第三話 助太刀した
左手を確認するが、別にいつも通りだ。多少傷ついてはいるが、それは殴る前の着地や木に登る際に付いたものである。こんな死に体とでも言うべき状態から放った、黄金の右どころか利き手ですらない僕のパンチ一発で、こんなにデカくて重い熊を殺せた? そんな馬鹿な。現実ではあり得ない。
あり得ないと言えば、僕の体もそうだ。あの高さから落ちて、なぜこの程度の負傷で済んでいるのか。今僕がいるのは、別に柔らかな枯れ葉の上なんかじゃない。即死を免れたとしても、こうして辛うじてとは言え身を起こせるというのはどう考えても異常だ。
右手の指もきちんと五本ついたままだし、腕自体も筋を酷く痛めたときのようにズキズキとするが、あの一撃を食らった割には驚くほどの軽傷だ。少し離れたところに転がっている、ボルトを填めるための穴すら見るも無惨に変形してしまった金属を見ればはっきりわかる。
少し落ち着きたくて、腰に差していたペットボトルからスポーツドリンクを少し口に含む。落ちた衝撃で破裂していなくて本当によかった。
ただ、このままここに座っているのはよくないだろう。死んだ熊の血の臭いを嗅ぎ付けた他の動物がやって来たなら、僕は格好の餌食だ。
恐る恐る、時折呻き声を上げながら両手をつき、四つん這いの姿勢になる。立てるだろうか……。
「いだだだだっ! ギブッ! ギブゥッ!」
膝立ちから、足の裏で二足歩行を試みたものの、まだ無理だったようだ。大声は明かにまずい状況だと言うのに、誰にともなく降参宣言が口を衝いて出る。恥ずかしい……誰も聞いていなくて本当によかった。
鼻をすすり、涙と脂汗が浮き出たのを感じたまま、仕方なくこの体勢で移動を開始する。幸い、先ほど木に登ったときに道のある方向はわかっているのだ。ならばゆっくりとでも着実に進み、出たならそこを辿って街へ向かえばよい。
顔に草が当たり不快に感じながらも、そろそろと森の中を行く。行くのだが、こうしているとまるで○頼伝涯の犬の部屋生活を長く送り過ぎた入所者のようで、なんだか気が滅入ってしまう。
もしこのまま街まで辿り着けたとしても、僕は人間学園に入所したばかりの涯たちのような反応を衛兵にされてしまうことだろう。衛兵さん、驚かせてしまうけどごめんなさい。
そんなこんなで、文字通り這う這うの体で森を抜け出し、ようやく道へ出られるというときのこと。馬の鳴き声のあとに、すぐ近くから悲鳴が聞こえた。
「ま、魔物だ! 誰か助けてくれぇ!」
人がいる! 魔物という言葉がやや引っ掛かったものの、その希望に活力を見出だした僕は、気づけば手足を動かすスピードを速めていた。
藪を抜け、開けた場所へ顔を出す。道だ。そこでは、馬車を前に襲いかかろうとする先ほどのと似た赤毛の熊と、それに対し勇敢にも立ち塞がる外国人二人の姿があった。
「このクマ公めっ、アタシが相手になってやる。かかってこい!」
「くっ、は、ハワードさん! ここは私たちが抑えますからっ、今のうちに逃げて下さい!」
「む、無理だ! 馬が怯えて言うことを聞かん!」
道へ出て、そちらへ向かい必死に手足をばたつかせている間も、彼らの声が聞こえてきた。顔を上げると、剣や杖を携えた二人は赤毛の熊に押されつつある。このままでは、押し切られるのも時間の問題に見えた。
ふと気がつけば、ちょうど近くにソフトボール大の石が転がっている。どういう理屈かはわからないけれど、さきほど素手で熊の頭をディフェンスごとぶち抜けたように、こいつを投げつけて援護できやしないだろうか。
もしかしたら、隠れていたほうがいいのかも知れない。あの人たちがやられ、あの赤毛の熊がどこかに消えてから、改めて街へ向かうほうが安全だろう。けどーー。
「おい! 今助けるぞ!」
叫ぶと、戦う二人、馬車の男、赤毛の熊が揃って僕のほうを見た。
「ヴ!? ヴオオオオオオ!?」
「え!? あ、危ないからお逃げなさい!」
「お、おいおい!? そんな手負いで何ができるんだよ!」
「むしろ待っていて下さい! この魔物を倒したらすぐ助けます!」
せ、せっかく勇気を出したと言うのに、なんだろう、この反応……。しかしおかげで、熊の注意はあの人たちから逸れた。
関節でグリップする形で鷲掴みにした石を右手に持つ。いつの間にか、右腕の痛みも重めの筋肉痛と呼べる程度のものになっていた。片膝を立てた状態で、少し体の重心を引き下げながら、ソフトボールを投げる要領でボールに見立てた石を耳のそばへ持っていく。
拾い上げたときより軽い感触。さっきのようにいける。その実感とともに腕を振って投擲すると、山なりではなく真っ直ぐ飛んだ石は振り返る形になっていた熊の頭部にぶつかり、多少勢いを落としたあと、奥の森の木の何本かにぶつかって止まる。頭の欠けた熊は、糸が切れた人形のように音を立てて地面へ倒れ伏せた。
「えっ、し、死んでる!? 嘘だろ!?」
「助かった、のか……?」
「ああ……神よ、感謝します」
よかった。無事倒せた……そう安堵した瞬間、視界が激しくグラつき、空と地面が裏返る。え? と疑問を持っている間に、体に力が入らなくなって、目の前が真っ暗になった。
「お、おい君! しっかりたまえ!」
「大丈夫! まだ息はあります!」
「そっちの肩持て! この坊主馬車まで運ぶぞ!」
孤立せよ…!