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『名も無き物語』  作者: 矢久 勝基
第4章 王のいる世界
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第七節

 一度、静かになった。

 男達はしばらくの間、一人の少女への想いの強さを、互いの瞳へぶつけ合っていたように思う。

(負けている)

 英治は思った。

 思えば、自分よりもはるかに昔から、ヒロの幸せを真剣に思い描いてきた男である。よそ者の、にわかな感情の広がりなど一蹴するような、圧倒的な想いの強さに英治の魂は揺さぶられた。ありもしない風に押されるようにたじろいでしまう。

「……聞きたいことがある」

 ただ、この一連の流れには、ひとつだけ腑に落ちない違和感があった。

「何で俺がヒロに生きていると言おうとしてることを知ってるんだ」

 この男が自分をヒロから遠ざけたい最大の理由は、本来この男が知り得ない情報なはずだ。

 ユンクは眉間にしわを寄せて立ち止まった。今までとはやや異質の目で"銀"を睨み付けながら、細いが重い言葉を吐きだす。

「……貴様のような馬鹿が以前もう一人いたということだ……」

「え?」

「わたしには一つだけ、自身が知るはずのない記憶がある」

 その表情が何か忌まわしいものを思い起こすような苦い色に包まれる。

「それは、貴様のような馬鹿を迎え入れた時のユンクという男の記憶だ」

 その"馬鹿"とやらは"銀"と同じく、ヒロの心を受け止めようとした男だった。 正義感が強く、純粋でまじめで融通の利かないところのある少年であり、冗談の効かなすぎる実直さから、周囲とはうまくいかない高校生であった。

「あいつは本気でヒロのことを愛していたよ。馬鹿馬鹿しい話だが、ヒロのことを譲ってくれと真剣に頼まれた。思えば馴れ初めの記憶すらない婚約者だ。こいつにならヒロを任せられると思ったよ……」

 実際、その物語ではユンクは「追われる者」を追っていなかった。

「ところが……あいつは、ある時を境に変わったんだ……」

 理由などはユンクの知るところではない。現実世界でいやなことがあったのかもしれない。単純に物語に飽きたのかもしれない。もっと大きな理由かもしれないし、些細な理由かもしれない。

 なににせよ”変わった"。

「それから、奴はこの世界を食い散らかすだけ食い散らかしていったよ。ヒロのことも……なにもかもな」

 その時、ユンクは初めて"向こうの世界"があり、自分は物語の中の一登場人物にすぎないことを彼から知らされた。

 いや、あるいは"事実"をプレイヤーから聞かされるのは初めてじゃないのかもしれない。だが、ユンクはヒロとは違い、ゲーム間でその意識は共有されていない。

 ではこの意識だけが共有されたのはいかなる訳だろう。

 ユンク自身にも謎であったが、糸口になることを語り始めた。

「だがヒロは最後まであいつを信じたんだ。わたしはあいつを斬ることに躍起になった。あいつは貴様ほど強くはなかったから、もっと簡単に追い詰めることができたよ。その時、ヒロは何をしたと思う?」

「……」

「貴様とわたしが見た、まさにあの光景だった……」

 あの時だ。ヒロの手首が刃に飲まれていくあの映像が以前の記憶と重なって、自分であって自分ではない記憶が濁流のように流れ込んできた。

 その記憶は後に整理するまで、彼自身の中でも把握することはできなかったが、目の前に崩れゆくヒロを追いながら、ただ一つ、叫ばれた気がした。「今度こそ死なせるな!!」

 ……それからは無我夢中だった。

「貴様はあいつに似てるんだ。現にヒロは貴様のために手首を切った」

 ユンクが再び剣を持ち上げた。

「もう無責任なやさしさでヒロが傷つくのはごめんだ! 貴様は必ず殺す!」

 彼の、疲労でずっしりと重くなった身体が、身構えた場所から消える。

 たとえ勝ちが見えなくても、ヒロのためにこの男と刺し違えるなら本望だった。


 あれから両者は何度打ち合っただろう。

 月は傾き、空は白んで、鳥の鳴き始める刻限を過ぎても、彼らの剣は互いの鼻先で舞っていた。

 しかしゲームという観点で言えば、このユンクという男はなんと強いことか。"銀"ほどの実力をして長い間決着がつかないのだから、選択肢によってはこの序盤から出てきている男になす術もなく斬られたプレイヤーも多かろう。あるいはそれから始まる物語が王道であったのかもしれない。が、そこは本稿の知るところではない。

 とにかくその強敵を相手にいつ終わるとも知れぬ戦いは続いていた。

 だが、この戦いは唐突にその幕を閉じることになる。

 終わりは、馬のひづめの音が告げた。

 二騎……渦を巻いてる刃の嵐の中へ猛然と突入してくる。その二騎ともが"銀"を蹴散らすように戦場を横切り、きびすを返し止まった。

 "銀"にそれによる怪我はなかったが、決闘の中断を余儀なくされた。

「邪魔をするな!!」

 ユンクはこの二騎を知っている。本来ありがたい助太刀だが、今は誰にも邪魔をされたくはなかった。

 が、その騎兵たちはなおも二人の間に割って入り、一人が"銀"へにらみを聞かせ、もう一人が構わずに叫ぶ。

「ヒロがいません!!」

「「なに!?」」

 交錯する二つの声。

「ただいま定期の巡回に向かったところ、サベルが生体反応を確認できずと判断したため踏み込んだら……」

 その家の所有者である学者は首を一突きにされて絶命していた。なお、生命反応の確認はセラによる遠隔判断であったが、肝心のヒロに関しては死体云々より、まず肉体がその学者宅内に存在していなかった。

「しまった……」

 ひどい自責の念にとらわれるユンク。

 深夜の番は自分に課していた役目だったはずなのに、今日、まさに今日だけ、それを怠った。理由はもちろん"銀"が索敵網に引っかかったためだ。

「馬をお貸しします。すぐに行ってください」

「礼を言う」

 それで、この長かった戦いは終わった。

 軽やかに馬から飛び降りた男に入れ替わり馬上の人となったユンクが、見上げる元部下に対して言った。

「この男を医療所に案内してやってくれ」

「了解しました」

 よろしいのですか?……などと聞き返さない。この男もまた、ユンクに全幅の信頼を置いている。

 そして"銀"を一瞥した彼が言う。

「だがヒロは俺が守る。よそ者はこの世界のことに口を出すな」

 馬はほんの数度瞬きをするだけで見えなくなった。

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