第二話 素手なのに熊を倒せた?
「山で迷ったら、登れ……だったか?」
昔聞き齧った言葉を呟いてはみても、ここはあまり傾斜がなさそうだ。周りの木々も似た形をしていて、そのうえ僕には樹木に関する知識もない。これでは、すぐに迷ってしまいそうだ。木にでも登るか?
まだ汗が乾ききっていない皮手袋を脱ぎ、高く伸びていて幹の太い木を探した。するとちょうどいい木があったので、抱きつくようにしながら、素手と安全靴でえっちらおっちらと登っていく。
おかしいな。子供の頃は、もっとスムーズに登れたはずなのに。それでも心の中には、ほんの僅かとは言え童心に帰ってしまう自分がいて、ほんの少しおかしかった。近所の子供たちと、高い木や柱、フェンスなどに意味もなくよじ登っては叱られたあの頃は無邪気でいられたな。生きるうえで負わなければならない責任が、今よりずっと少なかったからだろうか。
中程の高さを過ぎ、他の木の頂点が胸や腹の間ぐらいまで登ると、辺りを一望することができた。
まず、見渡す限りほとんどが森である。地形にはこれといった凹凸も見られず、盆地というわけではないらしい。
そんな生い茂る緑の中、道らしき白めの土のラインが見え、それは城壁に囲まれた小さな町へと続いていた。いよいよ本格的にわけがわからない。
さらに門の前には、槍を持った鎧姿の男たちが立っていた。さながら、映画や漫画に出てくるヨーロッパの衛兵と言った装いである。そう言えば、遠くからではあるが白人に見えなくもないような……。
「どうしよう……」
あらかじめ言っておくと、僕の語学力はさっぱりである。英語は中学一年生の頃からボロボロで、一度テストで一桁近い点数を取ってしまった際には、担当の教師から呼び出しをくらい、「もっと頑張るように」と放課後叱られたこともあるほどだ。
地元を離れてからは、外国人に道や手続きの方法などを尋ねられても、スマートフォンの翻訳に頼りきりだった。当然今日はさっきまで仕事中だったので、そんな都合のいい文明の利器が現在手元にあるわけもない。英語なら単語を拾ってギリギリ意味を理解できても満足に返答できないし、それ以外ならお手上げだ。
だいたい、どうして鎧なんか着込んで槍を携えているんだ? あれは行事の日に着る特別な衣装なのかも知れないけれど、普通はその近くに、本来の警官と言うか、そういう現代的な装備の人間がいるはずだ。なのにあそこには、そういう人間が隠れる場所もないように見える。
「参ったな。これじゃあどうにもーー」
そう一人ごちかけたとき、足元からただならぬ気配を感じた。息を飲んで視線を向けた先では、赤毛の熊が木に掴まり、既に足まで掛けている。そしてそのまま、僕のほうを見ながら意気揚々と登ってきたのだ。
ある田舎では、立ち入り禁止区域に入り込んでまで山菜を多く取ろうとしたお年寄りが熊の餌食になり、その熊が人の味を覚え危険な事態になっていると聞いたことがある。普通の熊は、人がいればそれ相応の警戒をし、無闇矢鱈と攻撃しては来ない。
なのに着々と距離を詰めるこの赤毛の熊の様子とくれば、まるで真夏の動物園で氷付けの果物をもらった白熊そのものである。間違いない。こいつは、人の味を知っている熊だ。
敷物や傘を広げて追い払うという手段は、僕を獲物として見ているこの熊にはもはや通じないだろう。走って逃げたところで、時速五、六十キロで走るこいつから逃げることはできない。脳裏に浮かぶのは、かつて読んだ三毛別羆事件の惨状だ。自分も、生きたまま内臓を食われ土饅頭にされるのか。
それはなんとも嫌な死に方だ。あのまま重機で死んでいたほうが、まだよかったかも知れない。そう後悔しながらも、僕は腰袋に差してあった、片方はボルトを締めたり緩めたりするための穴が空いており、そしてもう片方は杭のようにやや曲がりながら尖ったものを取り出す。
以前格闘技に精通した人間が、熊の目を素手で潰して追い払い、九死に一生を得たという話を読んだことがあった。僕には格闘技の経験など体育の授業の柔道程度しかないが、現実は準備不足を待ってはくれない。やるしかないのだ。どうせ死ぬなら、戦って死んでやる。
僕は熊の身長や体重を知らない。それでも奴は、人からすれば全身が筋肉でできているようなものだ。振り払う程度の一撃でさえ、僕の首をへし折る力がある。あるかもわからない隙を突き、千載一遇のチャンスを活かせる可能性に賭けるしかない。
大きな体であるにも関わらず、赤毛の熊はするすると幹に爪痕を残しながら登ってきた。少し口を開き、楽しげに見える呼吸を繰り返しながら、害意とも殺気ともつかない攻撃的な視線を僕へ向けている。獰猛、その言葉以外にない生物の接近に、恐怖と緊張で体が硬くなってしまう。
それでは駄目だ。腕だけの動作では不意を打つなど夢のまた夢。肩や胴体の部分に少しでもしなやかな、連動する部分を残して突き入れなければ攻撃など不可能だ。
来るまであと約五秒、近くで見るその大きさに圧倒される。三秒。冷静になれ、まだ早すぎる。二秒。生きるも死ぬも、次の瞬間決まる。一秒、今!
赤毛の熊は、僕からの反撃を予測していなかったようだ。力みながらも真っ直ぐ伸ばした右腕の、その手に握った金属の先端が、熊の左目に突き刺さる。血は少し出たものの、眼球が潰れたというより、少し押し上げただけというような感触。やれたのか? そんな思いが胸中に浮かんだ次の瞬間、太い悲鳴のような叫び声を上げながら振り払う熊の腕で、僕は木から引き剥がされていた。
腕というより、肩から先が痛い。伸び縮みするバネ状のヒモが腰袋に繋がっていたにも関わらず、金属はどこかへ吹き飛ばされた。それどころか、今僕は高さ十数メートルの高さから不安定な姿勢で地面に激突しようとしている。終わりを予感し、無駄な努力と思いながらも、僕は着地の衝撃を少しでも和らげられないかと、足から地面へ着けるよう体を捻った。
着地した部分から体の裏側へと突き抜けるような衝撃を受けながら、僕は地面に激突した。ボディーブローを食らったときのように、どれだけ息を吸い込もうとしても肺に空気を送り込めない。どういうわけか、手で支えながら奇跡的に身を起こすことはできた。けど、立つことは無理そうだ。尻や腿の裏に力が入るため脊髄の損傷もなさそうだが、落ちた際に強くぶつかった衝撃で膝も足首も痛めてしまっている。他の全身と違い痛いだけでなく、まるで動かせない。
先ほどと同じ気配がしたので振り向くと、怒った熊が左目から血を流しながら近づいてきた。手負いの動物は攻撃性が増すと言う。せめて左手で鈍器として使うため、ペンチに似た番線カッターを腰から取り出そうとしたが、痛みと焦りからか上手く引き抜けない。
終わった。食い殺される。どうして、こんなことになったんだろう。考えても仕方ないし、またこっちへ来たときのように、都合よく失神できる気配もない。誰がどう見ても詰みだ。
鋭い牙の間から涎を垂らしながら、赤毛の熊が顔を近づけてきた。その鼻へ、拳で殴りかかる。理性が無意味だと笑うのがわかる。それでも僕自身の、普段は流されるまま生きてきたくせして今さら死ぬのが怖くなった本能が、左の拳で鼻を打ちにいった。
当然熊は、それを払いにかかった。届いても腰の入らない打撃で致命傷などあり得ないが、届きすらしない。
しかし、次の瞬間、その腕だけの苦し紛れに急に力が込められた。僕自身の筋肉や神経による反射、位置エネルギーとも違う何かに後押しされた拳が、熊の腕ごと奴の鼻にぶつかる。毛むくじゃらの腕が潰れる音、本来分厚いはずの、熊の頭蓋骨がいとも容易く砕け、中身がグチャグチャになる感触。赤毛の熊は、そのまま僕へと倒れ込み、すぐに動かなくなった。
「……は?」
赤毛の熊の下からなんとか這い出て、どうやら本当に死んでくれたらしいことを確認する。今、いったい僕の体に何が起きたんだ?
ゴールデンカムイ面白いですよね。