第四節
"銀"達はその綱引きの外にいたから、滑稽にもヒロが到達するよりもずいぶんと前にチャックビルに潜伏してしまっていた。当然犬鼻も聞き込みも功を奏さず、彼らは徒労の数日間を過ごしている。
スラムはある意味で見違えていた。築城のために多数流れ込んでいる他地区の住人の数が、この地区特有の濁った空気を薄めている。王やスラム民の意図とは別に早くも目ざとい商人たちも地区に入り込んでおり、急激に増えた人口を相手に商売を始めたりもしていた。
流入している住人たちには基本的に家がない。そのため、築城を交代で休む者たちがいつも通りにあふれている。この世界に雨があるのなら、この光景はもっともっと悲惨だろう。……"銀"はこの世界の、変わることない青空を仰ぎながら思った。
「ただいま」
人ごみを抜け、郊外に出ると、そこはもう荒れ放題の草むらである。
彼はその一角で足を止め、草を掻き分けて、辺りの草を踏み固めて空間を作ったところに入った。座ってしまえば外からは人がいるようにはちょっと見えない。
「おかえりっ」
その端のほうで膝を寝かせて座ったまま、はつらつと返事をしたのがユキだった。二人は数日、ここでままごとのような生活を送っている。
「干し肉売ってたわ」
「やった!」
食料は多めに用意はしてきたが、現地調達できるならそれに越したことはなかった。
今、この地域でよそ者は珍しくないから、隠れる必要などなさそうなものだが、それなりの理由があってのこの状況である。
女が珍しい。
もともとスラムの男女比率は圧倒的に男が多く、しかも流入しているほぼすべてが男であるため、女連れはどうにも目立つ。極端に言えば男風呂に女を放り込んだようなもので、ぱっと見た目もいいユキを見る男たちの目は異様だった。
初日からそれに危機感を感じた"銀"がまず初めにしたことが、隠れる場所の確保だった……というわけだ。
チャックビルの地区は盆地であり、四方を山が囲んでいる。とはいえ玄関口である南と天嶮である北の山の様子はだいぶ違っていて、前者はスロープ、後者は壁……と表現すると近い。
南西の丘陵地帯を抜けると商業の栄えた地域がある。彼らスラム民はもともとそれを頼りにしてここに密集しており、その道の往来は自然激しい。
"銀"がここにくるのは二度目だが、その二度とも南東の丘陵地帯を越えている。こちらは言わば裏口であり、本来は人通りもまばらだ。未舗装の荒地を少しかき分けていけば、隠れるところには事欠かない。
「魔王さまも食べよぅ?」
干し肉を切り分けていたユキが丈の長い自分のスカートを広げると「裾に座っていいよ」と言った。真っ白だったエプロンドレスは今や草の露や泥であちこちが汚れてしまっているが、本人はあまり気にしていないようだ。
"銀"は差し出された干し肉を受け取ると、スカートの裾にはさすがに座らず、隣の草の上に座った。
干し肉はそのままビーフジャーキーのようで、口に放り込んだ後はそんな味なんだろうと思いながら噛んでいる。
「なにか分かった?」
エプロンを皿代わりに、干し肉をひとかけら口に運びながらユキは"銀"のほうを向いた。
「とりあえず宮殿ってヤツの場所はわかったんだけど……」
ヒロがいるとは限らない。
「行ってみる?」
「うーん……」
ユキの問いに"銀"は黙った。
ここを火山の噴火口に例えるのなら、自分たちはまだ縁の涼しいところにいる。近寄るほどに自分たちを迎え撃つマグマの温度も高かろう。
「……ユキさぁ。俺一人で行ってくるからここで待っててくれない?」
「え? やだ」
「即答……」
ユキを危険に晒したくない男気なのかもしれないが、そう考えるなら彼女を連れてくるべきではなかった。断固断ることもできたはずなのに、ここまでずるずると伴ってしまったことが、彼の男気に隠れた人間としての弱さであろう。
実際、ユキはいつも飄々としていて、彼女が勇気付けてくれると何でもやれる気がしてしまう……そんな不思議な魅力がある。
彼はその笑顔に助けられ、同時に縛られて、今、新たな決断に迷っている。
一方で、英治はヒロへの答えを真剣に考えている。
ヒロは生きているのか。生きているということはどういうことか。……英治の答えは一つに集約されつつあった。
彼女は生きている。……もはやそう信じている。だから彼女にそれを信じさせてやりたい。
しかしその方法として、言葉だけでは無理だと思った。彼女が身をもって自分の「生」を感じられる方法……。
一つ、それを実感させる極端な方法を構想している。……少なくとも彼女が自分の「生」を実感することにおいて、一定の説得力をもつ、と、本人は考えている。
それは、大それた方法だった。
「お前、なにいってるかわかってんの?」
陶冶は電話口から聞こえる英治の思いつめたような声を聞いて、頭がどうにかなったのかと疑った。
八月だ。せみもうるさい中で連日とにかく暑い。夏休みボケも加わって部屋で蒸されていたら、あるいはそういうこともあるかもしれない。
八月のシフトはほぼ全休状態で付き合いも悪いから、黙って帰省でもしたのかと思いきや、おもむろに電話をかけてきて、相談されたことは陶冶の許容範囲を優に超えていた。
「もちろん一度本人には聞きます」
「いやそういうことじゃねえ」
「とにかくお願いします。ちゃんと金も払います」
一方で、英治も理解されるとはまったく思っていない。ゲームのキャラクターが実は本当に生きていて、それを実証させてやりたい……こんな話を一口で飲み込めるなら、「俺、昨日織田信長に会ってきた」といっても受け入れてくれるだろう。変人扱いは重々承知の上である。
ただ、英治が彼に要求していることは、自分の変人っぷりをさらけ出しでもしない限り聞いてくれるはずのないことであり、陶冶へのアプローチとしては必要なプロセスであった。
「お前さ……」
陶冶は自宅である。網戸の向こうのせみの声を聞きながら、ウーロン茶を飲み干すと、言った。
「外出た方がいい。今から付き合ってやろうか?」
「いえ、大丈夫です」
「出たほうがいいって。そんなに女に飢えてるんなら俺が紹介……できないけど、せめてナンパに付き合うくらい……いや、俺はヘタレだからできないけど……とにかく現実に目を向けろ。お前が相手にしてるのは所詮プログラムだ」
陶冶は情報学部といってコンピュータを専門に扱う専門課程を踏んでいるから、プログラムというものがどういう過程を経て形になるかをよく知っている。だからこそ、現実と仮想空間の区切りをクールに見つめていた。仮想空間は結局、ゼロとイチという数字の世界である。光の組み合わせが無限の色を見せるように、ゼロとイチは可能性を無限に広げていくが、大元は所詮数字であった。
「わかってます」
それに異論はない。だが生身の人間だって元の元をただせば細胞の集まりである。
DNAという名の遺伝子配列と脳から送られる電気信号はもちろん数字ではないだろうが、形を変えて分類できるのならば、それは無限に組み合わせることのできる数字となんらかわるものではない。
……生きているかどうかは、そういうところにはないのだ、この男の中ではもはやそうまとまっている。というかまとめた。陶冶に電話をする際に、自分の論について迷いがないようにしておきたかった。
それを言葉に詰まることもなくさらりと説明してのけると、陶冶がうなった。
「まぁそうだけど、冷静に考えてプログラムが生きてるわけはないってのは分かるだろ?」
「はい」
その先入観は常識という印籠に支えられた世界共通の認識だ。英治自身も彼女が生きていると信じつつも、他人に言うのにこれほどはばかるのは、その常識からであった。
コンピュータープログラムなのだ。厳密な意味で生きてるわけがない。これは拭い去れない常識であった。
ヒロもそれを知っている。現実世界で人間たちが疑うべくもない「生」というものを、特殊な「生」を受けているばかりに、信じきれないことに苦しんでいる。
だからこそ、ヒロに「生」を教えるためには極端な方法を用いる必要があるのだ。
先ほども述べたが、今陶冶に頼み込んでいることは、彼女の「生」を実感するのに、説得力を持つものである可能性があると、真剣に思えた。
「いいから本気で冷静になれ。変造プログラムは規約違反だぞ」
もっと言えば犯罪である。
「だいたい、簡単にセキュリティに割って入れるものじゃない。製作会社がネットワークでゲームにつながってるんだろ? 無理だよ」
「だから、陶冶さんに頼んでるんです」
「……」
陶冶は黙った。実はこの情報のスペシャリストは、プログラム製作能力と、そういう仲間を集めたネットワークの広さにおいて、一般の学生の分際を軽く越えている。
世界につながるインターネットの情報網を利用して他の端末やネットワークに侵入することを楽しんでいる裏の顔を持っていた。
セキュリティの穴をつく……それはまるで巨大迷路の中で宝探しをするような妙な高揚感があり、要塞のように聳え立つネットワークの砦に挑むのは、並外れた解析能力を持つこの男にとって、一種の道楽であった。
「でもよぅ、俺捕まるのいやなんだよ」
金庫の鍵をはずして財宝を眺めるだけならバレないで帰ってくることもできる。でも財宝に手をつけたら相手も目を血走らせて追求してくるだろう。
「俺のパソコンに細工していいです。うちからアクセスしたことにしてくれれば……」
「マジ捕まるぞそんなことしてたら……」
ただ、なんとなくわくわくし始めてしまっている自分がいる。通信記録と発信元を偽装して、自分が用いたハードディスクを再生不能にして……と、そのプロセスが次々に思い浮かんでいく中で、気がつけば彼は電話の向こうでおもむろに立ち上がるとパソコンに電源を入れていた。
「まぁ、思い直せ」
言葉だけはまだ冷静ではあった。
「どうしても力が必要なときはもう一回連絡してみろよ」
といいつつ、一方的に通話を切る彼の両手は、すでにキーボードに向かっている。




