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『名も無き物語』  作者: 矢久 勝基
第5章 戦場
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第五節

 "銀"がここ数日行っていた聞き込みはヒロを見たかということよりも、この地区の地理を把握しようとする比重が高い。

 前回は闇雲に歩いて迷い、心身共に疲労した。進むにしても戻るにしてもまずここの正確な地形を知っておかなければ二の轍を踏み、次はユキを犠牲にするやもしれない。

 聞き取りの結果をまとめてみると、この盆地にはもともとは南の丘陵地帯の縁を東西へなぞる街道があっただけの場所のようだ。

 その街道に張り付くようにして住人たちが小屋を建て、街道沿いが埋まると北へ北へと層を成して思い思いに住んでいったために街道から北は迷路のように入り組んでいる。

 住民の多くは南西の商業地帯を頼みにしているために全体的にこのバラックは西に寄っており、東はどちらかといえば区画に余裕がある。そのため、街道が何本も分岐しているようにも見え、よそ者が迷わけだ。前回の"銀"がそうだった。

 その迷路地帯を北へ北へ抜けると、草木の生い茂る荒地が目立ってくる。森のように視界の悪い場所もあれば草原のように開けた場所もあり、その一角で"銀"は一度殺された。

 そして、宮殿はまさにそこ、"銀"の血に汚れた空き地をも飲み込むようにして、現在、基礎工事が行われている。

「遠いねぇ……」

「いや、迷っても半日くらいで着ける場所だよ」

 ユキと"銀"は作った地図に従って迷路の中を歩いていく。どこの道も人が溜まっているために身を潜めながら歩くこともできないので、堂々と道の真ん中を進むしかない。"銀"は聞き込みの時とは違い生身の長剣を腰に引っ掛けているし、女連れだし、面倒に巻き込まれるために歩いているようなものだが、他に方法が思いつかなかった。

 ユキは、その不安の中で平然とついてくる。それが彼女の性格なのか、腹をくくった女はこれほどに強いのかは知らないが、初めはチャックビルを恐れていた彼女の、普段と変わらない陽気さに助けられて進んでいる。

 この際絡まれたら走って逃げよう……。"銀"は護るべきもう一人の少女を尻目に思う。

 今回は地図が要点をおさえているから、闇雲に逃げても本線に戻れる自信があった。


 しかしどうしたことか。"銀"の懸念した妨害がまったく見られない。人は忙しそうに往来しているか、道の端で泥のよう眠っているかのどちらかであり、"銀"たちなどには目もくれない。

 そもそもヒロと歩いた時に四方から受けた、あの異様に落ち窪んだ瞳から発せられる卑屈な光をまったく感じない。

 そのはずだった。元スラム民たちは現在、そのほとんどがこのバラックの迷路などにはいないのだ。

 彼らはルーディギウスにより暗黙裡に階級分けがされ、ある者は築城の監督を、ある者は方々の他地区に出向き金と人材の調達を、と、縦横無尽に働かされていた。もともと段階を経ず、寡少人数のまま世界の秩序をひっくり返そうとしている。すべてを外向きにして、内側はもぬけの殻にならざるを得ない。

 "銀"は前回、子供にもやられた。だが、その襲撃もなく、するするとバラック地帯を抜けてしまった二人の上空にはまだ太陽がさんさんと輝いていた。

「ユキ、この辺から犬鼻したらわからないかな……」

「やってみるね」

 背負いのバックからハンカチくらいの布を取り出すユキ。ヒロのネグリジェを切り取ったものだ。さすがにあれ一着はかさばるので彼女の念の強い、CVのサインのかかれたところだけを持ってきた。

 念は日に日に薄くなっている。もうそろそろこれで探すのも限界だろうなぁ……と思いながら額に恋敵の手がかりを押し付けるユキが、

「あれ?」

 セラの集中をいつもより早く解き、呼びかけられたかのように右を向いた。

 その状態でもう一度布を額に当ててみる。

「どうした?」

「いるかも……」

「え!?」

「待ってね」

 もう一度布を当てる。しばらく静かにした後、額から手を離して遥か遠くを見て言った。

「いるねぇ」

「向こうなのか!?」

「だいぶ向こうだけど、この念と同じ人だよ。間違いないと思う」

 犬鼻は距離や高低差はわかっても具体的にいる場所を可視化できるわけではない。だから実際ユキの指差した先に、ヒロの他に何が待っているかを知ることはできない。

「行くぞ!」

 もっとも、そんなことは"銀"には関係ない。

「あ! 待って!!」

 急に駆け出した「魔王」の背中を見失うものかと、必死になって追いかけるユキであった。


 バーツとヒロがチャックビル入りしたのが五日前。今、ユキの波長が合った場所に潜伏したのが三日前であった。

 彼は王の視界に突如現れようとしている。それこそが自身の実力を認めさせ、軽く用いられないための手段であった。そのためには守備が硬ければ硬いほどいい、くらいに思っている。

 が、肝心の王の居場所がつかめなかった。潜伏に協力したマオラが探っているがわからない。どころか、その内数名と連絡がとれなくなった。

 何かがある。例えどのような鉄壁の防御を敷こうとも、一日のうちに複数人数のマオラが不覚を取るということは普通では考えられないことだった。

 王という特別な存在を前にして、人智を越えた何かがあるのだろうか……。

 とすると迂闊には動けず、バーツはゴールを目前にして、一時退避を余儀なくされていた。

 この数日間の足止めが、自警団との時間的アドバンテージを埋めてしまうことになるのだが、今はまだそれを話す段階ではない。

 彼は"銀"たちと似たような方法で、草にまぎれた簡易的な隠れ家を作っていた。

 それだけこの辺りは、背の高い草がうっそうと茂っている。この男はその中に部屋といえる空間をいくつも造り、カムフラージュができるように、簡素だが細工を施したりもしていた。

 木のある部屋にヒロをくくりつけ、自分は上空から偵察されてもある程度わかりづらくするために草を器用に束ねて自分はその下で横になっている。

 ……さてどうするか。このように時間がかかっては、一族の者たちだけに任せてはおけない。普請中の宮殿とやらの周りを洗うとして、あの娘をどうしておくか……。

 こういう時、弟は便利だった。容姿も体格も似ていて、何より無邪気に自分の後を追ってくるから信用も置けた。ある程度の機転も利くし、もしビッツならここを任せた間に予期しないことがあっても、娘ともども逃げおおせるだろう。

「っつ……」

 バーツはその時、ちくりと足を蜂か何かに刺された感触を覚えて、身をこわばらせた。

 足を抜いてみると、なるほど蜂だ。神経がよほど図太いのか、足を引いてその視界に入れたのに、まだ自分の足首に小さい針をより埋め込もうと踏ん張っている。

 マオラは痛みで声を上げないように訓練される。隠密が主である彼らにとっては音は致命的要素になりうるためだ。

 だから舌に力をいれてのどを固定していたが、蜂のしつこさにさすがに顔をしかめると左手の甲を鞭にして払い落とした。

 蜂が腹をさらして転がる。バーツは恨みがましそうにしかめた表情のままその蜂をつまみ上げ……

 ……その目が、凍りついた。

「その通り」

 不意に、頭上から声がした。

「な!?」

 その至近距離もさることながら、声の質に反応して彼は飛び起きる。

「ビッツ!!」

「そう」

 そのまま彼はバーツの左手で死んでいる蜂を指差した。

「そしてそれは?」

「……」

 この蜂は、マオラが要人を暗殺するときに使う蜂だ。刺された者は急激に肺を侵されて十分もすれば死ぬ。

「なぜ……」

「なぜ殺すのか?……じゃないよなぁ? その質問は」

 その顔は一切笑っていない。石でも入っているのかというような重苦しい口調で、目は憤怒に満ちていた。

「貴様の質問はなぜここがわかったか……だろう?」

 その通りだ。この場所の正確な位置はマオラですら知らないはず。

「マオラが探っていたのは王の位置じゃない。貴様の寝床だ」

「……あぁ……なるほど……」

 理解した。すべてを。バーツの感情は一気に乾いてしまった。

 つまりマオラは一族を挙げて自分の「協力」ではなく「粛清」に走っていたということだ。

 ビッツは一族に早々に匿われた……ということは当然考えるべきだった。いや、負け惜しみを言えば、もちろん考えた。だが、「追われる者」「王」の存在が、自分の功を焦らせた。見切り発車で突き進んだ結果が、最悪のシナリオとなったわけだ。

 マオラは裏切り者を許さない。知っている。反吐が出るほどの共生型社会。

「貴様がここで足止めをするように、マオラは意図して連絡を絶った」

 そうすればバーツほど用心深い男なら、その事態に警戒して一呼吸入れるだろう……という思惑通りの形となり、一番隙のできる時間を二日間調べた弟が、満を持して蜂を放った。

「ざまあねえな……」

 言ったのはバーツのほうだった。自嘲の笑みを荒野の風が洗っている。

 バーツは一族が、弟の一件がなくても自分を粛清する機会を窺っていたことにうすうす気づいていた。

 そもそも、彼の徹底した個人主義者は集団共生型の部族の型にまったく馴染まなかった。マオラという、謀略だけが唯一の価値を持つ日陰者の部族に生まれ、一族全体で巨大な一つの人格を形成しているような社会で育ちながら、彼はその仕組みに事あるごとに噛み付いた。

 集団共生は個の個性を消す。突如沸いた伝説の「追われる者」が現れた時も、マオラに直接彼を狙う者が誰一人いなかったように、彼らは一族全体で個が突出するのを嫌う。そういう思考回路を持つ組織の一部分でいるには、バーツは野心も持つ能力も大きすぎた。

 互いにぶら下がる関係を捨て、個を貫いて、いつか日向を歩く個人になろうと思い描いた彼の態度が一族には煙たい。が、一族の不適合者だからといって野に放つわけにはいかないのが、表に出てはいけない情報しかないこの部族の宿命でもあった。

 王が誕生し、バーツが王に取り付こうとしたとき、一族は危機感を覚えた。

 王という絶対権力の中で、あの男がその威をまとうようになれば、どのように手を平を返すかわからない。確かに新秩序の情報力は必要でも、この男が権力を持つことはマオラを破滅に追い込みかねなかったし、事実、バーツもそれを考えていたフシがある。

 バーツの嘲笑は、彼らの思惑に乗せられていることを感づいていながら、忌み嫌っていたその社会を頼らざるを得なかった今までを振り返ってのものだ。笑うしかなかった。

(マオラなどに生まれていなければな……)

 もっと純粋に自分の能力を発揮できる場所を見出せたかもしれない。

「兄貴」

 ビッツの声がした。

「どうしてあの時、俺まで殺そうとした……」

 年齢も違わない兄弟の同じ色の目が、お互いの姿を映している。その瞬間の二人の表情は、屁理屈を言い合う子供のような透き通ったものであったが、すぐに兄は老けてみせた。

「お前も「追われる者」を狙うような"異端児"だとわかったからな」

 この兄に似た気性は、遅かれ早かれ一族から汚れた目を向けられることになろう。

「その前に兄に殺されるのなら本望だろう?」

 しかしビッツには今、兄が言ったことの意味がよくわからなかった。そして彼はその差にいつも劣等感を感じている。兄が何を考えているかがわからない……逆にこの男には自分のすべてが見透かされているようで腹が立つ。

 要領を得ない弟の表情を、バーツは冷ややかに受け流す。

 ……マオラの本性もわからないまま、この弟は利用されて無邪気に自分を殺しに来たのだ。行く先は決して明るくはあるまい。

「一つだけ言っておく」

 呼吸が浅くなってきた。声を出すと咳き込みそうになる。立っていられなくなり、彼はその場に身体を投げ出した。

 そして胸を押さえ、肺の痙攣を一瞬抑えると搾り出すように言った。

「ヒロは、絶対に犯すな」

「なに?」

「そのつもりだろう? お前のヒロを見る目は知っている。だが絶対にやめろ」

「……」

「あいつを抱けば……お前は溺れる……」

 そして、声は絶えた。生きたまま息ができなくなってゆく様は目が飛び出るほどの苦しみだろう。弟は兄のそんな姿を見てはいられずに、呻きのたうつその背中を、ナイフで貫いた。

(立場が逆なら、兄はにじり苦しむ俺のことを、最後まで眺めていたのだろう)

 幾分情に厚くできてしまった自分と兄を比べながら、やがて動かなくなった背中から、血の塊となった得物を引き抜いた。

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