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『名も無き物語』  作者: 矢久 勝基
第4章 王のいる世界
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第八節

 ユンクと"銀"が静かに対峙した頃の出来事だ。

 彼らと同じ月に照らされて、ヒロは学者宅の二階のベッドで、上体だけを起こして脇の窓からぼんやりと空を眺めていた。

 あれから"銀"はおろか、ユンクもその姿を見せてはくれない。当然だろう。あの時自分は、彼目掛けて弓を引いたのだから。

 "銀"に至っては生きているかさえもわからない。「追われる者」が死ぬとどうなるかは、この説明書の娘も知らなかった。

 すべてを失いたくない一心で、すべてを失ってしまった。心が、ともすればそういうネガティブな方向へ支配されてしまいそうになる。もう死んでもいいのではないか?

 ただ、ヒロには不意に抱きしめられた時の、"銀"のぬくもりが残っている。

 彼は言った。自分が生きているということを証明してくれる……と。

 だから絶対に死ぬな。ついてこい……と。

 信じるしかない。いままで疑問符を残したまま死んでいった自分自身のためにも、生きているうちは希望を絶やしてはならない。その希望を信じられる、数少ないヒロであることだけは自覚していた。

 手首はだいぶよくなっている。傷の程度からすれば現実世界に比べても驚異的な回復力であり、「セラ」という魔法技術を含め、現実世界よりは融通が利いているようだ。

 完治とはいかないまでもギプスのような添え木もとれ、無茶をしない程度になら手も動く。正直言えば、もうこの医療所を出てもよかった。だがヒロに当てはなく、「完全に治るまでいればいい」という家主の言葉に甘んじていた。

 結果的にはそれがアダとなる。

 この日、不意に部屋のドアをノックした者がいた。

「はい、どうぞ」

 家主だろうと思ったヒロは月へ送っていた視線をそちらに移し、与えられたネグリジェを軽く整えると透き通るような声で言った。

 扉の開く音。そして暗がりの中を男が入ってくる。

「!?」

 部屋が暗いので姿はよくわからない。だがその男の雰囲気が異様であることはすぐに分かった。

「誰!?」

 その影に、あの医者の少し老いたやわらかい雰囲気はない。まるで闇の毒を吸ってそれを身に纏っているかのようによどんでいる。

 ヒロは少し泳ぐように身体をにじらせてベッドの近くにある発光体(以前ユキの家で紹介した、手を触れると光りだす球体)に触れると、もう一度そちらに目を向ける。

「バーツ!?」

「久しぶりだな」

 覚えているだろうか。"銀"とヒロが共に彼女の家を抜け出した後、彼らを包囲して相方のビッツともども始末をしようとした自警団諜報部のエリートである。骨が浮き出るほどの細身で、青白い肌もふくめて病弱そうなイメージを受けるが、自警団内でも非常に優秀な諜報員であった。ユンクはスバ抜けて有能なその能力を買い、いつもそばにおいていた。

 ビッツは弟である。ただしこの兄にはビッツのような忠誠心は毛ほどもなく、この世界はすべて自分が躍進するための駒でしかないという気性の持ち主だ。

 それをヒロは重々知っている。この男は自警団の使いでやってきたのではない。

「なに? バーツ」

「そんなに警戒するなよ。久しぶりに会ったんだから」

 ゆっくり前に進み出るバーツ。ヒロはベッドの上に座ったままその距離だけ後ずさろうとしたが、すぐに背中は壁に当たった。

「うるさい声は出すなよ。一階で寝た医者みたいになるぞ」

 ヒロはその意味をすぐに理解し、ひっと息を詰める。

「殺したの……?」

「騒がれると嫌だったんでな」

「それ以上こないで!」

「騒ぐなといってる……お前の声は耳にくる」

 本当に嫌なのか、片耳を押さえて顔をしかめた。

「まぁ、何もなければ昼間、普通に来ようとも思ったんだがね。ここは四六時中自警団の連中が監視してるからやむを得ず、だ」

 この男はずっと隙を窺っていた。そしてユンクの見せた一瞬の行動のブレに、滑り込んだわけだ。

「俺はこれからチャックビルの王に取り入る予定だ」

 頬骨の突き出たバーツのガラス球のような無機質な目が、ネグリジェ姿のヒロを値踏みするように映している。

「お前はその貢物になる」

「なにを!!」

 ヒロがベッドの上に跳ね起きる。その左手を突き出せばエメラルド色に光る弓が姿を現した。かまわずバーツは続ける。

「どんな女でもよかったんだがね。お前のとりえなどその美しい顔くらいだ。どうせなら俺の道具として有効利用してやろうと思ってね」

「馬鹿にしないで!!」

 ヒロにとって、自分を道具のように扱われることこそ、何よりもの屈辱である。自分は道具なものか。自分は自分の意思で生きて死ぬ。

 ヒロはこの至近距離で弓を引き絞ろうとした。が、その瞬間、右手に激痛が走る。弦を絞るのに手首の力は必須であった。

「自殺未遂……」

 彼女自身が押さえている右手首を見て、顔をしかめたバーツがつぶやいた。

「あまり傷を増やすな。商品価値が落ちるから」

 バーツはもともとヒロのことを有事の際の切り札として考えていた。ユンクの下についた一要因であったし、自警団のカゴの中からヒロをつまみ上げることは、彼にとっては造作もない。

 この男にとって捨て駒でしかない女は、傷口を掴まれてうっと呻く。

「さ、行こうか。お前なら王の夫人にもなれる器量がある」

「いや!!」

「今ここで殺してもいいが、どうするね?」

 バーツの目から、ヒロは妙な既視感を覚えた。この目に見覚えがある。

(わたしを殺した目だ……)

 無数の記憶が警鐘を鳴らす。この目をしたこの男に何度か殺されている事実に息を呑み、彼女は暗く輝く男の目を映し出した。

 このまま拒否をすれば、この男は躊躇なくそれを実行するだろう。そして自分の性格からして、幾度となく拒否をしたはずだ。

 だが……ヒロの脳裏に駆けたもの。

(銀さん……)

 ……この物語は、特別だった。自分はまだ死んではいけない。

 ヒロは顔を伏せ、唇をかみ締める。

「……わかりました……着替えるから一度出て行って」

「見ているよ。逃げられると厄介だ」

「あなたと一緒にしないで……」

 ヒロが自分の右手を押さえたままのバーツを睨みつけた。

「あなたに着替えるとこ見られるなんて耐えられない。それも譲れないなら殺せばいい」

「ふん……」

 バーツがその手を離す。

「すぐ準備しろ」

 そしてこの枯れ木のような男は部屋を出る。ヒロはほんの一瞬、自由な時間を手に入れた。

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