても飢えて死なせるだけだぞ。お役目の邪魔になるだけ、此処に置いてゆけ。」
「イヤだ。同じ死ぬにしても妾の腕の中で死なせる...こんなところでひとりぼっちであの世になんて行かせられない。お役目はきちんと果たす。」
「命令だ。置いていけ。」厳しい声で男は言う。
「その命令、撤回しろ...でなければ切る!」
弥生は小太刀の柄に指を乗せた。弥生の全身から瘴気のように殺気が立ち上った。弥生はすでに里でもかなう者がいないほどの小太刀の使い手になっていた。
「くっ、勝手にしろ。里長には報告するからな。」男は吐き捨てると他の者の後を追って走り出していった。
「仕事が終わったら、そなたの親兄弟を弔ってやるからな。」
弥生は赤子に優しく話し掛けると仲間を追って全速力で駆けだした。
里に連れ帰っても、里長は元より、弥生の母にまで反対され、その雰囲気を敵意と感じ取ったのか赤子は弥生以外の誰も寄せ付けない波動を放つようになり、その不可思議な感覚を里人は不気味がった。
白き夜の夢のお告げで授かった子であるから、弥生は赤子を白夜と名付け、重湯を与えて白夜の飢えを満たした。しかし、未だに乳が必要な白夜は重湯を消化しきれず下痢をし、次第に痩せ衰えていった。
「そんなに乳が欲しいのかい?」10歳の少女が乳飲み子に話し掛ける。
乳を欲しがり、小さな口をモグモグと動かし続ける白夜に弥生は自分の乳首を含ませた。
「妾のはまだ乳などでやせぬがこの世の名残に吸ってみやれ。」
少年と見分けがつかないくらいの平らな乳であったが、小さな口が吸い付くと弥生はゾクゾクするような女としての喜びにたじろぎ、母性を目覚めさせたのだった。
まだ幼く、当然だが処女である弥生なのだが、不思議なことに白夜に乳を吸わせ始めて数日後には本当に母乳が出るようになっていた。
父は優秀な戦士だったが弥生が物心もつかぬ内に戦場で仲間を守って若い妻と幼子を遺して英雄となった。ひとりで苦労して弥生を育てあげた母親は弥生の今後を心配して子の出来ぬ里の女に白夜を譲るように何度も説得したが弥生は頑として受け付けず戦から戻ると報酬を受け取りに行くのも忘れて白夜に乳を含ませていた。
母乳が出るようになって以来、白夜は不思議な力を使わぬようになり、弥生もあれは初めての戦場の緊張と興奮で見た幻ではなかったかと思い始めていた。
オッパイもオシメ替えも手際良く出来るようになると、里の女たちから物言わぬ赤子の気持ちが分かるのは本当の母親になった証とからかい半分で褒められてなんとなく誇らしい気分になっていた弥生はそれから数日後、白夜が直接心の中に語り掛けていることに気づかされる出来事に出くわしたのだった。
それは言葉としての体裁を持つものではなく、『思い』と呼ぶべきものかもしれない。その日、斥候の任務遂行中に敵の陽動部隊と遭遇し、戦闘となった時に受けた矢傷を白夜が心配しているのが伝わってきたからだった。
「おぉ、白夜...そうか心配してくれるかや、初めて会うた時からそなたは不思議な子であったがやはり人の心と通じ合うことが出来るのか。」
しかし、白夜は弥生以外にその力を使って語り掛けることはなく、弥生もまたそのことを誰にも教えることはなかった。
長じて後、白夜もまた他の里の子どもと同じく傭兵となるための適正試験を受ける資格を得た。
それは現代でいうサバイバルゲームのような感覚で、子ども達が単独で金糞山中に放たれ、遭遇する相手と闘ってリタイアさせ、或いは屈伏させて配下にして、二日間を山で暮らすというものだった。
ところが、相手の心が読め、しかも影響を与えることすら可能な白夜にとってこれほど容易いゲームはなく、ちょうど同じ年頃の子どもがおらず、四つも五つも年上の子ども達に混じっての参加にも関わらず、サバイバルどころか初日の午前中には柄物まで隠し持って殺気立っていた年嵩の少年たちを蔓草で幹に縛り付けたり、逆さに吊しあげたりと次々に屈伏させ、昼過ぎには全員を配下に治めて、狩った猪を捌いて焼肉パーティーを始めてしまっていた。
これにより、里でこの試験が行われるようになって、ただの1度も中途で終了するということのなかった二日間という試験日程を中断するという判断を試験監督たちはせざるを得なかった。
訓練が始まるとあらゆる面で仲間や先輩たちまでをリードし、忽ち頭角を現して天才と証された育ての母の弥生の最年少記録を塗り替えていき、わずか六歳で初陣を飾ったばかりかいきなり手柄をあげ、論功行賞の場にまで侍どもに混じって立ち合うほどだった。
直ぐに、里一番の精鋭部隊の一員として弥生とともに働くことになり、18歳の小娘と8歳の子どもが戦場を駆け抜けると戦況が一変するという事態が幾たびも起きるようになった。
それは、白夜が事前に敵側の作戦を察知し、心に届く声を使って弥生に届け、類い希なる身体能力を持つ弥生が指揮を執り、活躍するのであるから当然であろう。
仕事が増え、当然戦国大名らが提示する依頼料も高騰していき、里はこれまでにないほど豊かになっていった。
しかし、捨て駒のつもりの傭兵部隊が臨機応変に作戦を変更し、その悉くが多大な戦果をあげているという事態があまりに続くと戦国大名たちも小さな傭兵の村と軽く見てはおられぬようになってしまった。
武士団の一員として迎え入れようとする誘いがくるのと同時に、いつ敵方として立ちはだかるかわからないという恐怖から里の殲滅を企てる戦国大名も現れるようになり、白夜と弥生は里から離れられないという状況に陥り、実力があるばかりに返って窮地に立たされることになった。
どこにも所属しない独立した戦闘部隊であることでたとえ負け戦になったとしても里人の安全までが脅かされることがなかった里の処世の方針を変更し、この混迷の時代を生き残る実力のある戦国大名の配下に入り、里の安堵をさせる必要が出てきたのである。
しかし世は戦国、群雄割拠の時代、信長が今川義元を破ったように強大なものが生き残るという簡単な図式で解せる時代ではなくなってしまっていた。
世の行く末を見定めることが出来なくなっていた老いた里長は数多の苦境を見事に切り抜けてきた弥生に里の命運を託すしかないと宣言。こうして、18歳という異例の若さで弥生は里長に就任したのである。
弥生は、まず最初に8歳の白夜を自らの補佐役とすると宣言した。弥生からしてみれば神すら欺く作戦と勝利、行動の全てを白夜のアドバイスに従っていたので当然でなのであるが、そんなことはつゆ知らない多くの里人は猛反発した。
中でも適齢期の若い男達の白夜に対する敵愾心は強く、その原因は山賊と大差ない山の民の血を引くとはとても思えないくらいに美しい女性に成長した弥生がいくら赤子の頃から育てているとはいえ、異常なほど白夜に執着し、彼女に思いを寄せる男達に微塵も関心を示さないことに不満を持ち、未だに精通すら迎えていない白夜のことを妬み、戦の混乱に乗じて命を狙う者まで現れた。しかし、白夜は難なくそれを躱しただけでなく、囮にして生死の境を彷徨わせるというしっぺ返しをして懲らしめていたのだ。
そんな事情もあって里を出奔する者もあったが若すぎる長には心の支えも必要であろうと長老自ら説得して回り、受け入れさせていったのであった。
当時、白夜たちが暮らす金糞山は浅井家の領地であったが浅井家は主家の京極家と対立したため、同盟を結んでいた朝倉家の支援を受けても六角家からの攻勢に耐えられず、ついに長政の父、久政は六角義賢の属国となることを受け入れた。
長政は当時、義堅の偏諱を賜り、堅政との諱を使っていた。そして、義堅の家臣、平井定武の娘を正妻としたが、後に久政が六角家の家臣の義理の子になるように命じたことに反発、久政を強制的に隠居させ家督を相続し、六角家からの独立を宣言して平井定武の娘を主家に帰し挙兵、すぐさま侵攻してきた六角家2万の大軍を15歳の長政が1万の軍を率いて打ち破ったのである。
そんな浅井家に里の未来を託すことに決め、仕官を申し出た。
浅井長政の重臣、遠藤喜右衛門は金糞山の里からやってきたという子どもが仕官を願い出ていると家臣から報告を受ける。
「ふむ、金糞山の里人だと...美しいがとんでもない女首領がおるとは聞いておるが、我らが領内に住みながら勝手気ままに振る舞いおったくせに、仕官の願いなどと...子どもとはいかなる相貌じゃ。」
「それが、見てくれはほんの七つか八つ、それも京の公家どもの子のようでございます。態度の大きさがなければおなごと見紛うほどの麗しき稚児でございます。」
当時は男色も現代ほどタブーではなく、家臣はそれとなく白夜の容貌を一見の価値ありと伝える。
ところが、そのような悪趣味を忌み嫌う喜右衛門は忽ち不快感を露わにした。
「くだらん。直ちに追い返せ、ぐずるようならなんぞ菓子でも持たせてやれ。」
喜右衛門の一喝に震え上がった家臣は白夜を摘まみ出そうとした。
ところが、半時『今の1時間』ほど過ぎたころ、身の回りの世話をさせている小姓が襖の向こうで畏まって報告する。
「金糞山の小僧、ただ者では有りませぬ、家中総出で追い出そうとしましたが残らず打ちのめされて手も足も出ませぬ。」
確かに屋敷内で男どもがわめき散らす声が響き渡り、たかが子ども相手になんの騒ぎかと訝しんでいたところに思いも寄らぬ報告を受け、喜右衛門は興味が抑えられなくなってしまった。
この家の当主であることも顧みず喜右衛門は廊下を走り白夜が居座っている部屋の戸口に立った。
「これは上様、お呼び立てくださればまかり越しましたものを...有り難き幸せにございます。」白夜は庭先に駆け降り地面に平服する。
だが、その回りにはアワを吹いて目を回している歴戦の強者どもの憐れな姿があった。そして、それだけではなく抜き放った真剣すら転がっていた。
「こ...これは、いかなることか...」
すると、先ほどの小姓が震える口を開いた。
「こ、こやつが...帰れといくら言っても動こうと致しませんので、摘まみ出そうと...最初は松井様が...担ぎ上げようとするのですがまるで尻に根が生えたようにびくとも動きませぬ。それからこちらの方々が集まって来られて代わる代わる持ち上げようとなさったのですが、どなたがやっても同じことで、業を煮やした皆様方が総出で手を掛けると、こやつは『やれやれ』などと言いつつ軽く払い除けただけのように見えたのに皆様、へ、部屋の外まで弾き飛ばされてしまいまして、怒った松井様と坂本様が刀を抜いて切りつけましたら、こやつが何と刃を素手で掴んで刀を握ったおふたりごと庭に放り投げたのでございます。」
説明を受けた喜右衛門は俄には信じられず、庭先に平伏する少年と昏倒する家臣を見比べていた。
「家の者が失礼した。儂がこの家の主遠藤喜右衛門である。」
「ははっ、某金糞山の隠れ里の白夜と申します。此度は遠藤様にわが里の長弥生からの書状を預かってまいりました。」
「金糞山の里は何処の大名にも属さぬと聞いておるが...」
「それが、このところ仕事を少々やり過ぎまして、先日も六角様の軍勢が里に来られてしまい。」
「5000と聞いておるが追い返したのだろう?」
「5000とは大袈裟な3000でございます。それから追い返したのではなく皆様討ち死にされております。」
「ふぅむ...六角家と浅井家は因縁があるものの今は休戦を約しておる。今の話しは聞かなかったことにしよう。とにかく其の方、土を払って上がって参れ。」
喜右衛門は幾分落ち着きを取り戻すと小姓に振り返った。
「他の者も呼んでそこらで伸びている者どもを起こせ。」
すると、代わりに白夜がそれに応えた。
「某が起こしてさし上げましょう。」
そう告げた白夜がパンパンと2回手を打つと伸びていた家臣達が一斉に目を覚まし、体を起こしてキョロキョロと辺りを見回している。そして、白夜を見ると松井と坂本は投げ出されたままの刀の柄に手を伸ばした。
「止めよ。このような童に刀を抜くとは何事か。」喜右衛門が一喝する。
「こ、これは殿、おいでになっていることに気づかず失礼いたしました。」
庭先にいた松井と坂本だけでなく、座敷内で転がっていた家臣達も一斉に庭に駆け降り地面に額を擦りつける。
「其の方ら揃って余をからかっておるのではないか?」
「滅相もございません。こやつ、子どものなりをしておりますが、とんでもない...化け物でございます。」松井が白夜を指さす。
「酷いな~松井様、怪我させないように気を使ったのに。」
白夜の言葉に松井と坂本は自分の着物や体を見回した。
「本当じゃ、あれほど振り回されて庭先に叩きつけられたはずなのに土が付いている他は傷もないし、着物も破れておらん。」坂本は立ち上がって不思議そうに自分の体中を見回している。
「白夜と申したな。これはどういうカラクリなのじゃ?」後でゆっくり聞こうと思ったが喜右衛門は好奇心に負けた。
「松井様、坂本様、よ~く思い出してくださいませ。」
白夜の言葉にふたりは顔を見合わせつい先ほどの出来事を思い出す。
大人が6人掛かりで子どもひとりを抱え上げようと...いや、違う...自分たちはこの子の周りでうなっていただけで手すら掛けていない。そして、跳ね飛ばされたと思って自分でひっくり返えり、腹を立てて刀を抜いた後、白夜が指差した庭に自分で歩いて降りてゆき、刀を投げ捨てて寝転がったのだ。
「思い出した...投げ出されたのではない。某は自分でここまで歩いてひっくり返えったのだ。」
「なるほど、面白い技じゃ。白夜を儂の部屋へ通せ、ゆっくり話しがしたい。」喜右衛門は目を覚ました家臣に告げると自分の部屋へと戻っていった。
「全く...怖ろしい術を使う子どもじゃ。これ、そのような汚いなりで殿の御前に出てはならん。着物を出してやるゆえこちらで着替えよ。」先ほど刀を抜いた時の鬼の形相とは打って変わって松井は人の良さそうな笑顔で手招きする。
「うぅむ...美しい、そなた余にではなく、大殿様の小姓にならぬか?」
着替えさせられ、山賊のような風体から正装に変わった白夜は雅やかで喜右衛門には自分より戦国武将としては随一の美青年である長政の小姓になるのがふさわしく思えた。
「某のような危険かもしれない者を大殿様に近づけてはなりません。喜右衛門様ともあろう智将が軽率でございますよ。」白夜がクスツと笑った。
本来なら下賤の者がこのような口をきいたらただでは済まないのだが、喜右衛門はこの一瞬で白夜のことが気に入ってしまった。
「里長から預かってきた手紙を見せてみよ。」
すると、白夜から預かっていたのだろう。小姓のひとりが三方に乗せた書状を恭しく喜右衛門の前に運んできた。
開いて見ると美しい女文字で里の窮状と浅井家の配下に加わり、加勢する代わりに里の安堵を得たいとの願いが書き記してあった。
「今さら...と言いたいところだが、儂は其の方が気に入った。しかし、家来とするには少々幼過ぎる。小姓を召し抱えるような身分ではないが、しばらく吾が下で修行するが良かろう。」
「有り難き幸せ。しかし、夜伽は致しませんよ。」白夜は控えていて家臣達に聞こえるように言った。
「当たり前じゃ!儂は男なぞ抱く趣味はない。」
「良かった。やはり、喜右衛門様を主にしようと思った其の目には狂いはなかった。」心を読んでいた白夜は喜右衛門がそういう男であることは先刻承知であったが、自分を召し抱えたことで家臣達に妙な疑いを持たれるのは避けたかったのだ。
『御母様、予定通り喜右衛門様の小姓になりました。』白夜の心の声がここから数十キロ離れた金糞山中の避けたかったにいる弥生の心に届く。
『御母様、お加減は如何ですか?お昼は召し上がりましたか?』白夜の問いかけが続く。
弥生は里長になってこの2年、次第に厳しくなっていく近江の土地で里が生き残っていく為に里長として必死に働いてきた。
その疲れが出たのだろうか、数ヶ月前から食欲がなくなり、急激に痩せてしまった。白夜が不思議な力で痛みを取り除いてくれているらしく、先日の六角家の軍勢が里を襲った時には白夜から少しの間我慢していて、と念じる声が聞こえてきたと思うと胃が焼かれるような激痛が走ったのだ。
よほど焦っていたのだろう、白夜は3000の将兵を皆殺しにした。普段は必要のない人殺しは決してしないのに弥生のことが気になって手心を加える余裕がなかったのだろう。
白夜や弥生にはわからないことだが、弥生は胃ガンに犯されていた。 白夜は超常ともいえる力で弥生の余命が残り僅かなことを感じ取っていた。そして、自分が死に対して無力であることも、思い知らされていた。
弥生の痛みを取り除くだけで力の半分以上が必要だった。
~人を殺すのはかまどに薪を焼べるくらいに簡単なのに、痛みを感じさせないだけでこれほどの力が必要だとは...御母様に住み着いた 病魔を退治出来ないなんて、吾のこの力はやはり悪鬼より授かったものなのか?~