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『名も無き物語』  作者: 矢久 勝基
第4章 王のいる世界
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第十一節

 ヴェヴェルという学者の家は比較的すぐにわかった。

「通してやってくれ」

 門前は元自警団の団員たちがうろついて容易に入れる雰囲気ではなかったが、ユンクの一声で彼らは客となる。

 二階建ての建物で、彼らはそのまま二階に通された。途中、あるはずの学者の死体は片付けられていたのもあり、二人はここが凄惨な現場であったことを知らずに階段を上がる。

 二階は二部屋あったが、そのうちの一つに促される。家具は部屋の端にベッドがあるというだけの、質素な部屋の真ん中に、先ほどまで流血を強要しあった男がいた。

「なんだ、その女は」

 視線が冷たい。さすがのユキもいつものようなノリで話すことはできず、「スミマセン……」と、なぜか謝って、おずおずと"銀"の影に隠れてしまう。"銀"はそれをかばうように進み出て「だれでもいいだろ」吐き捨てる。

「気に入らんな」

「それより何かわかったの?」

「……答える必要はない」

 にべもなくそういうと、"銀"から視線をはずしてしまった。

「言ったはずだ。貴様はこれ以上かかわるな」

「じゃあ何でこの場所を教えたんだよ」

「約束は約束だ……」

 律儀な男は言った。

「だが、約束はここまでだ。ヒロのことを無事奪還できれば貴様は殺す。それまでおとなしくしてろ」

「奪還……か……」

 やはりヒロは気まぐれに散歩に出かけたわけではないらしい。彼らも馬鹿ではないから"奪還"というからには根拠があるのだろう。

「それでお前がまだこんなところにいるってことは、まだ詳しいことはわかってないのな?」

「……」

 この男には珍しく、言葉を飲み込むように喉を鳴らす。

 ユキにすらその動揺が見えたらしい。この娘は会話には加わらずきょろきょろと部屋を見回していたのだが、今が頃合いとばかりにもちかけた。

「この部屋の物をさわってもいい……ですか?」

 ちょっと怖いらしい。声が途中から小さくなっている。

「勝手なことをするな」

 その小さな勇気もあっさり一蹴され、ユキは悔しそうに唇をかみ締めて"銀"の裾をつかむ。振り返れば、その目は何かを語っていた。

「あぁ……」

 わかった気がする。

「触らせてやってくれないか? ヒロがどこに行ったかわかるかもしれない」

「なに?」

 まだるっこしい。"銀"がいるから多分平気だろう。……ユキは返答を待つまでもなくユンクの脇を横切ってベッドの端まで歩くと、枕の隣に折りたたまれていた布のようなものを両手ですくい上げた。

 女性だからすぐに分かったのかもしれないが、それはヒロに提供されていたネグリジェだった。ここまで来ればこれにヒロの念が残っていそうなことくらい、見ず知らずのユキにでも分かる。

 それを額に当てて目をつぶり"犬鼻"の手順を踏み始める。

「ほう……」

 この娘はセラが使えるのか。ユンクは素直に感心した。

 以前セラは一般のファンタジーでいう魔法に値するものだと説明した。だが一般のファンタジーほど、このセラというものを使える人の割合は多くなく、素質に加えて相当の学術的知識が必要であった。

 それこそこの家でヒロを任せた学者のような専門家か、必要に駆られて個人的に研鑽を積み重ねた者のみが使うことのできる職人芸のようなものなのである。

 そんな大層なものをいくつも使えるユキには、幼少期の孤独があった。

 彼女の両親の放浪癖は再三述べた通り。それはユキが生まれても続いたが、しかし両親がその旅にこの娘を連れて行くことは一切なかった。

 その際面倒を見たのがニフェルリングの母親で、ユキの遊び相手は、昼はニフェルリング、夜はユキの家に山積みにされている大量の書籍しかない。

 彼女は半分読めもしない難解な本を読みながら、一つ、興味深い知識を発見した。セラである。

 ユキには母親譲りの素質があった。半分分からないはずの本から、初歩の初歩であった術を成功させてしまったのだ。

 だが、彼女がセラに没頭したのはそれが直接の理由ではなかった。

 術の成功を目の当たりにした当時のニフェルリングに大ウケしたこと……。

 セラを使うとみんなが楽しんでくれる。自分のすることでみんなが喜んでくれるならもっといろんなことがしたい。

 ……彼女のこういう気持ちや、あふれるほどの人懐っこさはもともとの孤独から来ている。セラが人の笑顔を呼ぶのであれば、彼女にとって努力は努力ではなかった。

 結果、歳を考えれば彼女はずば抜けた数のセラが使えるようになっていた。威力や範囲などは同じ学校の秀才には劣るものの、学校では彼女にしか使えない能力なども多い。

 話が脱線した。結果が出たらしい。

 ユキが寝巻きから顔を上げて目を開ける。だが、その顔は浮かなかった。

「んーー、念は強いんだけど……」

「ダメか」

「もうこの辺にはいないね」

 この能力は半径数キロ(実際には十キロほど)の能力なので、真剣に逃げ出したらほんのわずかな時間で追えなくなってしまう。

「さぁ、もういいだろう。あとはわたし達に任せろ」

「あ、でも」

 埃を払うようなユンクの物言いに、ユキは背中で応えた。

「行った場所は分かったかも」

「え?」「なに!?」

 ユンクと"銀"の声が重なる中、「ほら」と裏生地を指し示せば、裏生地の首元に、薄いピンク色で書かれた二文字のアルファベットが見て取れた。

「リップだね。これ」

 口紅だ。療養中の彼女にユンクが、ヴェヴェルを通してひそかに送った化粧道具一式に入っていたものである。

「これってなんて読むんだ。CV?」

 "銀"の疑問の隣で、ユンクはその意味を知っている。ユキが答える前に苦い顔をした。

「うん。チャックビルのこと」

 チャックビルはもともと chock village が訛ったものだ。人のひしめく群落程度の意味であろう。

「チャックビル……」

 ユンクがうなった。

 数日前までスラムだったそこは、今では王城である。王の気性を知るわけではないが、あの集団の誰が王になろうとも、話が通じる相手ではないことは確かである。

 王がヒロをひっぱっていったのか。断定はできないが、可能性として否めないのはこの部屋に争った形跡がないことだ。書置きをこのような形で残す時間的余裕を考えても、彼女は自分の意思で部屋を出たか、了承の上でおとなしくついていったか……。なににせよチャックビルなら、どのような理由があっても厄介なことには変わらない。

 ユンクは何かがはちきれたように、せわしなくこの部屋を出て行った。残される二人。背の高い彼が出て行った部屋は、やけに広く感じられる。ユキが、その落ち着かない静寂の中でおそるおそる口を開く。

「いくの……?」

「……」

 "銀"は答えない。一度殺された場所での立ち回りに思いを巡らせ、彼はしばし腕組みをした。

「無理だよねぇ……?」

 ユキは不安そうだ。この世界の住民にとってのチャックビルというのは、現実世界でいう暴力団事務所のようなものだ。一般住民は近寄らないのが原則であった。

 その上で、彼女は"銀"が一度その地に足を踏み入れていることを知っている。彼の返答が常識を逸脱する可能性に対して、彼女は不安で堪らない。

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