第六節
そして草をかきわければ手を後ろで結ばれ、さらに木にくくりつけられた女が座っている。
「ビッツ……」
顔を上げたこの女の髪の薄緑は、彼女の持つ白い肌によく似合うと常々思う。
「女ではお前だけだよ。俺とバーツをすぐに見分けるのは」
この兄弟は確かに同じ顔をしている。が、ヒロは微細な特徴をよく捉えていた。もっとも今に限れば彼女でなくても判断は難しくはない。
「なんでバーツを殺したの……?」
薄い草の壁の向こうの出来事だ。顛末は見るまでもなかったし、現れるのはビッツのはずであった。
その男が、兄のバーツとよく似た声で淡々と言葉を発する。
「俺達一族の任務だ。裏切り者は殺されなければならない」
言いながら一歩近づけば、ヒロは膝を引いて身体をこわばらせた。明らかに先ほどのバーツの言葉を聞いての反応だった。小さな身体がやや震えている。それはこの男のサディスティックな部分を刺激した。
兄を殺しにここへ来た時は、ヒロに手を出そうなどとは思ってもみなかった。ここに至るまでに綿密な計画が立てられた後でも、兄ほどの知恵者を相手に暗殺をやり遂げられるかどうか不安で、ここ数日ろくに眠れてもいない。当然その裏にいる女のことなど考える余地はなかった。
それが成った。一族はビッツを隠すために幾重にも伏線をはり、あの兄を見事盲目にした。このような荒野にまで誘導したのも、街のような雑踏では空気にまぎれた風のようにつかみどころがないからであった。
ほとんど妖術のような鼻の良さと隠遁術を持つこの男をしとめたということは大きい。そして、それが実の兄であった事実が、さまざまな意味でこの弟を興奮させている。
そこへヒロへの想いを放り込まれた。今、気持ちの大きくなっているこの男の前で、目の前に長い間自由にならなかった女が、彼を男と意識しながら不安げな瞳を向いている。支配欲に支配されるのも無理はない。
「バーツは……」
ヒロのすべてが手の内に入る距離で身をかがめて、ビッツは彼女の顔を見た。
「お前を犯すなといった。なんでだと思う?」
「……」
この娘に分かるわけがない。が、ヒロ自身はその理由を必死で探した。
「手を出したら……わたしは自殺します……」
そうしたヒロを、自分は何人も知っている。とっさに出たのはその「体験談」だった。
そうなればバーツの言った「貢ぎ物」がなくなっては王との交渉材料が一つ減る。
「いや違うな」
こんな捕縛状態にある女を、自殺しないように細工をすることは難しくない。
ヒロのワンピースは首の後ろでリボン結びにされているところが上着部分の唯一の支えである。ビッツは造作もなく、そのリボンを解いた。フワリと上着がはだけ、白い乳房があらわになる。ヒロは声も上げない。
その身体は背に奇妙な羽があるものの、別に他の女となんら変わることはない。この女を手に入れ、溺れたとしても、一体何の弊害があるというのか。
「ちっ」
兄バーツの描く未来が自分には見えないことに苛立ちを覚えたビッツは、密かに想い焦がれた娘の頬から頭にかけてをやや乱暴に両手で挟み、つかんだ。ヒロは強引に目を合わせられる。
「俺はバーツとは違う!」
言いながらその手に力こめた。圧迫される力に耐え切れず、消え入りそうな声で「痛い……」と漏らし、顔をしかめて目をつぶるヒロ。
「ユンクを尊敬していたし、お前がユンクの女だったからこそ我慢してきた」
「……」
「だからユンクを裏切ったときは許せなかったよ。本気で殺してやろうと思った」
「裏切ったんじゃない……」
それはヒロにとって、この恐怖の中でも譲れない一線だった。しかし頬骨の目立つ男は両腕の力を緩めようとはせず、なおも続ける。
「いいさどっちでも。おかげで気兼ねなく貴様を犯れる!」
「いや!」
ワンピースの腰を支えている桃色の帯を乱暴に剥ぎ取ると、一気に彼女を覆っていた布を下半身側にずり下ろした。着るのに腕を通す必要もないデザインである。後ろ手が縛られていても関係なかった。
そこには、今まで目の前にいても手の届かなかった身体がある。
ほしい。今なら誰にもはばかることもなく、この女のすべてを知ることができる。
「それをバーツは禁じた……」
なぜバーツはこの女へのかなわぬ想いを知っていながら、あんな釘を差したのか。そもそも自分が今こんな気になっていること自体、あの死に際の言葉からだった。
「くそっ」
裸同然のヒロを前にして、苛立ちが止まらない。考え始めるとキリがなかった。
策謀に長けた兄のすることだ。彼女がこのような状態で置かれていることすら、自分を誘うためのエサかもしれなかった。
いや、奴は死んだはずだ!
いまさらどのような謀がある!?……この女にいったいなにがある!?
「なぜだと思う!?」
兄のかけた呪いに恐怖しながら、ビッツは無我夢中でヒロの膝を割り、女の証である部分をさらけ出した。下着越しであってもヒロは羞恥に顔をゆがめ、必死にその膝に力をこめようとしている。
「助けて……」
以前"銀"に押さえつけられた時は大声を上げていた。今は声にすらならない。今、ヒロを見ているビッツの目は、それほどに異様な形相で血走っていた。
「貴様に溺れて何が悪い!!」
「痛い!!」
強引にその太ももを引っ張ったおかげで木に巻きついている腕が、間接の曲がらないほうによじれてきしみ、ヒロの顔が苦悶に歪む。
彼女が発する悲鳴を兄の呪詛のように感じるビッツは、いつのまにか彼女をいけにえにすることが、自分が兄を越えることのできる試練と信じるようになっていった。
"銀"とユキに、その悲鳴は届かない。
「待って、速いーーー!!」
ユキの声が息も絶え絶えに追いかけてくる。スラムの荒地を、まるでペースを変えることなく走り続けている"銀"。疲れを知らない彼と長距離を一緒に走っていつまでも並走できるわけもない。"銀"もそれを認識したが、ヒロの姿が脳裏に浮かべば、ユキを慮る余裕はなかった。
しかし次の瞬間、頭上からの重厚感を感じ、反射的に後ろへ飛び退る。一瞬の間を置いて目の前の草地が円状に破裂。隕石が落ちてきたのかと思うような衝撃波が、焼け焦げた草と穿たれた礫の粒と共に彼を襲った。それをまともに目で受けてしばらく視界がさえぎられる。
「なんだ……!?」
そして目をこする動作をしながら前を仰ぎ見れば、異形の魔獣が彼を見下ろしていることに気付く。
ヒグマのような巨大な体躯。顔は狼のようだが、体毛が見られないその身体と、耳の内側にある巨大な角が、狼とはかけ離れている。こうもりの翼といい、なにかいろいろな動物の特徴を掛け合わせてある様子だった。
「キメラか」
"銀"のゲーム知識で該当する化け物の名はそれだった。合成獣をひっくるめてキメラと言うことが多い。が、彼?は低い声でそれを打ち消すように異質の羅列をする。
「ガーゴイル……」
ユキが追いついた。目を丸くして「なにこれ!!」と声を上げ"銀"が答える。
「ガーゴイルだそうだ」
その声は、卒倒せんばかりに慌てているユキと比べても涼しいものだ。確かにでかいが、仮想空間でなら、彼はもっと巨大な魔物と交えていた。
「「追われる者」……」
「ずいぶんしゃべれるんだな」
経験上、しゃべれる獣は強い。
「我は王を守りし獣……」
「自己紹介ありがとよ。何でこんな取り込み中に出てくるんだ」
「「追われる者」……お手前が王にある距離まで近づけば我らに伝わる」
「あのヒゲが近くにいるってことね」
「王を守る……」
言い終わるが早いか、狼の顔が地面すれすれになった。それがまるでスプリングでもついているかのような瞬発力で小さなクレーターと化した土の大地を蹴ると、一瞬で間合いをつめて"銀"の首筋を襲う。
「どいてろユキ!!!」
剣を抜き左へ飛ぶ"銀"。距離を開けようとしたが、この巨大な獣は急角度に翻り、"銀"の喉元めがけて飛びついてきた。
速い。
脇を砲弾のような速度で通り過ぎていったガーゴイルを、横目で追った"銀"が苦い顔をする。巨体は間合いのはるか先に片足をつけてコマのように再び身を翻し、獲物を狙う豹のようなしつこさで襲い掛かってきた。
その一撃に鋭角に切り込んだ"銀"の突きがガーゴイルの首筋へと走ったが、巨大な角で阻まれたばかりか、上半身がすべて隠れるのではないかと思われるほど巨大な前足で横殴りにされる。
反射的に飛び退りはしたものの、鋭い爪が右肩をかすり、血をにじませた。
「やっべえ、強え……」
あわてて構えなおす"銀"の鼻先をかすめていく、獣の二撃、三撃。
……反応はできる。こういうバケモノとは幾度となく戦った。
が、しかし、"銀"というキャラクターの運動性能には限界がある。
現実世界の人間でいえば、"銀"にはすべての運動能力においてトップアスリート並みかそれ以上の力が備わっている。だが、それでも追いつかないような攻撃をされれば、見えてもよけることができないということが起こりうる。
早くも全力で防戦にまわっている"銀"にとって、いつ終わるとも知れない獣の連撃は、その数だけの不安を煽った。
牙、角、前足。
"銀"は忙しく目を移しながら回生の手段を探す。が、逆に激しい運動の途中で足をもつれさせた。
「やべっ!!」
転びはしないまでも"銀"の動きが一瞬コマ送りのように鈍くなる。そのこめかみをガーゴイルの鋭い爪が襲った。
真っ赤に染まる視界。……しかし、それは血ではない。
「えい!!!」
という女の声が直前にはじけていた。その「赤」は突如現れたかと思うと、"銀"の目の前を横切って獣を左へなぎ倒し、その後も勢いを止めずに周りの木をいくつか飲み込んで消える。
ガーゴイルは津波に巻き込まれたようにその巨体を激しく何度も地面に打ち付けていたが、やがて一回転すると立ち上がって再び体勢を低くして構えなおす。その眼光の先には、両手の甲を顔の高さでクロスさせて仁王立ちになっているユキの姿があった。
「ええ!? 効いてないの!?」
思わずそんな声が漏れたユキの驚愕も、赤い光が通り過ぎた後の大規模な焼け野原を見れば納得がいく。
「セラ……」
つぶやくガーゴイルの左半身は焼け爛れて煙のようなものが上がっている。
「いいじゃん、効いてるよ! 後何発か撃てば勝てる気がする!」
ガーゴイルはそんな"銀"の歓喜を打ち消すように伸び上がった。照準は明らかにユキである。
"銀"もそれを読んでいて、彼女へ牙が到達する前に右半身へ剣をつきたてられるように走る。四足歩行の獣は骨格的に、大概横からの攻撃には強い反撃ができなかった。
ユキに到達する前に右肩の裏に突き刺さる長剣。だがまったく浅い。獣の勢いは止まることなくユキに向かう。
「いやぁぁぁぁ!!!!」
目をつぶり大声で叫びながら両手でなにやら複雑な動作をするこの少女の前半分を半球形に水色の光が覆った。ガーゴイルは突如現れたそれに弾かれ体勢を崩す。驚いた表情を見せ、やや距離をとるガーゴイルから、刺さった剣についてきた"銀"が振り落とされた。
それでも剣を離さなかった彼は、立ち上がるとユキと獣の間に割って入って再び切っ先を獣に向ける。
そこへ、こめかみに両手の指を置いたユキの思念が流れ込んできた。
「(えっとね、さっきの赤い玉をあの大きさで撃つのって九十秒くらい集中して溜めないとダメなの)」
「なんてこった……」
要するにノーマークであったからこそ撃てた……と、ユキは暗に言ったわけだ。




