第五節
その日のタイムスケジュールを追えば、英治は夕方からアルバイトだった。
「そういうシナリオなんだろ? 台詞だよ台詞」
職種はコンビニである。同じ時間にシフトに入った仲間に、先ほどまでやっていたゲームの話題を投げてみた返答の第一声がそれであった。
経過があまりに常識から離れているので、直球で投げて自分の人格を疑われないように配慮した……つもりだったが、すっかり笑われてしまっている。
「そんなに感情移入できるってのはすげえなー」
レジの前に立った客を一人捌いてから、彼は続けた。
「俺なんかもうドラマもゲームも映画もダメでよ。感動も何もねぇよ。ピュアなお前がうらやましいわ」
彼の名を陶冶という。同じ大学の、ひとつ上の学生である。
ただし、英治は経済学部であることに対して、彼はコンピュータ専門の情報学部というところに在籍していた。
その男に「俺も「俺の嫁」とか言ってみたいなあ」などと、軽口をたたかれながら乾いた声でカラカラと笑われると、たかがゲームに真剣に悩んだ自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。
だが……と、英治は同時に、先ほどネットで彼女のことを調べていた時とは別のことを思った。
インターネットの批評も、陶冶も皆、ゲームのキャラクターに対する姿勢はこうなのだ。素っ頓狂とも言えるヒロの悩みに真剣に悩んでくれるようなプレイヤーを探すのは、確かに困難なのかもしれない。そして、こんなことを考えてしまう自分のような者をこそ、ヒロは求めたのではないか?
彼女が誰と比べて自分を選んだのかは分からない。ただ、あの息が詰まるくらいに真剣な表情は、なぜか、数え切れないほどのプレイヤーの中からやっと英治という人格を見つけたような、そんな必死さが伝わってきていた。
「レジーーー!」
不意に陶冶のその声で我に返る英治。客が怪訝そうな顔で彼を見ていて、いつの間にか品出しを始めていた陶冶の声がその客の背中から飛んできて……英治はあわててバーコードを読むPOSを探した。
そして。
結局、彼はもう一度『名も無き物語』に帰って来た。
ヒロの少し驚いた顔。そして、たまらない笑顔を見せる。
「おかえりなさいっ!」
場所は変わらず先ほどの部屋だ。"銀"はあの時、結局一言も発さずにゲームから離れていた。
それが彼女にとってどれほどの落胆だったのかが、この歓喜の流れを見ればよくわかる。そのまま小躍りしてしまいそうなはしゃぎように、英治も思わず苦笑いを浮かべるしかなかった。
「何も言わないで落ちてごめんな」
「いいんです。戻ってきてくれたから……」
そしてきょろきょろと辺りを見回し、「果物切りますね」というと、走らんばかりの勢いで部屋の片隅から柑橘系の果物を持って戻ってきた。
「あ、それはいいけど……」
残念ながらゲーム内の果物の味は分からない。
「じゃあなにか食べたいものはありますか?」
「いや、いいよ。そうじゃなくて……」
「トイレ……? トイレなら」
「いや……」
「やっぱりおなかがすいた?」
「違う」
「そういえばカレーが好きだっていってましたよね?」
「食べ物から離れてくれ」
「え……じゃあ……肩たたき?」
「なんでだ」
「山登り!」
「聞きたいことがあるんだけど」
「今日の夕ご飯ですか? 何でも作ります!」
"銀"は、英治は、苦笑いをした。わかった。
「ヒロ」
"銀"がここで初めて、彼女の名前を呼んだ。と、それまで笑顔だったヒロの動きが、射すくめられたようになる。
止まった表情。止まった時間……。ヒロはまるで、おびえているかのように見えた。
"銀"は柔らかく笑んだ。
「……大丈夫だから。お別れを言いにきたんじゃない」
そのまま動かないヒロの目から、すっと一筋、涙が落ちる。この娘の涙腺は相当もろくできているらしい。それを包み込むような表情を、しばらく浮かべていた彼だったが、ふと表情を引き締めた。
「ひとつ、聞かせてほしいことがあるんだ」
「はい……」
「ヒロの言う向こうの世界、まぁ、俺らの世界のことだけど……誰かと今まで会ったことあるの?」
「え?」
それが、英治の最後の防波堤となる自尊心だった。たまたま自分がいたからなのか、自分が「選ばれた」のか……。
そして事実は、英治を唖然とさせた。
「わたし自身は、会ったことないです。でも……」
別のヒロは、もう無数に会っている……という。
このゲームはすでに、数え切れないほど市場に出回っている。同じゲームなのだから当然その数だけの「ヒロ」がいるわけだ。
そして、ここが一番驚くのだが、それぞれの「ヒロ」の思考は、オンライン上でつながっているらしい。
ヒロは無数にいるし、その数だけ、彼女は現実世界の人間と会っている……ということなのだろう。英治はつまり、数万、数十万の中から、ヒロに選ばれたユーザーということになる。
その部分に唖然としたわけだが、同時に彼には当然の疑問が沸いた。
「何で俺に?」
である。
「そもそも、ヒロは会ったやつら全員には自分の悩みを言ってないよね?」
このゲームをプレイしているブロガーの記事からも、それは間違いない。
ヒロは"銀"を見上げたまま、訥々と言葉をならべ始めた。
「……一つは成り行きです」
彼女のことをチュートリアルだと言い放った人間は実は珍しく、あんなふうに腹を立てることもなかなかない。話を始めるきっかけすらないことがほとんどで、そのまま物語に巻き込まれていく。
「ムリヤリ話を切り出してみたこともありましたけど、ほとんどダメでした」
「まぁそうだろうなぁ……」
「初めは、わたしはこのゲームの中でそんな役目なんだって思ってあきらめてたんですけど……あきらめてるうちに、あきらめる自分ってなんなの? って思ったんです」
自分は自分の意思で生きているのか……その疑問の追求をあきらめる選択こそ、"自分の意思"ではないのか?
「それでずっとチャンスを……この人ならっていう人を探してました。あの……」
言い終わったヒロの瞳が少しだけ泳ぐ。"銀"をじっと見つめては、視線をはずして、うつむいた。
「実は、全部のわたしが、銀さんに会えたことを喜んでいます」
「へ?」
「あなたが迷ってくれたから……」
「……」
この言葉が浮かぶたびに、二人は互いの吐息が混ざり合ったあの瞬間を思い出す。
「この人ならひょっとしたら……って、みんな、ね?」
これには男のほうがたまらず目線をはずした。彼女を壊そうとした時の出来事だ。あの時の感情が巡ればばつが悪い。
その、なんともいえない複雑な表情の前で、ヒロが続けた。
「それくらい……わたしは期待されています。ヘンな言い方ですけど、あの子達のためにも……助けてほしい……」
ヒロの表情はすがりつくようだった。
何万人ものプレーヤーの中でその数だけ絶望して、たまたま英治にめぐり合った自分に、すべての「自分」が針の穴を通すようなわずかな可能性を見出している。その期待に押しつぶされてしまいそうなプレッシャーの中、ともすれば消えてなくなってしまいそうな「英治」という不安定な青年を、何とかつなぎとめようとしているわけで、その声は自然悲愴な色を帯びた。
それが痛いほど、画面越しの英治にも伝わってきてどうにも重い。
「なぁ、俺なんかになにができると思う?」
万を越えるプレイヤーたちが誰一人として解決できなかった問題を、何の特性もカリスマもない平凡な自分に解けるとは、どうしても思えない。
だが、その問いにこの妖精が答えることはなかった。ただうつむいたまま、"銀"の服の袖をつかんでいる手だけは決して離そうとしない。その様をヒロよりも背の高い"銀"はぼんやりと見下ろしていたが、やがて何度かうなずいて、短く、低い声を届けた。
「わかった」
ヒロの顔が上がる。この引き裂かれそうに純粋な面持ちを、ゲームと割り切ってしまうことが、英治にはもはやできなかった。
「俺でよければ手伝うよ」
……このときのヒロの表情を、なんと表現すればいいのだろう。三十年来生き別れていた母親にめぐり合えたときにはこんな顔をするのだろうか。一瞬、身体がふわりと浮いたような……そんな表情を静かに浮かべた彼女の身体が"銀"の胸元へ……そこで、しばらく長い間、肩を震わせて泣いていた。
もちろん彼女が本当に生きているなどとは、英治は思っていない。ヒロの今までの言葉だって、あらかじめ設定されているものかもしれなかった。
それでも、英治は納得することにした。ここまで揃えばウソでもいい。もともとゲームというものは真っ赤なウソを楽しみに来てるのである。「その気になろう」……そう思った。そしてどうやら、それは誰でもできることではないらしい。
しかし、本当に自分になにができるだろう?
万人、ヒロの答えを出してやることはできなかったのだ。その見込みは、限りなく暗く感じられた。
だが、きっとそれはヒロのほうも分かっている。分かってて泣いている。もはや、自分が水をさすのは野暮だった。
"銀"は彼女の身体を引き寄せた。その肩の向こうに見える小さな羽の透き通るような美しさが、英治にとって忘れられない記憶になった。