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『名も無き物語』  作者: 矢久 勝基
第3章 現実と仮想の狭間で
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第三節

 この議論の終着点には賛否両論あるだろう。

 ただ、大事なのは正しいかどうかよりも、この物語の主人公は今、一つそういう理論武装をした……ということなのだと思う。ここでの美優との会話が、ある意味で英治の未来を決定づけた。

「まぁ、英治くんが言ってることとは関係ないかもだけどね」

「あ、いや、美優ちゃん、すごく参考になったよ。ありがとう」

「うん」

 うなずいてみたが美優自体は納得していない。というか、よく分からない。

 よく分からないし、こんなよく分からないことで、自分のエクステにさえ気付いてくれないものなのか。

「ねぇ、英治くんさ」

「ん?」

「エクステどう?」

「えっと、さっき聞かれた気がする」

 鈍い。

「英治くんさ、結構前に長いの好きって言ってたよね」

「うん、長いの好きだよ」

 一度キツく踏まないとわからないのかこの男は。

「アンタの言うロングヘアは小野小町レベルかよ……」

「え?」

 美優の今の髪の毛の長さは、腰まで……とは言わないがその長さはひじくらいまで届いており、ロングヘアも相当なロングと言っていい。

「長いよね? だいぶ」

「うん」

「似合わない……?」

「いや、姫みたいだよ」

 厚化粧と相まってゴスロリファッションとか似合いそうである。

「でもな、美優ちゃんは短いほうが似合うと思う」

「え……?」

 美優は思わず後ろの首辺りで髪の毛をおさえた。

「そう……?」

「美優ちゃん、初めて会ったころ短かったろ。あの印象が強いよ」

「なんだ……」

 高校のころ、自分はもっとボーイッシュな感じだったし、自分もそれが気に入ってた。

 そ・れ・を・何のために伸ばしていると思っているのだ。

「でもそれどういう意味?」

 美優は眉をひそめた。

 いい女なら髪が短くてもオッケーということなのか。それとも長い髪の似合わない自分を暗に拒否したのか。

 美優は、本当は大学を卒業しても、実家に戻らないでこちらにいたい。そのキッカケになる存在として、英治ならばいいと思っている。

 ただし熱烈に惚れているわけでもない。だから、ふわふわと浮いてる風船のように英治の周りを漂っては、強く引っ張ってくれるのを期待していた。

 自分を着飾って、気を引くように手入れをして、英治がそんな自分の手をタイムリミットまでに引いてくれるかを、軽くゲームのように思っている。

 ……そんな美優の気持ちが、生まれてこの方異性に愛されたことのない……平たく言えばモテない英治には伝わらない。

 英治にしてみれば美優は社交的すぎて、彼にだけ特別な視線を送っていることに気付いていなかったりする。

 すっかり定着してしまった友達という壁は、この、空から降ってきそうなほどの大量の星に囲まれた湖に映る、幻想的な月の力を借りてさえ崩れていきそうにはなかった。


 彼が彼女の気持ちに気付いていれば……もしくはそんな鈍感な英治でも気付くほどに美優が積極的なら、物語は違った結末を迎えたかもしれない。

 このゼミ合宿も美優にとっては空振りに終わった。しかし彼女にとってはアプローチを楽しんでいる部分もあり、それほどの悲嘆もない。

 美優はいい。むしろ英治だ。彼にとってみればこれが最後の「現実世界にとどまるチャンス」だったかもしれなかった。


 彼はその夜空から三日後、物語に帰って来た。


 読者のほとんどはそう推察していると思うが、ヒロは生きている。いや、今しがた難解なことを議論していたので生きているというと語弊が生まれるか。ヒロはあの世界で、まだ呼吸をしていた。

 ユンクは気絶したヒロを抱えて、手綱を片手にほとんど神懸り的な馬術を見せながらチャックビルを一直線に駆けた。途中、それを阻もうとするならず者もいたが、彼は意にも介さずにそれをかわし最短距離に馬蹄を響かせていく。

 プロだった。この迷路のようなスラムの地域を相手に、目印をつけながら進むことを忘れていなかったのである。

 まるで一陣の疾風が通り過ぎたような瞬く間の突撃に、おこぼれに預かろうとする民たちもほとんどが捉える事すらできないまま、気がつけば彼はスラムから消えていた。


 暴徒の地区から離れ、チャックビルとラングスを結ぶ緩やかな峠道で、彼を待ち受けていた影がある。

「お前達……」

 同じ自警団の印章が鞍に描かれた赤色の騎馬集団。……ユンクが解散を命じたはずの十五騎の精鋭たちであった。

 ユンクはこの時、心中こそ感謝に打ち震えたが、それを伝える余裕もないままに、

「誰か先に駆け、医師の手配を!」

 と荒い息で叫んでいる。

 ヒロを抱えたまますべてを手配することが困難なことは知っていた。疲労と動揺で頭もろくにまわらない中で、彼の思いついた言葉はそれだけであった。

 十五騎の精鋭たちは優秀であった。

 余裕のない支隊長に代わり、先に街に散りすべての手配をたちまちに済ませると、彼が到着したころには一列に連なって待っていたのである。

「ヒロが一命をとりとめるとしたら、それはお前たちの働きがあったからこそだ」

 ……ヒロを医師にゆだねたユンクは、感涙を必死に押し殺しながら彼ら一人一人に礼を言った。

 彼らも、そんな支隊長を愛していた。


 ヒロが目を覚ましたのはその日の内ではあったが、すでに"銀"とともに見た夜明けの太陽が、地平線に隠れた後であった。

 うっすらと目を開けると白い天井が見える。ここはどこだろう……。

 やわらかいベッドの上にいる。清潔なシーツの香りが気持ちいい。もう何年もこの感触を忘れていたかのような錯覚と、その心地よさに包まれて、彼女はしばらく天井を眺めたままでいた。

 気だるい。

 異常に疲れているのがわかる。できるなら一週間でもこうしていたいほどに、ヒロは自分の身体が指先さえも重く感じられた。

 やがて何かを求めるように首だけ右へ左へ回してみる。どこだろうという疑問の答えを探した。

 何もないベッドだけの部屋。窓があり、やや開かれた木戸からは、いくつかの星が白く瞬いていた。

 どこか、という答えは見つからないが、動いた際にふさりと頬にかかった長い髪をかきあげようとして右手が動かないことを知る。

 ヒロの右手はギプスのようなもので固定されていた。

 ……余談だが、ヒロは無論、筆者もこの世界の医療技術がどのように発展しているのかを知らない。

 とりあえずヒロはこの後、この右手を後遺症もなく使うことができるようになるから、この世界では「適切な処置を施してからこのギプスのようなもので固定」が正しい治療方法なのだろう。

 なお、この世界はゲームにもかかわらず「大怪我を一瞬で全快させるような薬や魔法セラ」は存在しない。治療を促進する程度のものはあるようだが、「枯れ果てた樹木がむくむく起き上がって枝いっぱいに葉を生やす」ような、見て聞いて驚ける回復媒介を、少なくとも今まで筆者自身、このゲーム内で見たことはない。

 ある意味硬派で、かなりの意味で不親切な内容であった。

 なので彼女の手首の回復にも相応の時間がかかる。その右手の不自由さが彼女に、あの時の記憶を蘇らせた。

 自分でも、恐ろしいことをしたものだ、とヒロは思う。二人の気を引くためとはいえ、思い出せば背筋が寒くなる。

 今となっても二人が戦いをやめさせるのに、あれ以上の方法は思いつかない。しかし、次に同じことがあった時、自分は同じことができるだろうか。自信はなかった。

 そういえば!

「誰か! いますか!?」

 二人はどうなったのか。血にまみれた手首を見た時、意識は驚くほど簡単に途切れてしまった。自分の傷がどれほど深いものだったのかを彼女は知らない。もし自分が軽症で意にも介されずに戦いが続いたものだとしたら……。

「すみません!」

 上半身だけ起こして叫んだヒロが、こめかみを押さえてが再びベッドに倒れこむのと同時に、一人の男が入ってきた。

 少々血が足りないのだろう……ヒロの様子を見てそう思った男は、ゆったりとした口調で口を開く。

「何か食べるかね?」

 自警団にヒロを託された医者だ。名をヴェヴェルという。

「あの……」

 ヒロは今度は起き上がらずに弱々しく声を発した。

「ここは……どこですか?」

「ここかね?」

 医療所だよ。と、この男は微笑んだ。平たく言えば病院だが、この世界は"セラ"という魔法技術があることも手伝って、学者が学問の一分野として身体を治す術を身につけているというケースも多く、ここも正確には"病院"といった医術の専門所ではなかった。

「キミを運んでくれた男は自警団の連絡所にいるよ」

 どうせ聞かれるであろう事を彼は先に言った。ヒロがにわかに色めきたつ。

「運んでくれた人は自警団の人……?」

「そうだね」

 ユンクの無事を知った彼女はしかし、当然もう一人のほうを思い浮かべた。

 "銀"はまだスラムをさまよっているのだろうか。医者に聞いてもわかるはずもないことが気になり、彼女は落ち着かない。

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