第十節
ユキは、このために来た。
話の都合上、彼女の心境にはざっくりとしか触れる余裕はなかったが、彼女の変化はニールの家で"銀"が近衛兵という名の暴漢を退けたときから始まっていた。
初めは、どちらかといえば手の届かないアイドルを見るような目だったように思う。相手は「追われる者」という特別な人間であり、世界中から命を狙われている。恋愛とかそういうものに関して、そもそも次元の違う存在だと思っていた。
しかし、実際に触れてみると自分達となんら変わらない普通の学生のようだった。なによりヒロという彼の大事な人なのであろう人を追うその目の誠実さが、ユキをときめかせた。
それでも、まだそんなに大きい気持ちではなかった。彼女を決定的に変えたのが昨日。
"銀"は自分たち三人の誰にも行き先を告げずに出て行った。
ユキはあせった。なんとなく夢心地でいた彼と会ってから数週間の"お祭り"が、突如終わりを告げたのだ。
待ってほしかった。生まれて初めて抱いた、このふわふわとした気分をもう少し味わっていたかった。彼女は発作的に自分の能力をすべて駆使して"銀"を探し、そして無我夢中に追いかけてきた……というわけだ。
そのお祭りを終わらせないために、彼女は迷いの中で二度と会えなくなるかもしれない彼に気持ちを伝えた。
でも今、ここには白い空気が流れている。自分から告白するなど、まったく初めてだったユキは、その告白の色気のなさに自分でうちひしがれていた。
なんてヘタなアプローチだろう。ただ呆然と見上げている"銀"の視線から外れてしまいたい……と彼女は固くつむられていた目をゆっくりと開けた瞬間に思う。
唐突過ぎたのだ。せめてムードを作るべきだった。……あれやこれや考えながら、しかし、数秒前に戻れば今度はうまくやれるかと言えばやはり自信はない。
……それくらい、今まで味わったことのない胸の高鳴りが止まらない。血管が破れるんじゃないだろうか。
「玉砕……?」
声にもならないような、小さな声を上げるユキ。
「あ、いや、あの……つーか……」
「わかってる」
彼が追っている存在が女性であることは承知だ。
「でも、ヒロとは付き合ってるんじゃないんだよね? そしたら、あたしが好きだってわかったらまだ可能性も……ある?」
「えっと」
「あ! いいの。すぐじゃなくてもいいし、ヒロを見つけてからもう一回考えてくれればいいの!」
そして彼女はもう一度ベンチの隣に座りなおした。ようやく動悸も治まってくる。結果はどうあれ、ちょっと晴れ晴れしたユキは、胸に空気をいっぱい吸い込んで、空を見上げて安堵した。
自分の不器用は仕方ない。やれることはやった。自分は歩いた。今日はよくご飯が食べられそうだった。
そんな、澄み渡った空のような表情を浮かべている隣で、しばらく静かだった"銀"の気持ちもようやく追いついてきたか、でもユキのほうはみずに言った。
「お前、ニールが好きなんじゃないのか?」
「それ……よく勘違いされるんだけど……」
以前ニールがそう言及したように、二人は恋愛関係ではないし、そういう対象でもなかった。男と女というよりは兄妹のようなものであり、互いに互いを意識したことはない。
仲が良すぎただけであった。逆に恋愛に発展しないパターンである。
「魔王さまはさ……」
そして再び静かになった広場で、地面の土の色をその瞳に映しながらユキがぽつりとつぶやく。
「そのうちふらっといなくなっちゃうよねぇ?」
その時この男は一言も言わずに消えるだろう。そしてそのまま、彼の記憶から消えてしまうんだろう。……だとしたら、勝ち目がなくても戦うしかなかった。
「その時にあたしを覚えておいてくれないといやだから、いなくなるとき一言言ってくれないといやだから、いなくなってもいつか帰ってくるかもしれないと思えないといやだから……」
彼女にとって、どのような結果が待っていたとしても、言うのが正しいと思った。
「だから……絶対いつか答えがほしい。絶対だよ? いつでもいいから……」
「……」
"銀"はこの瞬間、ヒロのことも、その悩みもすべてを忘れてそんな彼女を見入っていた。
あるいはここで、ヒロを忘れるという選択肢もあったのかもしれない。
「さ、言いたいことは言ったし……」
と、立ち上がった少女がさっきとは違った風に見える。なんと言うのだろう。近い。
「魔王さまは結局どうするの?」
声、笑顔、一つ一つのしぐさ、そしてユキの肌が、近く感じる。
彼はこんなに正面切って自分に好意を伝えられたことがないから、その感覚もまったく初めてで戸惑った。もちろん悪い感じではない。なんというか、いままで二つのシャボン玉にそれぞれ入っていた二人が、今は一つのシャボン玉の中にいるような感覚というか……
「ん? どしたの? まだ考えてる?」
あまりに返答がないのでユキが振り返ると、"銀"はさっきとは別種の瞳を、彼女に向けている。
「魔王さま」
そんな"銀"に、ユキは微笑んだ。
「歩いたほうがいいと思う。あたし、いますっごい気分爽快だよ」
ユキは、歩いた。結果、何が変わったかはわからない。でも、自分が変わった気がした。
「だから歩こう! 手伝うから!」
ユキが頬に指をくっつけてピースをする。彼女のクセだ。
結局この場はユキに押し切られる形になった。彼女がもう少し計算高く……というか、普通の感性の持ち主なら、ヒロから彼の気持ちを遠ざけるよう働いたかもしれない。が、彼女は無邪気に彼の選択肢に自分の正義を語ってしまった。
"銀"ももともとヒロを追いかけるために戻ってきたのである。疑問符は解決しないままだったが、手を引かれる子供のようにその方向へ歩き始めたのであった。




