第十節
ヒロはその十分間の半分を、"銀"の胸の中で声をあげて泣いていた。
"銀"も、何も言わずその小さな背中を抱いている。ヒロの肩越しに見える、飛ぶことのできない小さな羽が、ここに来てからのすべての出来事を思い出させた。
"銀"とはぐれてからしばらくの間、よほどの苦労があったのだろう。この泣き方は尋常ではなかった。
「ごめんな。ヒロ……」
その責任は、きっと自分にある。そしてこんな目の前にいながら、また彼女は自分の手から離れていく。
"銀"が謝れば、彼女はなおさら、彼の胸にしがみついて泣く。
一層力のこもる手首は、もうすっかりよくなっているようであった。よかった……思えば、ここからよかったと思わなければならなかった。
「ヒロ……かならず助け出してやるから」
「わたし……生きました! 生きていれば銀さんともう一度会えると思ったから……!!」
嗚咽とまざって鮮明には聞こえないが、ヒロは確かにそんなことを言った。
どこで死んでもよかった。他のヒロたちはいろいろな場面で簡単に死んでいった。これほど「生」に執着したヒロは今までいなかった。
もちろんそれは"銀"がもたらした希望のためであり……もっと言えば"銀"のために生きた……と言ってもいい。
……それが痛いほど伝わってくる。
そして"銀"を求め続けた思いが、ヒロの中では小さな想いに変わっていた。
「銀さん、わたし、銀さんのことが好きです」
ヒロが涙でくしゃくしゃになった顔を上げる。目が合えば、そのまっすぐな眼差しは最後に会ったときと、まるで変わるものではなかった。
「好きで、いいですか……?」
「なに言ってんだ馬鹿……」
この妖精の身体を、さらにきつく抱きしめる。すこしだけ、この華奢な身体が折れてしまわないかが気になった。
「ヒロ……アンタをさ。俺の世界につれてってやりたいよ。ほんとの俺は冴えない男だけど、その時は俺を選ばなくてもいいから、つれてってやりたい……」
ヒロは小さく肩を揺らしてまた泣き始める。でもその涙の質は先ほどとはちょっと違っていたのかもしれない。
「ヒロ」
"銀"は両手で肩を抱きながら、彼女をやや引き離す。
感傷にひたったまま、制限時間のすべてを過ごすわけにもいかなかった。
「あの疑問の答え……でたか?」
つまりヒロは生きているのか。目的のためだけに生かされているだけのただの物なのか。
ヒロはしゃくりあげながら、目をそらすことなく"銀"を見た。
この男が何かを言う。……今、自分の背中からつながっているすべての自分が彼の答えに耳を傾けているように、彼女は思えた。
「ヒロに会って、生きてるってなんだろうってずっと考えたんだ」
彼は、一言も間違うことを恐れ、慎重に言葉を発そうと頭のフルに回転させて意見を整理している。
「でも、ハッキリした答えは出なかった」
ユンクは「持てぬ希望を持たすな。無責任なやさしさは余計にヒロを傷つける」と言った。その通りだ。今から発する言葉は、無責任な言葉があってはいけない。
「実はさ、俺ら現実世界の「人」って奴も、大きな意味でヒロと何にも変わらないんだ」
当たり障りのない自由を与えられ、運命という名の濁流に流されるだけの存在であり、思えばそこに意思を挟もうにも挟める意思は実に限定されていることがわかる。
「俺らも、誰かが作ったレールの上で生かされてる。そういうところでは多分、ヒロは俺たちの世界に来ても自分に疑問を感じるかもしれない」
一方、ヒロのほうもすべての言葉を間違えることなく耳に入れ、理解しようと瞬きもせずにそれに聞き入っている。
「俺はまず、息をしてるとか物が考えられるとか子孫を増やせるとか、そういうことを生きてるって考えるのをやめた」
植物は生きているだろう。だが物を考えるだろうか。考えるかもしれないじゃないか。
石は生きているだろうか。物を考えるだろうか。考えるかもしれないじゃないか。
ヒロは生きているか。現実世界にはいない。でも生きているかもしれないじゃないか。
生物学上など知らない。人間の学問の限界が真実とは限らない。だから、
「生きていると信じてる奴の中では生きてるんだと思う。ヒロ、他の奴がどう言おうが、俺は、ヒロは生きてると思ってるよ」
もう十分流しきったであろうヒロの涙が、再び瞳から零れ落ちる。しかし"銀"の話はそこで終わりではなかった。
「でもさ、きっとそれだけじゃ……俺がそう信じただけじゃ納得しきれないだろ。アンタはまた何千何万の俺みたいな奴を相手にする。俺が信じるだけじゃアンタはまたきっと苦しむことになると思う。自分を生きてると信じようとすればなおさら……」
頭一つ小さいヒロの視線が落ちる。思いつく未来を、考えているのかもしれなかった。しかしそれがすべて終わるまで待つ時間がない。
「俺は、俺たちとヒロの違いを考えることにしたんだ」
「違い……?」
「ああ。俺たちにあってヒロにないもの。逆にヒロにあって俺たちにないもの」
「……」
彼は明らかにその先を言うことをためらった。今、この男は今までに見せたこともない、思いつめた表情をうかべている。そこにはなんだか、初恋の告白のような不思議な空間が生まれて、彼女の心臓もなぜか高鳴り、締め付けられる思いがした。
「言って?」
実際はそんな浮いた話じゃないことくらいわかる。この「人間」がどんな結論を出してくれたのか。……聞かなければ先へは進めない。
"銀"は一度、大きく息を吸うと、短く吐ききる。そして、言った。
「死だ」
「……死……?」
少し、意外だった。
「そう。ヒロは「もう何度も死んだ」って何回も言ってたよな? だけどアンタは死んでもまた自分に生き返ることを知ってる。だから……」
ヒロは、本当の意味で死んだことがない。"死"とは自身のすべての記憶を消し去り、世界を無にすることであり、すべての経験と反省を糧に「次回」を考えることのできるリセットボタンとは違うのだ。
「もし、ヒロが……自分の生はこの物語が最後だ、これを最後に次のヒロはない、と思えたら……その時に感じる「生」って、今と違うんじゃないかな。その時、今俺が納得させてあげることのできない「生きる」ってことの真実を……ヒロ自身の結論を出すことができるようになるんじゃないかな……」
その通りだ。と、ヒロは思った。何度も言うように、今回、自分は生きることにしがみついた。すべてのヒロの期待を背負い、"銀"という、こんなことをこんなところまで真剣に考えてくれる稀有な人間を絶対に見失うことのないように、自分はどんな苦難の中でも生き続けようと思った。生は万回あっても、希望のある生は最後かもしれないと思えたこの物語は、彼女にとっても特別だった。
死に対してもそうであれば、確かに自分の心情には変化があるかもしれない……。
だが……。
彼女の思い描く死には、絶望しかない。
「わたしは……死ねない……」
いくらこの死を終わりと信じても現実は違っている。すべての記憶をそのままに彼女は説明書兼物語の引き立て役として再び生を強要されることは揺らがないのだ。
もし、この物語で最後だと信じれば、万に一度の希望を帯びた人生だったのだ。それが終わり、また生き返った時に希望すら最後だったのではないかと絶望する自分を想像したら……。
ヒロは、その場に立っていられなくなった。"銀"もそれを支えようと試みたがあきらめ、へたり込む彼女とともにしゃがみこむ。
「ヒロ、最後まで聞いてくれ。俺、だから方法を考えたんだ」
英治はそのために……「責任」を用意した。
ただ、"銀"の唇は再び動くことをためらっている。自分を信じて、自分を慕って、自分のために生きてきたこの瞳に、自分は今から死刑を宣告する。
まったく馬鹿げている。……だが、他に方法はあるか?
この、死を知らない少女を永遠の記憶という"業苦"から救い出す方法を、少なくともこの男は思いつかない。そして、いつまでもいつまでもそれを考えていられる時間は、二人にはなかった。
「俺、先輩にさ……ヒロが二度と生まれ変われないようにするためのプログラムを頼んだ」
このゲームネットワークからヒロを消去する。後は実際のプログラマー陶冶の領域なので詳しいことはわからないが、彼の注文したプログラムというのは、専門家に言わせれば変造プログラムなどという生易しいものではない。
コンピューターウィルスだし、"サイバーテロ"といってよい代物であった。
他の登場キャラクターからは切り離されているネットワークが、ヒロを通してだけつながっている。そのプログラムは窓口であるヒロから侵入することによって、昨今光速化したネットワークの中を一気に駆け巡り、一定のコードが付いているプログラムを破壊する。ヒロは、全領域においてその存在を消すこととなる。
「まだできてないし、これは本当の意味でヒロを殺すことになる」
そして、英治自身の人生に色濃い陰を残すことにもなる。
「それでも俺は、アンタに対して無責任なことを言いたくもしたくもなかったんだ。だから用意した。俺は必ずあの王からアンタを助ける。必ず、また会う。だからその時までにどうするか考えてくれないか?」
"銀"がその言葉を言い終わらないうちに、ヒロは何かを思い出したかのように立ち上がった。
十分だった。
足が、彼女の意思とは別に王のほうへその身体を運んでゆく。それを"銀"は腕をつかんで止めてしまおうと思ったが、王を見て、二匹の大型獣を見て、自分についてきた三人をみて、踏みとどまった。
「銀さん……」
歩きながら、顔だけは"銀"のほうへ向ける。その顔は最後まで泣いていた。
「会えてうれしかった……」
そのまま目から涙を払うように手で乱暴に目をこすると、
「助けに来てくれる約束……絶対ですよ」
「必ず……」
そして王の腕の中へ……。ガーゴイルは一度、嘶いた。
「ヒロ!!」
"銀"の声が何もない荒野に響く。
「俺の本当の名前は英治だから!」
「英治さん……」
ヒロは何かを言いかけたが、その声は飛翔したガーゴイルの羽音にかき消された。




