第六節
以前多少触れたが、英治は某大学の三年次、学生である。
この大学は三年次からゼミがあり、毎週木曜日はそのために大学へ向かう。
アパートから程近い場所であり、原付で十分の道のりを往けばついてしまうので、土砂降りでもなければ木曜に限らず、出席率はいいほうだった。
「英治、おとといの二限、代返しといてくれた?」
「ああ、やったやった」
「サンキュ。約束どおりマクロ経済学のノート貸してやる」
授業の出席確認方法はさまざまだが、出席した者が出席シートに署名を行うタイプの授業は、知り合いの誰かがいれば、出席したことにすることはそう難しくはない。
大学生がすべてそうだとは言わないが、学力も中程度な文系学生の彼とその仲間たちは、だいたいそんな感じで勉学に励む四年間を過ごさない。そうして得た無限の時間で、この時期でしか味わえない(くだらないともいえる)経験を享受していた。
「英治君。前のレポート、参考文献を最後に書かないとダメだって伝えてって言われた」
「めんどくさー、覚えてねえし」
ゼミが始まる時間の前、やや早くに教室についた英治と、その周辺の会話である。
「教授が指定した文献だから……なんだっけなぁ」
「あ、じゃああれじゃないの?『TPPに夢を見る』」
この同級生は美優という。髪の毛を数ヶ月前に染めてそのままのために、根元の黒さと茶髪とのツートンカラーが目に眩しい。
「あ、そうそう。美優ちゃんさ、またあの経済用語辞典かしてくんね?」
「ハァ? いい加減買いなよ」
「その金は一身上の都合でとんだ」
ゲームを買った。
「いつもないじゃん金」
「病弱な母親に仕送りしてるから……」
「うそばっか」
ちなみにこのゼミは十三名。経済学を取り扱うゼミだが、正直喉元過ぎれば何を食べたか忘れるような状態で、なにをやっているかを後で説明することは英治にはできない。
「六川英治ー」
「なんだ青木裕也」
別のゼミ生である。なぜかいつもフルネームで呼んでくるのがうっとうしいが、仲は悪くない。
「教授がプリントのコピー手伝えっつってる」
「へいへい」
この二人が部屋に戻ってきた時、今日もいつもどおりのゼミが始まった。
そんな現実の生活に、彼の中で大きくなっていくもう一つの「生活」が混じり始めていく。
ゲームに向かい、辞書のように分厚い『名も無き物語』の始めのページが開かれれば、そこには、昨日のままのヒロがいる。
この妖精のような少女を半信半疑ながらも助けることにした。だとして、一つ確認したいことがある。"銀"は果物の置いてあるテーブルの椅子に腰掛けると言った。
「俺がアンタを手伝うってことは、アンタは俺の味方ってことだよね?」
「もちろんです」
「するとさ、アンタ、彼氏と敵対することになるけどいいの?」
「あ……」
今しがた突き刺さりそうな殺気を振りまいて部屋を出て行った男が、自分と彼女が同行することなどを許すはずがない。
早晩ぶつかることになるわけで、当然その時、ヒロは板ばさみとなる。
「戦うことになったら斬るよ。死にたくないし」
ゲームの主人公は不死だ。たとえ死んでも何らかの措置がとられて、もう二度とゲームができないということはない。当然怪我などをしてもゲームをしてる本人が痛いということもなく、大げさに言えば死んでも、「本体」は涼しい顔で鼻歌を歌っていられる。
このリスクのなさが、プレイヤーたちを、勇気と無茶無謀の鬼にする。それによって切り開いていける非日常の展開こそ、退屈な日常を忘れさせてくれる麻薬となる。
だから死は怖くないし、死闘などはむしろ興奮物質に他ならなかった。
戦いとなったら、戦わないはずがない。
ヒロはうつむいていた。
ユンクのことは愛している。なぜだかわからない。これこそが自分が嫌っている、自分が作られ、脳に書き込まれた設定なのかもしれない。
だが愛している。理由などどうでもいいほどにこの気持ちを消すことはできない。仮に、彼と"銀"とが戦ったとして彼が殺されそうになった時、自分はそれでも"銀"の背中を追えるか、といえば、まったくその自信はなかった。
だからといって自分自身のために走り出すことを決めた"銀"を裏切れるわけもない。
そんな板ばさみにあえいだ挙句、ヒロは弱々しく声を上げた。
「銀さん。わたしを連れて、こっそりここから逃げてくれませんか……?」
それしかない。ここに留まっていては、早晩どちらかの死体を見ることになる。
「北のアームドールっていう丘陵地帯を越えればもう追ってこれないと思います」
「まあ、ありだろうけど……」
"銀"は思わず苦笑いを浮かべた。
「監視されてんのにでかい声でそんなことしゃべったらバレるだろ」
「あ!」
遅ればせながら口に手を当てて黙るヒロ。
「遅いって」
彼女の幼さに苦笑が止まらない。小さく慌てふためいていてかわいらしい。
実際、物音ひとつたってないが、近々の敵が「監視する」と宣言している以上、今の意志は向こうに伝わってしまったと見ても不思議ではあるまい。
「というわけで、とっとと出ようか、ここから」
両膝に手を置いて一気に椅子から立ち上がった"銀"は、扉脇の長剣を手に取った。
刃渡り一メートルはゆうに越える、肉厚で両刃の直刀で、柄のところに簡単な彫刻が施されている。値打ちが高そうかといわれれば、現実世界で言う、ホームセンターで買える程度の包丁程度のありがたみしかない。
「こっそりだから夜のほうがいいんじゃ……」
「もう全然こっそりじゃないんだって」
であれば、相手の準備が整う前に包囲網を突破したほうがいい。