第九節
「しっかり歩け!」
そのほんの数キロ先、視界をさえぎる木や背の高い草がなければ視認できるかもしれないほどの距離で、ビッツとヒロはもつれるようにして歩いている。全身を汗でずぶぬれにして、まるで感情を捨ててしまったかのように虚ろにたたずむヒロを、この男は半ば引きずって進んだ。
王の居場所は知っている。マオラの情報収集能力はどこまでも優秀であった。
だが今、彼はそちらのほうへは進んでいない。バーツではないのだ。王のところへ埋伏する気も、そういう依頼も受けていない。
彼は、このチャックビルの荒地にしばらく溶けて、機を見て離脱しようと考えていた。
この女を、やっと手に入れた。
ユンクという非の打ち所のない男の肩越しに、いつも暗い瞳を彼女に向けるだけであった。
それが何の因果か、一人の男をもって世界が混乱した。言うなれば碁盤に並べられていた石を一度すべてより集め、上からもう一度こぼしたようなものだ。
その落下によって碁盤から落ちた者は死んだ。彼はユンクから遠ざかるを得なくなった。しかしそれが故、ビッツという碁石はヒロと重なった。自警団という地位もユンクの部下という立場もすべては御破産し、二人はただの男と女に戻っている。
これを手放したくはない。肌を重ねた時に自分を包んだあの甘い匂いを、鈴が鳴るようであった声と、自分を腹いっぱいに満たした時のあの温かさを……なおさら膨れ上がったヒロへの情を、失いたくはなかった。
「ヒロを手に入れれば、お前は溺れる……」
その言葉が何を示しているのかはわからない。
だが、その呪縛の縄をうち砕いた。それは気持ちの上で兄を越えたことに他ならなかった。
「行こう、ヒロ。貴様を助けたい」
彼はそう言った。助けたい……どのような意味であったのだろうか。
「俺が不自由のない暮らしをさせてやる。すべてを一からはじめよう」
「……」
ヒロはただ、疲れていた。
眠りたい。
掛け布団なんていらない。ふわふわのわたの入った布団にうずもれて、どこからともなく心地よい風が肌をなでる中で、疲れた身体を休めたい。窓からは手元に舞い降りてくるのではないかと思うくらいたくさん星が見えて、空気の匂いはどこまでも澄んでいて、虫の声すら聞こえない静寂に包まれる中で、髪にクセがつくのも忘れて眠りたい……。
(足りない……)
ヒロは思った。何かが足りない。
その光景はとてもステキだが、自分がもっともっと安らげるのに、もう一つ……。
ベットの枕元には椅子があって、静かに眠る自分を、いつまでもいつまでも笑顔で見つめてくれる男がいる。
そして、わたしの髪をゆっくりなでながら優しく名前を呼んでくれるのだ。
「ヒローー!!」
その時、まったく優しくない強い口調でヒロは自分の名前を呼ばれた気がした。いや、確かに呼ばれた。反射的に視線が背後へと飛ぶ。
錯覚ではない。いや、錯覚でもいい。あの声は……!
「銀さん!!!」
ヒロは夢中で叫んだ。何度も何度も。
幾度目かでビッツが顔をしかめてその口を塞いだとき、少し先に群生している背の高い草が割れた。
「ヒロ!!」
現れたその男は、確かな人間であるあの男だ。
心臓が止まりそうなほどに打ち震え、その大きな瞳から溢れ出す涙をそのままに、口を押さえられ拘束されていることなど忘れてしまっているかのように駆け出そうとした。
その喉元に鋭い刃が突きつけられる。
「動くな!」
冷たさの滴る刃を見て、バタバタと暴れるヒロよりも先に"銀"が固唾を飲む。
ヒロのほうが止まらない。死んでもいいから、"銀"の胸に飛び込みたい。
「ヒロ、絶対に助けてやる。ちょっと落ち着け」
"銀"の目は黒ずくめのビッツのほうを向いたまま、ヒロは口をふさがれたまま、二人は時間を止めた。
「いたぁ……魔王さま」
そのタイミングで追いついてくるユキ。
「でぁ~~、きっつ……おめー、疲れてないのかよ」
メルケル。そして無言のニフェルリングが草の陰から次々に飛び出してくる。その軽い雰囲気からは裏腹の、大きな剣気を感じてビッツの眉間はこわばった。
その正面、肩で息をしているユキの大きな瞳には、一人の少女が映っている。
「ヒロなの……?」
「ああ」
その気で見たのは初めてだ。口はふさがれているが、一目でわかる整った顔。腰まで伸びている長い髪が太陽に照らされて美しく輝いている。
白い肌にヒマワリ色のノースリーブ、ミニスカートがとても似合っていて、ユキは思わず自分の格好を確かめた。
……ちょっと露出が足りないかもしれない……。
ユキの着ているエプロンドレスの丈は長い。魔王はどういう服が好みなのか。思えばこの服も汚れてしまった。汚いと思われてないだろうか。……今はそんな状況じゃないのだろうが、ユキにとっては重要だった。
「お前、自警団だったよな?」
もちろんそんな、恋する少女の葛藤など露知らず、にらみ合っている男達が、静かに吼えている。
「自警団などとうに抜けているさ」
「じゃあヒロになんの用だ」
「貴様に言う必要はない」
平静を装いながら、その実ビッツにも切り抜ける手がない。
まさかマオラ以外の者がヒロの位置の見当をつけていようとは思いもよらず、またこれほど早い会敵は完全に想定外だった。
いや、それ以上に、ビッツはこの男に精神的圧迫を受けていることが不可解でいられない。
自分はこの男を陥とすことを最大の功名と思っていたはずだ。その気持ちを「いつのまにか」忘れているばかりか、逆に向かい風となって自分の目の前に立ちはだかっているこの状況。
刺せない人質を抱きながら、見下ろされている錯覚に陥るビッツの首筋に、不愉快な汗が染み出していた。
だがこの男は「「追われる者」が来て変わった世界」に立ち回る者として、よほど幸運にできているらしい。
彼らの間に突如、割って入る者がいた。いや、モノと言うよりケモノであった。
「うわぁ! 仲間連れてきた!」
ニフェルリングがうんざりした声をあげるほどに、その獣には覚えがある。ガーゴイルと名乗る大型の野獣であった。しかも一体増えている。
それだけではない。その背中には人の影があった。
「「追われる者」……俺を覚えてるか?」
その巨体から滑り降りた、ひげを蓄えた中年の男……以前よりもはるかに豪奢な朱の衣装に身を包んでいる。が、着慣れていない様は一目瞭然で、やや滑稽に見えた。
「てめえのおかげで俺ぁ今、全世界を思いのままだ。また遊びに来たと聞いたからよ。ちょいと挨拶でもしてやろうと思ってな」
「誰だこのオッサン」
ニフェルリングが囁くように"銀"に問いかける。
「王きどりの単なる浮浪者だ」
「うぉ! こいつが王か!」
確か、王直々の命令は一切逆らえないはずであった。その"威力"を、彼らはすぐに知ることになる。
「頭が高いぞてめえら、ひれ伏せ」
途端、"銀"を除いた五人すべてが額を地面にこすりつけるようにかしこまった。なるほど、逆らえないらしい。
それを満足げに眺めたルーディギウスの目が"銀"に戻ってくる。
「てめえだけは俺の命令が効かないんだってな」
「そうみたいだな」
「てめえをまた殺っちまえば俺は安泰なわけだ」
「いや」
不敵な笑みを浮かべる"銀"。
「死なねえんだ俺は。こうやってお前の前にいることで証明してるだろうが」
「……」
確かに不思議なものだ。この男を殺したことによって自分は王になり、殺したはずのこの男は目の前で自分を睨んでいる。
死なない。命令を聞かない。……王にとって、どう扱えば分からない代物であった。
そのやり取りを、ヒロは地面を見つめながら聞いている。
"銀"のほかに、彼女だけがこの会話を理解した。
……"銀"は一度敗れたらしい。敗ったものが王になるらしい……
それを飲み込めたのは"銀"という人間が、ゲームの外からの訪問者であることを知っているが故だろう。
「王よ」
その時、脇で声をあげた者がいる。
王の表情の微妙な変化から「追われる者」と言うものを煙たがっていることを知ったビッツが、この場を切り抜けるための好機と見た。
「「追われる者」はまことに厄介な存在です。しかし一つだけ、弱点があります」
「弱点だと?」
王の目がビッツへ。この際隙だらけでも背中に控える二匹の獣が安全を保証していた。
ビッツは顔を上げた。「ひれ伏せ」の効力は切れている。
「お教えする前に、わたしの身の安全を保証していただきたいと存じます」
「よかろう。元よりてめえなんざ殺す気もない」
「いえ、わたしはこの者どもに命を狙われております。この場からお救いいただけませんか」
「まだるっこしい奴だな。なんだ、どうすればいい? こいつら殺せばいいのか?」
王はおもむろに"銀"たちのほうへ振り返ると、「お前、死ね」と言い放った。
「うわっ! 身体が勝手に!!」
ニフェルリングがひれ伏していた格好から突如立ち上がる。そして自分の槍を逆手に持った。
「待て! この馬鹿!」
今からなにをしようとしたのかを察した"銀"が、その槍を掴み、止めようとする。
「メル! 止めろ!」
"銀"の声でひれ伏していたメルケルもはっと我に返ると、
「なにやってんだお前は! しっかりしろって!」
羽交い絞めにしておさえようとした。続いてユキも「あれ?」と素っ頓狂な声をあげた後それに加わる。
そんな押し競饅頭を尻目に、王の視線はビッツに帰ってきた。
「てめえもああなりたくなかったらとっととしゃべれ」
想像以上に無茶な男だった。兄のバーツはこんな男にどのような手段を使って取り入ろうとしたのか。
が、ともあれ今のビッツに、代替案を考えている余地はなかった。
すなわち、先ほどまで共に逃げようとしていた女を生け贄にすること。
「この女を手中に収めているうちは、奴は王に手を出すことはできません」
「うん?」
王の目がヒロに移る。
「女、顔を上げろ」
「命令」に従ってヒロが顔を上げれば、うろ覚えだがその顔には見覚えがあった。
「あの時「追われる者」と一緒にいた女か……」
するとこの隣の貧相な男が言っていたこともあながちでたらめでもないかもしれない。
「ただし」
ビッツにとって、ここは正念場だった。
「わたしは蜂を操ることができる。刺されればその命は十分ともたない蜂を。わたしが死ねばこの女を刺すように仕向けています」
「なんだと?」
ハッタリだった。そんな難しい注文を蜂にできるわけがない。
が、そのハッタリを本物に見せるために、ビッツはバーツに使った蜂の予備を飛び立たせた。
服に仕掛けがある。が、その仕掛けがわからない者にとってはまるで突如何もないところから蜂が飛び出す手品に見えるのだ。
「わたしに「やめさせよ」といっても無駄です。王が蜂に対しても御命令できるのであれば別でしょうが……」
王が言いたいことを先に抑えたビッツに、王は怒りだすかと思えたが、逆に不敵な笑みを浮かべると言った。
「したたかな奴だな。いいだろう。こいつの背中に乗れ。女、来い」
「ヒロ!」
ニールの槍を取り上げた"銀"はそれを投げ捨てるとまだバタバタと暴れてる彼と必死におさえている二人をそのままに王のほうへ走り出した。
その行く手を遮ったのが先ほどの大型獣、ガーゴイルの片割れである。方々に傷があり、こっちが先ほど戦ったほうだろう。残念ながら、蹴散らしてそのままヒロの元へ……ということができる相手ではなかった。
「待ってくれよ!」
"銀"は剣をおろして立ち止まると、王に向かって叫んだ。
「ヒロとちょっとの時間でいい! 話をさせてくれ!!」
ヒロは自分の意思とは無関係に王の腕に吸い寄せられたが、その心は目いっぱい抵抗しているようだった。顔はゆがみ、歯を食いしばって、それでもどうしようもない。左手だけ、遠く、"銀"に助けを求めるようにまっすぐに伸びていた。
「頼むよ!」
"銀"は現実の世界でもこんなに真剣になって人に物を頼んだことはなかった。
剣を放り投げ、両手を挙げて無抵抗の意思を表すと、もう一度「お願いします!」と繰り返し頭を下げる。
王、ルーディギウスはしばらく思案していたが、
「まぁ、てめえにゃ礼のひとつあってもいいか」
と笑った。その上でヒロの背中をやや乱暴に押し、「命令」する。
「十分したら必ず帰ってこい」
ヒロは檻から放たれたウサギのように駆け出すと、"銀"の胸に一直線に飛び込んだ。




