第九節
ヒロが医療所を出たのが未明。"銀"とユンクの剣が互いを傷つけている真っ最中だった。
朝になって活動を再開した自警団や、その後に馬を走らせたユンクが姿を見るはずもない。
「諜報部の者に協力を要請してみます」
「恩に着る」
「馬は隠します。元自警団であることが巡回している兵に分かるのは厄介です」
「わかった」
本当によくやってくれる。もちろんユンクの人望のなせる業ではあったが、解散させられ逆に追われる身となっている彼ら一般の団員たちにしてみても、目の前に仕事があることは先行きの不安を紛らわせる要素になり得た。
……そういった背景もあり、元自警団の残党は小さな渦となって、ヒロを追い始めることとなる。
そして"銀"。
彼はいまだに広場にいた。
「案内しよう」といった自警団の男を帰らせ、太陽が昇って周囲が鮮明になった広場のベンチに腰かけ、一人途方にくれている。剣の実力ではない。ユンクの想いの大きさに圧倒された"銀"は、前へ歩く道を見失っていた。
無責任な優しさ……ユンクはそう言った。
言われればそうだ。ヒロはゲームのサービスが終了するその日まで、この世界に生き続けなければならない。自分がささやかな満足を提供できたとしても、彼女の置かれている状況を変えることができなければ、後のヒロはなおさら苦しむのではないか。
このゲームに一生をささげることは確実にないのだから、ユンクの言う無責任はまったくその通りである。そして、その答えが出ないうちにヒロを追いかけたとして、自分に何ができるというのだ。
「やほ」
そんな"銀"を照らしている朝の太陽をさえぎった娘がいた。
「魔王さま」
やや暗くなった目の前を見上げると、いつ来たのか、そこにはタンポポ畑の妖精がいる。
「ユキか」
「ユキよん」
「何でここが……?」
するとユキは自分の鼻をとんとんと指でふれると
「犬鼻大活躍」
陽気に答えた。その軽やかさに少し救われた"銀"は、ユキの左右をきょろきょろと見回す。
「あいつらは?」
「あたし一人だよ」
「それは珍しい」
「あたしも来年から社会人だからねぇ。一人で行動もできるんだよ」
「あ、そう」
少しずれている独特の感性をもつ彼女が、屈託のない笑みを浮かべて瞬きもせずにこちらを見ている。人懐っこそうなそのしぐさが愛らしすぎて、なるほど、これがヒロインかと思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「となり座っていい?」
「ああ、いいよ」
今日のユキの格好はエプロンドレスだ。すそが広がっている白い長めのスカートに金のラメが入ったフリルつきで薄いピンク色の装飾用エプロンがかかっている。半そでの裾は絞ってあり、そこから白い腕が伸びていた。
「魔王さま、戻ってきたらいないんだもん。ニールのお母さんは何も教えてくれないし、みんな心配してたよ」
「それはすまん」
「ヒロが見つかったの?」
「ん? うん、まぁ」
「え!? 見つかったの!?」
「まぁね。また消えたらしいけど」
その会話……その二人の表情には、温度差がある。それにユキは敏感に反応した。
「……ヘンなの……」
「ん?」
「もっと一生懸命なのかと思ってた」
ユキにはヘラヘラと答える"銀"の薄っぺらさがやや不愉快だった。
「追いかけないの?」
「そうだな……」
「なにそれ。おかしいよねぇ」
だが、そのまっすぐな視線から逃れるように"銀"はそっぽを向いてしまう。ユキの声はますます尖り、目は中空を向いた。
「あたし、なにしにきたんだろ。馬鹿みたい」
「……」
「ホントに追いかけないならもういいよ。あたしかえ……」
「追いかけて何になるんだよ」
「え……?」
いきなり両肩で支えきれないほどに重くなった声に、ユキはハッとなった。視線が再び"銀"へ流れると、その表情があまりに険しい。
……それは、決して投げやりな感情でできる表情ではなかった。
後悔なのだろうか、哀しみなのだろうか、我慢なのだろうか……張り裂けそうなほどに思いつめた表情で、彼は前に行こうとする力を、それ以上の力で必死に抑えているように見えた。
「ごめん……」
浅はかだった。表層だけを見てこの男を見損なっていた。この表情こそ、思い描いていたこの男の深さじゃないか。
……もちろん英治はそんな彼女の感情の変化を知らないし、そんなものを感じている余裕もなく、自分の"銀"としての今からにひたすら迷っている。先ほどの言葉にしたって、ユキに投げかけたものではなかった。
「あたし、何か相談に乗れないかなぁ?」
ユキは"銀"の視界に映るように腰を折って頭を下げると、覗き込むように彼を見た。
「あんまり、馬鹿なんだけど、一人で思ってるよりはいいかもしれないから」
ちょっと言葉の使い方がおかしい。それでも、彼女なりの一生懸命で"銀"からなんとか言葉を引き出そうとする。
「あたしだって思ったよりいいこと言えるから。相談してくれたら後でおまけつきだから!」
そんな少女をぼんやりと目に映す"銀"にも、ようやく彼女がなぜか必死になって自分に問いかけていることが伝わってくる。
"銀"は、口を開きかけた。が、ためらう。ユンクの言葉が脳裏に響いた。
……何も知らずに生きることだ……
彼の悩みはこの世界にとって、知られてはならない悩みだ。知れば苦しむ人間を増やすことにもなりかねない。
「あんまり関わるなよ」
彼女から目をそらしたまま絞り出すような声を上げる"銀"。頬を半ば上気させて身を乗り出していたユキは、その体勢のまますこしその様子を見ていたが、ゆっくり座りなおすと顔を伏せて黙った。
ユキのそれは落ち込んでしまったものではない。自分が今、言うべき事を必死に探している合図である。
「まってね……」
必死に頭を働かせてみる。頭がいいと思ったためしはない。こういうところで相手の目が覚めるような言葉が出てこないところが馬鹿なんだナァ……と、自分を毒づきながら、頭の中を引っ掻き回して何かを言おうとしている。
「歩けばいいと思う」
ほんの少しの時間がたって、唐突に頭を上げたユキが、唐突なことを言った。
「あたし小さいころから思ってたんだけど、立ち止まってると悩むよね」
「……?」
「えっと、つまり……」
腕を小刻みに動かしてみたら打ち出の小槌みたいにいい発想が出てくるかもしれない……そう思ったかは知らないが、身体のいろいろなところを動かしながら、ユキは奮闘する。
「だから、えっと……悩む時ってなにもしてないよね」
悩む時は頭ばかりが働いて他の行動が緩慢になる。
「逆に、すごく一生懸命歩き始めると悩んでる暇ないよね」
「……」
「だからね、えっと……」
「悩んでないで行動しろってこと?」
「そうそうそう!!!」
ようやくユキが言いたいことがわかった。確かに悩むことと行動することはあるところ反比例しているようにも思える。
「でもそれで取り返しのつかないことになったらどうする?」
「考えてることがいいことかどうかはやってみないとわかんないよねぇ」
わかってる。その結果悪化する可能性で足がすくんでいるんじゃないか。"銀"の目が語れば、ユキは趣向を変えた。
「魔王さまの今の悩みは、自分が正しいって思っていること……?」
わからない。何がベターでベストなのかがわからなくなっているから動けないのだと思う。
……息を止めたように押し黙る彼を見ていたユキのショートカットがさらりと揺れて、次の言葉がこぼれた。
「じゃあね、その悩みは、あきらめられること?」
「……」
「もしそれがあきらめられないことだったら、自分にとっては正しいことなんだと思うんだよ」
たとえ誰かにとってそれが正しくなくても……だ。
「そしたら、自分が正しい方向へ歩いていくしかないよね」
「それは危険な思想だよ。だから戦争が始まるし、だから他人を傷つけるんじゃないのか?」
強情な正義は軋轢を生む。個人の尊厳を尊重して穏便に生きるには、正義はあやふやな方がいい。日本という国はそうやって清濁併せ呑むことを美徳としている。英治もそういう常識を備えているから、当然のように次の言葉が口を出た。
「自分が正しいと思うことを人に押し付けるのはよくない」
しかしこの娘は何てこともないことのように笑う。
「そのことをみんなが悪いと思ったら怒られるだけだよ」
「それで取り返しのつかないことになってもいいのかっての」
「だってね」
ユキが一転、真顔を向けた。
「悩むたびにやめてたら……一生正しいって思える方向に歩けないんだよ? 一生誰にも……自分にも当たり障りのないことだけをしてくつもり? 死ぬまで」
「お前な、人はだいたいがそうやって生きてるんだよ」
正しさよりも、無事に歩ける道を選ぶ。自分の希望より、周りとうまくやっていく方法を探す。人はそうやって、自分を殺しながら生きている。
そう思ったら"銀"は笑ってしまった。
「あ、人が一生懸命話してるのに笑うー」
「いや、違うんだよ」
生きてるって……なんだろう。
自分を殺しながら生きて、生き抜いて死ぬまで生きる。
自分の正義を隠しながら、当たり障りのない娯楽で気を紛らわせながら、自分の信念とは別のところで生きていく。そこに、自分の意思なんて存在するのだろうか。
自分はヒロと同じなのではないだろうか。体よく生きていると思わされているだけで、シナリオの上を歩かされているだけのキャラクターなのではないだろうか。
「どしたの?」
「っと」
あれこれと物を考えながら、気がつけば自分はユキの、吸い込まれるように澄んだ瞳を見たままになっていた。そのすべてを受け止めてまったく目をそらさないユキも少し変わり者だが、おかげで自身が変人扱いを受けていないことを救いに思う。
「とにかく、あたしは悩んだら歩くの。だからここに歩いてきたんだよ」
「悩んでたのか?」
「うん」
今度は"銀"が身を乗り出した。
「じゃあ今度は俺が相談に乗ってやるよ」
「ホント?」
「おう」
「じゃあさ」
彼女はフワリと立ち上がった。だがその軽やかさとは裏腹に、この妖精は思いつめたような表情を浮かべる。
「付き合って……」
「え?」
「好きですっ! 付き合ってくださいっ!!」
「はっっ!?」
硬くつぶられた瞳と表情から発せられたいきなりの告白に、彼女以上に硬直してしまう"銀"がいる。




