第二節
自警団が偽情報に乗ってこない。
……水面下の情報戦が始まってから数日、身動きの取れないバーツは苛立っていた。
このままでは埒が明かず、時間がたてばヒロの精神が弱る。貢物としては不都合で、この膠着した"戦場"に錐のような細い穴でもいいから開けて、糸口を探さなければならなかった。
「出る、女を見張ってくれ」
バーツの姿はいつの間にか自警団の制服に変わっている。
ユンクはこの地区の一角にある空き家を借りて指揮を執っていた。数日前まで人がいたであろうことは室内の生活感でわかるのだが、主人がまったく帰ってこないところを見ると労働力として刈りだされていってしまったのかもしれない。彼らもまさか自警団連絡所などを使うわけにいかず、いないことを幸い、ここを隠れ家にした。
その"隠れ家"であるはずの場所に、バーツはまるで壁など存在しないかのように滑り込んだ。
「久方ぶりでございます」
彼が音もなくユンクの背中に頭を下げると、ユンクは眉をひそめて振り返る。
「バーツ。貴様、今までどこへ行っていた」
この男はビッツと共に報告義務を怠ったばかりでなく、諜報部の範疇を逸脱する仕事をさせて、大損害を出している。
あの事件の後、生死は不明で、その死体すらあがらなかった。
「不肖の弟を追っておりました」
バーツは、あの行為はすべて弟が仕組んだこと。そのまま逃走した弟に対し、兄として責任を取らなければいけなかったことなどを語りはじめた。
……実際、弟の影を躍起になって追ったのは嘘ではない。
あの計画には大きな失態があった。
"銀"を取り逃がしたこと。それもだが、それ以上に堂々と裏切りを明言して行ったあの奇襲で弟を仕損じたことであった。
バーツの郷里は先ほども述べた通り、結束で一族を生きながらえさせている。裏切りは断固排除されるべき重罪であり、ビッツが里の者に泣きつくことがバーツにとっては懸案だった。
今に至るまでその消息は一向につかめないが、こればかりは郷里の者を頼るわけにもいかない。不気味な危機感を募らせたまま、彼は今の仕事に取り掛からなければならなくなった。
憎むべきはあれほどの近距離からの一斉射撃で誰もしとめられなかった参加団員の無能である。思い出すたびに虫唾が走る。
バーツは、さまざまな思いを胸に何重にも周到に塗り固めた嘘を、苦渋に満ちた表情で説明した。
「ビッツが画策したことであることは分かった……」
確かにそういう報告は受けている。しかしそれを差し引いてもユンクの眉間が厳しい理由がある。
「貴様は包囲網の中にヒロがいることには気づかなかったのか……?」
すると、バーツは白々しく「ヒロがあの場に?」と驚いてみせる。
「そのことについては誠に申し開きもなく……ただ、わたしも急行し、あの暗闇の中で弟を止めることに必死であったが故、ヒロを完全に見落としておりました。ご無事でありましたか?」
「あの時は無事だった」
「あの時は……と申しますと……?」
「ヒロは今、行方が知れない」
「なんと……」
「バーツ。君はわたしを手伝ってくれるか?」
「無論」
「感謝する。現状は諜報部に聞くのが早い」
「諜報部も生きておりましたか。王権に自警団が散らされたと聞き心配しておりましたが……」
「以前に比べれば見る影もない」
ユンクが憮然と吐き捨てる。が、バーツにしてみても別の意味で憮然であった。情報戦で優位に立てない理由はこれか。
「ヒロの居場所の目星は?」
この骨の浮き出た男は一つ踏み込んだ。諜報部があるにせよ、そこに確証があるからこちらのデマにまったく乗ってこないに違いない。
「チャックビルだ」
「それはなぜ」
「書置きがあった」
「(書置きだと?)」
バーツが、あからさまに顔をしかめる。
「どうした?」
「いえ……」
そんなものを書いたとすれば彼女が着替えと称して自分を出て行かせたほんの数分間だが、あのベッド以外何もなかった部屋で何を使ったのだろう。
男にはとっさに化粧道具という発想が浮かばない。さすがのバーツもそれに漏れず、ヒロの手品に心中で舌打ちをした。
……だがしかし、これで彼が誘いに乗らぬ原因はすべて知れた。
バーツはその上で、何食わぬ顔をして立ち上がると、その落ち窪んだ目を光らせる。
「して、諜報部はどこを寝床にしています?」
「これだ」
バーツはその地図を一瞥し、会釈をすると退席した。
なけなしの諜報員のほとんどが殺されたのはその日の夜半のことだ。バーツは彼らすべてと連絡を取り合い、存在を確認するとその場所へ刺客を送り込んだ。諜報員の戦闘力は知っての通り。奇襲に耐えうる実力などは持っていないものがほとんどだった。
が、彼らが死を強要された夜、すでにチャックビルに潜入している二名を除いて、一人だけ免れた者がいる。名をユベールリヒというが、もともとバーツによい感情を持っていなかったこの諜報員は、受けた連絡に偽装を施しただちに潜伏場所を変えたことによって難を逃れた。
その後追われることになることを確信したこの諜報員は、ユンクに一通の手紙をしたためている。
「もし未明に諜報員のいずれかが損害を被ることあれば、それはバーツによるものだ。その場合自分も命を狙われるだろう。この手紙を最後に、無期限にて潜伏する」
といった内容で、諜報員の誰が書いたかがわかり、かつ偽造されないように工夫されたサインを用いて封をし、道を行く子供に小遣いを握らせて言い含めた。
「明日になったらこれをマルシャ通りにある、ため池を正面に見て左の、赤い屋根に住んでいる人に渡しにいきなさい。お小遣いをもっともらえるから」
ユベールリヒのバーツに対する不信感は感情的なものだけではない。彼は与えられた任務の関係で、"銀"とヒロを包囲した一件に別の角度から絡み、各情報を整理していたため、憶測でしかないのだがバーツの黒い部分をほぼ確信していた。
その手紙がユンクの元に届いた時、彼は激情に任せて机を叩いた。昨日のうちにこの情報を知っていれば……。
ただ、事が起こる前だとこの手紙を届けてきた子供にも危険が及ぶかもしれないことへの配慮だということも分かった。なおさらやるせない。
ユンクは子供に礼と小遣いをやるとすぐに帰らせ、猛る感情を必死に抑えようと窓の外の空を見上げた。
(何をたくらんでいる?)
今の自警団に反旗を翻す意味など皆無である。あるいは失踪していた間に新王制に組み込まれてしまったのだろうか。
思えばここ数日で世界はがらりと変わった。新王が誕生してから。いや……
「「追われる者」……」
あいつが来てからすべてが変わってしまった。
「いや……違うか……」
ここは、あいつが来て、目茶目茶に変わっていくための世界、らしい。
奴が来てこの世界は動き出し、奴のためにこの世界は動く。
(なら、わたしの存在価値はなんだ……いや)
そんなことはどうでもいいと、彼は思った。大事なのはそういう世界でにあって自分がすべきことはなにか。
「……」
知れている。守るべき者を守る……これだけだ。
彼は窓から目を離し、同じ部屋にいた団員に次の手を伝えた。
「すぐに退去の準備をしてくれ。ここは危ない」
バーツが敵だとして、自分達を排除するように動いているのなら、自警団の本拠地を知る彼が次にする行動は、王の勢力へこの場所を通報することだろう。
果たしてその予想通り、ユンク達が急ぎ足でこの空き家を後にしたその二日後、その場はチャックビル近衛兵に包囲された。




