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『名も無き物語』  作者: 矢久 勝基
第5章 戦場
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第三節

 そんないたちごっこを続けながら、このラングスでの水面下の戦いはマオラに優勢に推移していた。

 諜報部という"目"を失った自警団側に対して、マオラは彼らの網を巧みにかいくぐって自警団員の潜伏場所の割り出しにかかった。彼らを燻り出して穴を開けたところに、バーツとヒロを通してしまおうという狙いだった。

「さて……」

 腐葉土ができそうな薄暗く湿り気を帯びた倉庫の端に縮こまっているヒロの様子を見に来たバーツは、ユンクにかけた謀略をヒロに楽しそうに話した後に言った。

「あの婚約者殿はどう動くかね」

「……」

 ヒロは黙ったままうつむいている。

「貴様が余計な書置きなど残さなければ、ここまでやるつもりはなかったんだが」

 心にもないことを言う。あてつけなのだが、こんな小娘に出し抜かれたことは、彼にとっては屈辱であった。

 あれから数日……マオラの探索は迅速かつ正確だった。自警団は潜伏場所をいくつにも分けていたが、すでにそのほとんどが彼らの手の平の上にある。あとはチャックビルの勢力がどれだけ頼りになるかにもよるが、確実に追い詰めていることは確かだった。

 ……一通りバーツの講釈が終わり、倉庫の中が再び静かになるとヒロは薄く顔を上げた。この骨のような男を見上げ、しばらく見据えている。そして、小さく口を開いた。

「「追われる者」のことはあきらめたの……?」

「む……」

 意外な第一声にやや動揺したバーツだったが、機微を悟られないように鼻で笑うと、

「王に取り入るのが先だ」

「見失ったのね」

 バーツがヒロを睨みつける。眉間には怒気が含まれた。

「見失ってなどいない」

「ならどうして追わないの?」

「……」

 なぜだろう。……バーツはヒロの異常な噛みつきようを煙たく感じながら、それを改めて思った。

 実際のところ、彼らマオラの者たちは、この地区に戻ってきている"銀"をとっくに捕捉していた。……といっても努めて探したわけでもない。あの目標は自分から姿を現している。

 かれこれひと月がたつだろうか。街の一角に「追われる者」を記すサインのされた三つの死体が遺棄されていたことがあり、一族の某が調べてみると、なるほど本人で間違いない。

 だが……そこまでだった。

 なぜか一族の誰も、バーツ本人も、それを半分聞き流した。なぜだかわからないが食指が動かない。

 それは現在彼が「追われる者」ではない期間であることの証なのであるが、その「なぜ」は、この世界の住人では知る由もない。

「どうでもいい」

 彼は言い放った。言葉通り、今はどうでもよかった。

「見失ったんでしょ?」

「しつこい!」

 バーツはヒロの腹をつま先で蹴り上げた。横隔膜の急所に入り、ヒロは「うっ」とうめくと呼吸を浅くして苦しむ。

 こんな女だっただろうか?

 男はヒロに知らぬ者を見るような視線を送りながら記憶をたどった。

 人形のような女だった。少なくとも自分に対しては、まるでよどむことのない川のせせらぎのように一切の波風をも感じさせない従順な女だったはずだ。

「い……言えないよね……? 元自警団の腕利きの諜報係が一番大きな目標を見失ったなんて……」

 窮鼠猫を咬む……とはこのことか。

 小ネズミの異様な抵抗にこの男はしばし絶句している。

「何が言いたい……?」

 ただ、虚勢を張っているのか、それとも……

「あいつを守るためか……?」

 婚約者であるユンクから気をそらせるための必死さなのか。

 ……ヒロは、じっとバーツを見つめていた。おびえる目ではない。しかしだからこそ、バーツは自論に確信を持った。

 口の端に笑みを浮かべ、彼女のあごを人差し指で持ち上げる。

「けなげなものだなぁ。まぁ、もう会うことはないよ。あいつが死ぬ死なないにかかわらずな」

 気丈にも表情一つ動かさないまま、彼女の透き通るような瞳がこちらを向いているのが気に入らず、そのあごをややはじいて痛みを与えると彼は立ち上がった。

 精神的にも病んでいる頃かと思ったが、これだけ強い光を放っているのならば、もう少しの間塩漬けにしておいても大丈夫だろう。

 彼はそのまま日の当たるほうへ歩き始めたが、「あ、そうそう」とつぶやいて止まった。

「心配しなくても「追われる者」はちゃんと捕捉しているよ。奴はチャックビルに向かった。貴様を届けたら、次は王を使って追い詰めるさ」

 それは彼にとって大いなる蛇足であった。バーツの自尊心につけ込んだヒロが思わず顔を伏せる。まるで目の前で大きな花が開いていくような歓喜の表情が瞬間に広がったからだ。

 生きていた!!

 自分にとっての希望はまだ生きていた。ヒロはすぐに思いついたように顔を上げる。

「待って!!」

 今まさに倉の門が外の光をさえぎろうとしたその刹那、ヒロは叫んだ。


 ……その日の夜、ヒロの姿は倉から忽然と消えていた。

 ヒロは、ユンクたちをこれ以上追い込まないことを条件に、チャックビル行きを飲んだ。マオラと自警団の綱引きは彼女の抵抗が予想されてこそだったが、彼女自身が逃走を助長しては、諜報員を失った自警団に、なす術はない。

 以後マオラによる嫌がらせじみた揺さぶりはなくなったが、居場所の多くを通報された彼らは日を待たずして西へ脱出することになった。

 ユンクはしかし、直ちに部隊を編成しチャックビルに向かうことにしたために、結局、バーツとしては完全に脅威が去ったわけでもないと言える。

 "銀"とユキ、バーツとヒロ、ユンクと自警団たちを続々と飲み込んでゆくスラムの空には、二匹の悪魔を従えて優雅に下界を見下ろしている現王、ルーディギウスの姿が見える。

 ……物語が、一斉に走り始めようとしていた。

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