第1章:高校時代 1話:にゃんこ先生現る☆
夕暮れ迫る校舎の一角。
2年7組の教室の窓側の席で、私は頬杖をつきながら校庭を見つめている。
その視線の先には彼がいる。
今日は彼の所属するサッカー部は練習のない日だ。
それでも彼はただ一人、黙々と校庭を走っている。
そんな彼から私は目が離せなかった。
今日こそは声をかけたい。
勇気を出して。
一週間前も一人きりで彼を待つことに成功したのだが、声をかけることは出来なかった。
だから今日こそは。
とその時、彼が走るのを止めて校舎の方へ戻って来るのが見えた。
私は慌ててガタンと立ち上がり、とっくに帰り支度の済んでいる鞄をひったくるように
抱えると、教室のある二階から玄関に向かってゆっくりと歩き始めた。
計算通り、彼はちょうど私が階段を降りている時に、水色のタオルで汗を拭きながら階
段を登って来た。
その姿を認めた途端、私の心臓はバクバクと激しく踊りだした。
両手は汗をかきまくっているくせに氷のように冷たい。
―お疲れ様、いつも頑張ってるね。―
何度も何度も練習した言葉を、早口で頭の中で3回唱える。
よし、言える。大丈夫。
彼が、階段を降りてくる私の存在に気が付いた。
私はたった今彼の存在に気が付いたかのようなふりを装って、「あ」と声にならない様
な声でつぶやく。
どんどん彼との距離が近づく。
あと5メートル。
3メートル。
1メートル。
−1メートル。
−3メートル。
−5メートル。
・・・。
まただめだ・・・。
だめ、なんにも言えない。
まともに顔を見ることすら出来なかった。
彼の存在を背後に感じながら、私はがっくりと肩を落とした。
恐る恐る階段の上を見上げてみると、彼はもう踊り場を折り返して二階に向かう階段を
登っている。
私は視線を自分の足先に戻すと、はあ、と深い溜め息をついた。
情けない。こんな自分、情けなさすぎる。
着替えてからまた降りて来るであろう彼を玄関で待つことも出来るはずだが、偶然が二
回もなんてあまりに不自然だ。
偶然は一回だからこそ堂々と「偶然」と言えるのだ。
その一回の偶然ですら何も出来なかった自分が、わざとらしい二回目の偶然に踏み切る
勇気なんてあるわけなかった。
私はとぼとぼと玄関に着くと靴箱から黒い皮靴を取り出した。
何となく気合いを入れるために今朝ピカピカに磨いてきた。
しかしその気合もむなしく、今の私は何て暗い顔をしているのか。
やけくそでバタンと勢いをつけて靴箱の扉を閉める。
そこには「楠木はるか」と私の名前。
― こら、くすのきはるか!何をやっているんだ! ―
天からの声が聴こえてきそうである。
私はもう一度溜め息をつくと、重い足取りで校門に向かった。
「はあ〜あ。」
今日何度目か分からない溜め息が、六畳の私の部屋にむなしく消えていく。
部屋中が溜め息の成分でいっぱいになっているみたいだ。
こういうの、恋わずらい、っていうのかな。
だって食欲旺盛なことだけが自慢の私が、夜ご飯もほとんど食べられなかったんだから。
これはもう病気だと思った方がいいかもしれない。
ベットの上で右を向いたり左を向いたり、枕に顔をうずめたりと落ち着かない。
今日の自分が情けなくて溜め息が出るくせに、彼と話をする自分を夢見て胸がドキドキ
と高鳴って、素敵な明日を期待してみたり。
そんなことを考えて私の表情はくるくると変わるが、最終的には暗い顔に戻って溜め息
をつく。
ここに戻ってきてしまうのだった。
「おい。」
うつぶせになって枕に顔を押し付けて悶絶していると、私の耳にかすかな声が聴こえた。
私はぎょっとした。
やばい、何これ。色々考え過ぎて頭おかしくなったかも。
「おいっ。」
もう一度、さっきよりやや強い口調でその声が聴こえた。
おばさんみたいなしゃがれ声。
何これ。まじでやばくない?
私は固まってしまった。恐ろしくて顔を上げることが出来ない。
私、霊感とか無いんですけど・・・。
てゆうか、今まで無いと思ってただけで、実はあったのかも?
お母さん!お父さん!って叫びたいのに声が全く出ない。
ただ石のように固まっているだけだ。
「おいって。霊とかじゃないから。あたし、あたしだよ。」
え、あたしって誰・・・。
あ。これってもしやちまたで噂のオレオレ詐欺?
もしかしてこの手口、すでに霊界にまで広がっちゃってるわけ??
おれおれ、とか言って人間を安心させといて、見たらバアーみたいな・・・。
その時、背中の上にどすんと何かのかたまりが落ちてきた。
私は心の中で「ヒイッ!」と絶叫した。
何これ何これ何これー!!!
するとそのかたまりが言った。
「あたしだよ、はるか。もう忘れちゃった?」
「・・・。」
「ほら、これ覚えてない?この感じ。」
背中を揉むような二つの小さな感触。
ん?
この感じ、すごく懐かしい。何だっけ?
え、もしかしてもしかしてこれは・・・。
私はすごく怖かったけど、何とかそのかたまりを見てみようと薄目を開けてゆっくりと
首を回してみた。
すると向こうがひょいっと私の顔をのぞき込むように、その顔?を近づけてきた。
その感触に私はまたも「ヒイッ」となったのだが、その感触はなぜかひどく懐かしい感じ
がした。
この、耳がくすぐったいような感じ。
ふんふんと湿ったような息。
そしてこの重さと温かさは・・・。
「ま、まさか・・・ブー??!」
背中のかたまりはドスンと布団の上に降りると、
「やっと気づいたか!相変わらずにぶいな〜はるかは。シャッシャッシャッ。」
と目を細めてしゃがれ声で笑っている。
ええ〜?これあり得ないんですけど・・・。
ブーは二年前に享年16歳でお亡くなりになった、我が楠木家の愛猫だ。
それが今になって突然現れて、シャシャとか笑いながら喋っている。
ええ〜、やっぱりこれあり得ないんですけど・・・。
第一この声。
ブーははっきり言ってかなりの美猫だった。
これはひいき目ではないと思う。
ブーはロシアンブルーのわりに黒目がちで少し毛がふさふさしていて、もしこの子が人
間だったら絶対女優になってる、と確信するほどめちゃくちゃ美人だったのだ。
それがこの見た目でこのおばさんみたいなしゃがれ声。
なあんかがっかりだな〜。
なんて言ってる場合じゃなかった!
「ほんとうに、ブー?なのかな?あはは。」
私がまだ信じられずにためらいがちに聞くと、
「まだ疑ってんのかい?」
と彼女はお得意のポーズで脚をピンと伸ばして毛づくろいをしている。
その姿は紛れもなくブーだった!
私は信じられない気持が一転、ものすごく懐かしくて嬉しくて叫びだしたい気持ちに襲
われた。
「ブーーーーーー!!!ほんとにブーだーーーー!!!」
と叫ぶと、ブーを抱えあげて潰れんばかりにぎゅうっと抱きしめた。
ブーは突然の抱擁に驚いて、
「ブニャ〜ッ」
とブスブス鼻を鳴らしていた。
この日から私とブーの秘密の日々が始まったのだった。