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『名も無き物語』  作者: 矢久 勝基
第4章 王のいる世界
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第四節

 以前、ヒロと二人で座ったことのあるテーブルに、今は名前の知らない男と座っている。もとい、聞いたらしいが名前など覚える気がなかった男だ。

 お互い会話もない白い時間が流れる中、ユキが紅茶を携えて戻ってくる。

「変わった匂いだな」

 ニールがテーブルに置かれた、透き通るようなワインレッドのやわらかい香りに、不思議な清涼感を感じたらしい。

「メルフィン地方のハーブティらしいよ」

 両親の放浪癖については以前述べたが、メルフィンというのはこの物語とはまったく関わりがないくらい遠く離れた地域であり、年頃の娘を置いて年中飛び回っていることの証が、この紅茶にも表れているのだろう。

 "銀"は匂いを感じることはできないが、一応そういうそぶりだけはしてみた。

「お砂糖いるなら言ってくださいね!」

「ああ、お構いなく」

 どうせ砂糖をもらっても味はわからない。

「あのぉ」

 座って自分のティーカップにほんの一瞬だけ口をつけたユキがそれをテーブルに置くと、"銀"のほうへ向いた。

「お名前聞いてもいいですか?」

 その上目遣いの顔がたまらなくかわいらしい。

「"銀"」

「銀? あの金銀銅の銀?」

「ああ、そうそう」

「わぁぁぁ……魔王様にも名前があるんだねぇ? ニール」

「"銀"ってのか……」

「で、お前はニールっていうのな」

「ああ、それは縮めた名前で、ニフェルリングが本名だよ」

 という、とりとめのない自己紹介から、三人の会話は始まった。"銀"にとって、ヒロ以外では初めての雑談の機会である。それだけに、彼には今、非常に興味深い時間が流れている。

 気がつけばヒロとの違いを探すようになっていた。

 ヒロと一番違うところ……彼らは自分の世界以外に「英治の世界」と言うものがあることを知らない。

「は? じゃあなにか? お前は別の世界に生きてるとか言い出すのかよ」

 ヒロは、この世界をゲームとして認識していた。彼らは疑いもなくこの世界を生きている。その分、この世界の住人としてはさらに純度が高かった。

「あ、俺そういうの信じないほうだから。つーか他であんまそういうこといわねーほうがいいと思うよ」

「気の毒そうに言うなって……」

 すっかり痛い奴扱いをされてしまっている。

 彼らはきっと、「お前らはゲームのキャラだから生きてなんかいない」といったとしても、現実世界で英治や他の人間が同じことをいわれるのと同じ反応をするのだろう。

 英治は目を泳がせて、小さなため息をついた。改めてこのゲームの精巧さを感じたのだ。

 あるいはこの画面の向こうには、もう一つの現実があるではないだろうか。ゲームだとはぐらかされているのは自分のほうなのではないか……錯覚してしまう。

 いや、これを俯瞰して議論しても、実際ゲームの世界が現実なわけはない。思いつつも、既存の先入観だけでは語れない学術分野もある。

 量子学というのは実に難解な論理だが、その論調が現実世界ではピンとこなくても、画面の中に広がっているこの世界を、量子学のいう"世界の定理"として見るなら腑に落ちる点もある。

 誰かが『観察』している時だけ世界は存在する……それが世界の真実だとするなら、この世界は英治だけに限定した世界の縮図であり、現実だと意識していないから現実ではないだけで、現実であると意識できれば、この世界もまた、現実であるといえるのではないだろうか。

 もちろん、彼自身にはそれを証明できるほどの学も見識もない。ゆえに結論を学術的にまとめることはできないが、ここでの彼は、少なくともこれらの雑談の途中で指に触れるティーカップのあたたかさや、このメルフィン地方独特の味がわからない自分のほうが幽霊のように思えたようだ。

 英治はこうも思う。

 このような"現実"の中で、なぜヒロだけが生きていることに疑問を感じたのか……。

 ひょっとすれば彼女だけが、現実世界を知っているからなのかもしれない。……英治は今、そういう思いに至っている。

 現実世界とゲームの世界の橋渡しをする役目を負って、何万人のユーザーを迎え入れた彼女だからこそ、この世界では誰も考え得ない自分と現実世界の人間とのギャップを知ってしまった。生きているということの定義に迷ったから、生きていることへの疑問を感じているのではないか。

 英治はそれを彼らとの会話の中で確信すると共に、ヒロのことが気の毒に思えた。

 知らなければ苦しむことはなかった。彼女は自分の存在に疑問を感じながら異世界の男達に微笑みかけ続けて、待って待って待って、やっと"銀"という、稀代のお人よしにめぐり合ったのであろう。

 早くヒロに会いたい。

 会って……どうしてやれたらいいのか分からないが、とにかく会いたかった。

「なぁ、そろそろヒロを探してもらってもいい?」

「ああ、そうか」

 ニフェルリングは忘れていたような声を上げる。というか、関心がないことには関心がないのが彼だ。

「ユキ、犬鼻やって、魔王の彼女探してやって」

「えぇ!? 彼女さんいるの!?」

 このユキという女子高生は、ヒロに比べても表情の変化とその表現がすさまじい。たった今も驚愕というか、明らかに残念そうな表情を浮かべると「萎えた」といって顔を伏せる。その勢いが余ってテーブルにおでこをぶつけていた。

「いやまぁ、彼女ってわけでもないんだけど……」

「学校で俺と戦ったときにいた弓の人だろ?」

 ニフェルリングが言って、"銀"がうなずいた。

「んー、じゃあね、その人の匂いが残ってるものってあるかな……」

 もうすっかり打ち解けて丁寧語はやめてるユキが椅子をずらして立ち上がる。

「匂い?」

「うん、ホントの匂いっていうわけじゃなくて、その人のぬくもりっていうのかな……専門的なことを言うと、人はものをさわるとその人の念がしばらく残るのね。あたしが使ってるのは、それが残ってるものの周波を飛ばして同じ周波を呼ぶセラなの」

 だから正確には「鼻」と言うよりは携帯電話やラジオのような仕組みとなっているが、そんなものはこの世界にはないので発想には浮かばない。

 "銀"は困った。

 ヒロの念が残っていそうな彼女の持ち物を、今の自分は何一つ持ち合わせていない。気がする。なにかあったか。

 "銀"はまるで家のカギをなくしたときのように、自分の身体中を手のひらで探ってみたが、そういうものを譲られた覚えがまったくない以上、無駄な気がした。

 そもそも自分の持ち物など、ユンクに譲り受けた長剣しかないじゃないか。

「あ」

 この剣はヒロの血を存分に吸っている。もしかしたらこれなら……。

 "銀"はこの、鞘すらない、多くの男の血に汚れてそのままになっている赤黒い刃物をおずおずと差し出した。

「これ……」

「ええーーーーーー!!!」

 思わず悲鳴に近い声をあげて、よろよろと後ずさるユキ。

「実はあいつ、これで手首切ったんだ」

「ええええーーーーーー!!!!」

「あれから洗ってないから血は残ってると思う」

「えええええええーーーーーーー!!!!」

「でもその後何十人と斬ったから他の奴の血も混ざってるけど……」

「えええええええええええーーーーーーーーー!!!!」

 にもかかわらず、切れ味がまったく落ちないところだけはゲームなのだろう。

「これで何とかなるかな……」

「むりーーーーーーー!!!!」

「怯えてんじゃねーか……」

 他になんかないのかよといわれたが、思い当たる節はない。この血だらけの剣しか!!

「断固ムリーーーー!!!!」

 「犬鼻」は周波を合わせるものを、おでこに当てなければならない。誰の体液かわからないようなものが、べっとりついた刃物をそうするような勇気は、この風呂上りの女子高生にはない。(いや、この際風呂上りも関係ないが)

「そ、それに、そんなにいっぱい念が混ざっちゃってるものは無理だと思うっ!」

 念の数だけアンテナを伸ばしてしまうために、可能性が多すぎると絞込みは不可能に近かった。

 そして言いたいことをすべて言い終わると、長いまつげを伏せて、すっかり小さくなって"銀"に謝った。

「ごめんなさい……」

「あぁ、いいよ」

 女子がこうなってしまっては頼み込んでも無理なことくらい、学生生活の長い"銀"……というか英治は知っている。

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