第十二節
"銀"の頭は決まっている。行く。それは間違いない。
しかし問題は、自身の実力が足りなかったところだ。一対百を戦い痛感した。恐らく完全に健康な状態でも、あの場面を切り抜けることはできなかったと思う。
とすれば、必要なのは仲間の存在だ。ユキの実力は知らないが、少なくともニフェルリングは心強い戦力として期待できるだろう。これから起きるストーリーを円滑に進めたいなら、彼らを頼るべき場面だ。しかし……。
"銀"はポツリと口を開いた。
「……行ってくるよ」
「え?」
「がんばってくる」
「ちょっと待って、一人で行くつもり?」
"銀"はうなずくと、ユキは目を丸くした。
「無茶だよ。チャックビルだよ? いくら魔王さまが強くたって……」
「分かってる」
この娘は、言えば同行してくれるのかもしれない。ニールやメルケルも、かもしれない。きっと、ゲームとしてはそういう展開が考えられているだろう。しかし、彼らはこの世界で死んだら生き返ることはできないのだ。
ならば、殺したくない。彼は今や、そんなことを真剣に考えている。
『選ばれた若者たちが手に手を取り合って強大な悪に立ち向かう』……冒険のストーリーでよくあるシチュエーションは、現実には仲間にとっては残酷すぎるエゴだと思った。ヒロを知らない彼らが負うべき危険ではない。
「俺、死なないんだよ、実は」
「え、うそ……」
「いや、マジで」
「死なないわけないよねぇ……魔王さまは世界中が……殺そうとしてる人なんだから……」
「そうなんだけど……」
事情はにわかに言いづらい。この世界の説明なんてしたくない彼が黙っていると、ユキは目を据えて、ゆっくりと語りかける。
「……そういうことを言うのって、それだけチャックビルが危険だからだよねぇ? 手伝ってほしいって言えないのは、危ないからだよねぇ?」
その辺、まさに心中を言い当てられると、"銀"は目をそらし、ぼそりとつぶやいた。
「とにかくユキは自分のその人生……っていうのかな、最後まで無事に生きられるようにしてくれよ。俺は大丈夫だから」
「やだ」
「え?」
「行かないで」
「……」
「行かないでよ」
ユキの手が、溺れて藁をつかむような頼りなさで"銀"を求める。
「聞かせて魔王さま。ヒロっていう子は……そんなに大事な人……?」
頭一つ背の高い"銀"を見上げるユキの瞳は瞬き一つしない。
「魔王さまが命賭けるくらい……、死んでもいいって思えるくらい、大事な人なの……?」
そこまで我を忘れたかのように言葉を並べていたユキははっとなった。"銀"の返答次第で自分のほのかな想いは徒花と終わることに気付いたのだ。
一転発する言葉を無くし、濡れた唇を"銀"に差し出したまま、やはり黙っている彼を目で追う。
……まるでフィルムに閉じ込められたかのような時間が、二人の間に静かに流れている。
「ヒロはさ……」
やがて、声が舞った。
「……ずっと苦しんでる」
ゲームという限定された世界の説明書である……という、知ってはいけないことを知っているがために自分の存在に疑問を感じながら、幾度となく死に、新たな訪問者の数だけ生きなければならない。
彼女はある意味でこの仮想空間での自分と同じように"不死"であった。
そのことが彼女を苦しめている。何度も何度も利用され続けることによって、自分が道具であることを知り、そんなはずはないと抗おうとしている。
……"銀"は顔を上げた。ヒロのことを踏まえてユキに聞いてみたいことを思いついたのだ。
「なぁユキ」
「ん?」
「ユキは、自分が死んだらどうなると思う?」
「え?」
その質問はなんだ。"銀"の決断とかかわりがあるのだろうか。ユキはいきなり見えないところから飛んできた顔面パンチに目を瞬かせつつも、大真面目に答えることにした。
「痛そう」
「え? あ、いや、殺されるんじゃなくて、だよ。死んだら、ユキはどうなるか知ってる?」
「星になる」
ユキは大真面目に答えた。
「星?」
「うん、空の星。数え切れないほどあるよねぇ。死んだらああなってこの世界を見守ってるんだよ」
「……」
そんなの大昔になんかの絵本で読んだことがある気がするが、この十八歳女子高生は真剣にそれを信じているのだろうか。
「マジで言ってる?」
「ひどーい。うそじゃないよ。じゃあ何で夜にあんなに数え切れないほどの星があるの?」
「いや……」
理由はあるかもしれないが、天文学にはまったく疎い"銀"には答えられない。
「ホントだよ? 死んだら星になるんだって。じゃなかったらどこに行っちゃうかわかんなくなっちゃうよねぇ」
「わかった」
真偽のほどはわからないが、とりあえず彼女がそれを真剣に信じていることはわかった。
それでよかった。ある意味自分が考えていることの裏づけがとれた。
"銀"はユキから目を離すと、彼女がいまだに握り締めているヒロのネグリジェに目をやった。
……ひょっとしたら、ヒロは不死であることが苦しいのではないだろうか……
ユキの飛躍した死後論をこの世界すべての論とすることは絶対にできそうにないが、少なくとも、死んだ後にもう一度自分として生き返ることを前提にして生きているわけではなさそうだ。
ヒロだけが、それを知っている。
ヒロだけが、死ぬ前も、死んだ後も、すべての記憶を共有している。
それはつまり、ヒロだけが、死んでいない。
不死であること、記憶が死なないこと……が、彼女の悩み……「自分は本当に生きているのか」の、発端ではないか?
ヒロはもともと仮想世界の住人だから生きていないという発想の次元にはいないのだと思う。もしそう思っているのであれば、「自分は作り物だ」と初めから知っており、なおかつ受け止めている彼女はそもそも「自分が生きている」とは思うまい。
その上で、「仮想世界の住人でも自分は生きている」と信じながら、信じられないのは、"失われることのない記憶"にあるのではないか。
「わたしは道具か?」……ヒロはかつて自分に泣きながら問いかけた。
いたずらに生を与えられ、数えられないほどの死をむかえ、同じ自分として同じ人生を繰り返しながら、永遠に"説明書"として利用されることを強要されている彼女が、自分をして道具なのかと悲嘆するのは、無理な解釈ではない気がする。
知らなければ、ほら、ユキは無邪気に星になると信じて、たった一回きりの人生を一生懸命生きようとしているじゃないか。彼女はたとえ"ゲームの道具"として扱われているとしても、ヒロのように記憶が共有されていないから、そのことに気づいてもいない。
(今のヒロの状態はなんて残酷なんだろう……)
英治は思った。
ひょっとすればこの会社のプログラマーは本物の魂を創り出したのかもしれない。彼女は本当に生きているのだ。でも本当に人を創り出したのなら、忘れる、無くすところも、人と同じにしてやらなければこうも残酷なことが起きてしまう……ということを、英治は、ここまでハッキリした飛躍ではないが、感じた。
ヒロを救ってやりたい……英治の目の色が変わったのもこの時だった。
"銀"はもう一度寝巻きからユキの顔へ視線を戻すと、とても柔らかい声で言った。
「ユキ、俺はね、あの子と約束したんだよ」
「約束……?」
「うん、約束。俺があの子を何とかしてやらなきゃ。……ユキ、ありがとうな」
"銀"はいつのまにか、ユキの小さい頭をなでていた。
きめの細かそうなブロンドの髪の感触はどうしてもわからないのだが、ユキの方はその頭を流れていくような彼の手の感覚を味わいながら、慣れたネコのようにおとなしくしている。その瞳が潤む。
その「ありがとうな」が、自分を受け入れたものでないくらい、この娘にもわかっていた。
それでも彼女は視線をはずさない。涙を瞳いっぱいにためながら、絶対にこぼすものかという気丈な意思が小刻みに震えるユキから感じられる。そのさまを"銀"はいじらしく感じながら、つい思い余ってなでていた頭を自分の胸で抱きしめた。
この"魂"を持った仮想空間の娘たちを、本当の意味で愛せる日が来るのだろうか。ヒロでもいい。ユキでもいい。他の誰でもいい。現実世界とは別の世界で、確かに一生懸命生きていると信じられる彼女らのうちの誰かと、本気で一生を添い遂げたいなどと思える日が。そしてそれを現実世界の誰もが認める日が、いつかくるのだろうか。
こんなことを真剣に考えていると思われたら人格を疑われるであろう現在において、自分は本当に変人なのか、それとも時代のさきがけをしているのか。
思考が飛躍して、思わず嘲笑に似た表情を浮かべる"銀"であった。
「分かったよ魔王さま」
しばらく静かにゆれていたユキが、顔を真っ赤にさせたまま"銀"の胸を離れた。
「あたし決めた。魔王さまについていく」
「は!?」
顔を両手の平でごしごしごしっと拭いたユキは泣きっ面のままにっこりと微笑んだ。
「ヒロに勝つよあたし。その胸、絶対にきゅんきゅんいわせてやるから」
「いや、そういうことじゃ……」
そういうことじゃなくてもよかった。"銀"の心臓の鼓動を間近で聞いたユキは、もう自分が抑えられない。
……気がつけば、このめまいがしそうなほどに高鳴った気持ちをなくさないためなら、他に何がなくなってもいいと思っている自分がいた。
「ダメだ」
「そんなの無視」
「お前、死ぬかもしれないんだぞ」
「いい」
「だって……」
「あたしの犬鼻、役に立つよね?」
「お前を心配してるんだよ」
「本当に心配なら……」
行くのやめてよ……。と、言いたかった。
「本当に心配ならさ……」
"銀"は聞くまい。行くのやめて……を拒否されるだけ、自分が惨めだった。
……少し間をおいた挙句、ユキは本心を忘れることにした。
「本当に心配なら、パフェをおごって!!」
「なに!?」
「超巨大パフェが食べられるお店があるんだよ。高いからなかなか勇気が出なかったけど心配ならおごってよ!」
……わけがわからない。それに
「俺は金を持ってない」
「え!?」
思えば今まで、この世界の通貨に触れたことがなかった。
「じゃあ……」
ユキの頭脳が一生懸命回転する。しばらく挙動不審に見えたが、やがて"銀"の方を振り返った。
「あたしがおごるから三十分付き合って!!」
「え!?」
さらにわけがわからなかった。
「心配してくれる?」
「だから、心配は心配だけど……それとこれと……」
「じゃあ行こぅ!」
ユキは片手でネグリジェを持ったまま"銀"の手を引いた。
"銀"は、本当にわからない。だがユキにとっては、ひょっとしたら最初で最後になるかもしれない憧れの人とのデートだった。




