第七節
"銀"とヒロのいた家は石畳の街道に面している。それが右を見ても左を見ても一直線に続いており、左は遠くに高い建物が連なっているのが見える。
「あっちはこの地区の中心です」
このゲームは国という概念がなく、ひとつの巨大な街を舞台に話が創造されていく内容となっている。
東京二十三区のようなもので、街の中はいくつかに区分けされていて、それぞれ商業、農業、工業などを受け持っている。ゲーム会社は街を宇宙のように無限に拡張していけるようなシステムにしているのだが、この設定は今回の物語には関係ないから忘れていい。
ここはラングスという、どちらかといえば郊外の地区だ。ただしこの地区は地理的に街の中央に位置しているために、ユーザーの希望と話の展開によって都市部、山間部、農村部、どのようにでも移動できる場所にある。初心者がゲームプレイを慣らす意味でもこれくらい落ち着いた風景のほうが良いのかもしれなかった。
「ということは北はこっちなのな?」
右を指差す。そちらは高い建物は逆に比べてめっぽう少なく、ゆるい上り坂のずっと先に山が見えた。
往来にはまばらに人影があるが、その一つ一つが自分たちを一瞥しているように思える。"銀"は思わず腰にぶら下がっている剣の柄を握り締めていた。
「想像以上にこええなぁ……」
苦笑い。世界が汚染されてゾンビ化し、問答無用で襲い掛かられるゲームも多々やったが、これはまた別の緊迫感だ。往来で誰がテロリストかわからない。とはいえ、無差別に斬りかかっていいものかもわからない状態である。いっそのこと襲い掛かってきてくれたほうが気が楽だ。
「行こうか」
そして"銀"が歩き出したその時。
ひゅん、という音とともに何かが"銀"の背中に突き刺さった。その勢いに押され、たたらを踏む"銀"。ヒロが短い悲鳴を上げる。
「銀さん!」
"銀"はしかし何食わぬ顔で押された背中を見た。
矢だ。注射器の何倍もの太さの矢尻が"銀"の背中に深々と突き刺さっている。
「大丈夫ですか!?」
「全然大丈夫だよ」
プレイヤーの英治には痛みが及ばない。それよりも……と彼は矢の走った空を仰いだ。
狙撃は屋根の上からだ。すでに二射目を絞っている男が目に飛び込んでくる。監視の命を受けた男の一人に違いなかった。
「ヒロ、どこへ行く」
その男は黒くて暑苦しいフードを纏い、表情が良く見えない分、不気味に見える。弓を引き絞るために伸ばしている腕は、枯れ木のほうに細かった。
「婚約者を裏切って何をするつもりだ」
放たれた矢は風を切る音とともにヒロの手前の石畳に突き刺さる。男はすぐに三射目をつがえた。
「アンタまで危なそうだな……」
自分に突き刺さっていた矢をこともなげに引き抜く"銀"。
ゲームの中の主人公というのはほとんどのゲームで死ぬ寸前までどんな痛手を受けても身体のパフォーマンスに問題はない。逆に言えば死ぬときはいきなり死ぬわけだが、なににしても今の一撃で彼が動揺することはなかった。
「ビッツお願い! 見逃して!」
「ヒロ、お前がユンクの女でなければ共に殺してるところだ」
ビッツと呼ばれた男は言いながら矢を放つ。その矢は正確に"銀"の胸元を襲ったが、彼はそれを半身でかわした。ゲームを周知した、恐るべき空間把握力である。
「さすがだな」
「たいしたことじゃない」
「ビッツやめて!」
「ヒロ、お前は何を目的にして生きてるのかわかってるのか?」
「わたしは……!」
往来はこの騒ぎを聞きつけて人が集まってきていた。止める者はない。みな、"銀"という存在がどういう立場にいるかを知っている。あわよくば自分が……と考えている者もいるかもしれなかった。
周囲の目はしかし、今は"銀"にではなく、隣の少女に向けられていた。この世界の住人にしてみれば、この娘はどこか自分たちと様子が違うようだ。
「わたしは……この人を殺すために生まれたんじゃない」
「では何のために生まれたのだ」
「わからない……」
「俺たちが他に生まれてきた意味があるのなら教えてもらいたい」
「ビッツは疑問に思わないの?」
なぜ"銀"という男を殺すためだけに生まれて生きているのかを……である。
「思わんね。では人は目的もなく生まれてくるというのか?」
「……」
ヒロ自身に答えが見つかっていないわけだから、彼女がここで彼を説得する言葉があろうはずもなかった。目から力が消え、一瞬だけ迷いに溺れそうになる。
が、次の瞬間、左手を伸ばすと突如彼女の手に、その身体よりも大きくて丈夫そうな弓が姿を現した。
「とにかく逃げます。あなたにはわたしの気持ちはわからない!」
弓の弦を引き絞れば、一瞬の暴風と共にそこにはあるはずのない矢が生まれ、ビッツと呼ばれた屋根の上の男に向けて一直線の光となって走った。
「銀さん!」
続いて、急にがくんと"銀"の身体が強い力で引っ張られた。ヒロが彼の手を引いてすでに走り出している。
「まて!」
数瞬遅れて背中から声と矢が追いかけてくるが、すでに"銀"とヒロは枝分かれしている路地の一つに姿を消していた。
どこまで走ったか。
建物と建物の隙間に滑り込むと、ヒロは荒い息のまま壁に背中をもたせ掛けた。
「ちょっと、休憩……」
苦しそうだ。確かに相当な距離を走った。ヨーロッパの古都を思わせる石造りの街並みの中をヒロたちは振り返りもせずに走り続けたが、まだまだ安心には至らないことが林立している建物の数からもわかる。そしてヒロの意図する目的地はまだ遠いことを、こんな中途半端な場所で立ち止まった彼女が、言わずとも語っていた。
「銀さん、全然疲れてないんですか?」
「おう」
というか疲れないのだろう。画面のどこを見ても疲労に関する項目がない。もちろん"銀"がいくら走ったところで英治が疲れるわけもない。
「ごめんなさい。わたし、体力なくて……」
「まぁいいよ。とりあえずここまでくれば安心だろ」
気休めを言い辺りに気を配れば、街がざわついているのが肌をなでる空気だけで伝わってくる。ここに立ち止まっていれば見つかるのは時間の問題だろう。
「どうしようか。このゲームって片っ端から斬ってもいいのかな」
ヒロはその問いには答えず、代わりにひとつの方向を指差すと
「ここをもう少しいけば川があります。そこを越えれば落ち着くと思います」
ようやく整ってきた息で言った。"銀"は無言でうなずき、ヒロの隣に立てかけてある弓に気付く。
「でかい弓だな」
凝った装飾がされてるエメラルド色の弓で非常に大型であり重そうだ。が、残念ながら"銀"自体はそれを手にとっても重さがわからない。
「重いの?」
「いえ、わたしが片手で持てるくらいです」
女性の細い腕で簡単に扱えるような代物にはまったく見えない豪奢な弓なのだが彼女はそれを左手で容易に持ち上げて中空を仰ぐと、右手で大きく弦を引いた。
瞬間、ヒロの周りに大きな風が巻き起こる。それは彼女の髪や服、周辺の空気や地面の草を激しくたなびかせながら、弓の中心へ集約されて白い光を作り出した。
ヒロがそれを斜め上に射る。その矢はまるで流れ星のような光の帯を纏って飛翔した。
「おお、すげぇ……」
その光景は"銀"の、いや、英治の目を見張った。
なにせ実写さながらの世界なのだ。目の前で起きたことは言ってみれば同い年くらいの女子大生が隣でロケットランチャーをぶっ放したくらいのインパクトがあった。先ほどビッツに放たれた矢も同じものだったので二度目のはずだが、まじまじと見せ付けられた"銀"はしきりに感心した。
「ホントは、この弓も矢も、銀さんに向けるはずのものなんですよ」
苦笑いしているヒロの頭には、以前言われた「チュートリアルだからお前は俺を狙わない」という言葉が残っている。彼女なりのささやかな反抗のつもりであった。
「いいもの見せてもらった」
一方の"銀"は素直に感想を述べながら、路地の向こうに目を光らせる。
「でも俺は敵にしなくて良かったって思わせるよ」
言うと同時に剣を抜いた。今のヒロの矢が信号となったのだろう。この路地裏の出口に光る目がある。四人。武装している。
「斬っちゃっていいよな?」
答えも待たずに"銀"は動いた。
一人、二人、剣を振り上げる間もなく一刀の元に倒される。三人目はかろうじて振りかぶったが、その剣が斬撃に変わるころには彼の胴は下半身から離れていた。
「うわ!」
その手並みに、一番奥にいた四人目が小さな悲鳴を上げる。がむしゃらに剣を振り回し、終いにはそれを"銀"に投げつけて脱兎のごとく逃げていった。
「すごい……」
そのあまりの鮮やかさにヒロが思わず声を上げると、"銀"は一言「慣れてるから」と笑う。
人間はもちろん、ゾンビやバケモノ、普段からモンスターハントに明け暮れる日々だ。