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『名も無き物語』  作者: 矢久 勝基
第3章 現実と仮想の狭間で
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第二節

 その日の夜が更け、日が明けて、また夜が来るまでの間、二人が話をすることはなかった。

 英治は、美優の他には、実家が難しいことになって合宿不参加の裕也くらいしか深く親しいゼミ生がいないから、美優に放っとかれると本格的に退屈だった。他のゼミ生と仲が悪いわけでもないのだが、わざわざ割って入って語り合うほどのテンションを、今の英治は持ち合わせていない。

 そして一人になれば、考えていることはヒロのことばかりだ。どうでもいいやと自分に言い聞かせながら、内実気になって仕方がない。

 これから捨てようとしているものは、ひょっとしたらかけがえのないものなんじゃないだろうか。たかがゲームのキャラ……実際に触れ合うこともない関係……だから取るに足らない存在だろうか。

 ヒロインが身を呈して他人を守る。そんな展開はありふれているから、仕組まれたものだと疑うこともできる。

 が、少なくともあの時ユンクが剣を落としたのは偶然であったはずだ。剣を拾いに行かせたのは自分である。それが凶器となったわけで、"銀"を操った英治の判断までもをシナリオの一部と考えてしまうのなら、大げさに言えば現実世界の人生そのものがシナリオだということになってしまう。

 彼女がいつ、手首を切って戦いを収めようなどと思いついたのかは知らない。しかしあの時の目からは、はっきりとした意思が感じられた。……いや、いつだって、彼女は生きていた。生きた目で自分にいろいろなことを語りかけていた。

 それは、単なるゲームの中でのリアルなんだろうか。人工知能が生み出した機械的な判断と行動でしかないのだろうか。

 自分は、本当に責任から解き放たれたのだろうか。むしろ今こそ、自分はその責任を果たすべきときなのではないだろうか。

 ……彼は葛藤しつつも、夜の湖畔で美優を探していた。

 とりあえず謝っておこう。今まで何度も美優に怒られたが、彼女はこちらが謝らないと許してくれない。逆に、謝って許してくれないことがない。もはやちょっとした二人のコミュニケーションの取り方でもあった。

 美優はいつもの軽い調子で「湖を見てくる」といってバンガローを出て行ったらしい。わざわざ向こう岸まで歩いたりはしないだろうから、いるならこの辺だと思うのだが……。

 夜の湖は黒く見える。月の白い光が黒い湖面にまだらに揺れて、静かにたゆたっている様は美しい。それを独り、ひざを立てて座って退屈そうに眺めているのが美優だった。彼女の前で、カンテラの光が揺らめいている。

「おーい」

 あまり避暑地にはなっていない生ぬるい空気の中で、英治が手をあげて声をかけると、彼女は顔だけ翻した。だがそれが英治とわかると、再び視線を湖面に戻してしまう。

 英治はそんな美優の斜め後ろに立って、すまなそうに声を掛けた。

「昨日はホントごめんな。美優ちゃんがあんなに怒ると思わなかったし」

「……」

「ホント、ごめん……」

「……」

 しばらくそのままだった。が、やがて視線だけをよこすと、

「謝りに来るのも遅い」

 とふくれる。そして今度は向こうを向いて後頭部を見せ

「エクステ、似合う?」

 と、不機嫌そうに言った。

「うん、いいんじゃないか?」

「かわいいって言うまで許さない」

「かわいい」

「むかつく……」

「どうしろと……」

「まぁ……そこに座りなさいよ」

 隣を指差す美優。英治は言われるままにした。

「英治くんは就職はこっちでするの?」

「ん?」

「地元帰るの?」

 英治の地元は岐阜県だ。

「いやーーー、あんま考えてないけど」

 しばらく考えて、思いつかないついでに「美優ちゃんは?」と聞き返した。

「わたしも決まってないんだけどね」

 美優はさらに遠い。広島の人だ。

「親はね。帰ってこいって言ってる」

 しゃべっている美優が風上だ。ほんのそよ風だが、それでも英治に女らしい匂いを運んでくる。

「でもまぁ……今はこっちにも残りたいかなあって……」

 この匂いが、ヒロにはない。いや、あるのかもしれない。が、自分には……あの世界で自分だけには、感じられない。

 匂いが生きている証なのだろうか。いや……

「ちょっと……どしたの?」

 美優が、自分のほうを向いたままトリップしてしまっている英治を見て、気味悪そうに顔をしかめる。

「なにかあったの? 英治くんさ、久しぶりに会ったらちょっとおかしくなってるよ」

「あ……いや……ゴメン。美優ちゃんがかわくて惚れてた」

 すると美優はちょっとだけ嬉しそうに顔をほころばせて、すぐに真顔に戻って言った。

「嘘だ。エクステにすら気付かない人に、そんなこと言われても信じない」

「じゃぁさ、美優ちゃんに聞きたいことがある」

「え?」

 心臓が一度、大きめに突き上げた美優の表情が一瞬固まる。

「何……?」

 なんで英治はこんなに真顔なのだろう。月の光に照らされて、真っ黒い湖畔を背景に、ちょっとムードがあるじゃないか。ひょっとしたら……

「あのさ……生きてるって、なんだろう……?」

「へ……?」

 が、しかし、すこし頬を赤らめまでした美優に、そんなムードのまったく関係のない質問が飛んできた。やっぱりこの男の足を思い切り踏んでやりたい気持ちになる。

「なにその何の脈絡もない質問は」

 意味もなく動悸した自分の心臓をどうしてくれるのだ。

 しかし英治にしてみたら十分話がつながっている。「なにかあったの?」と聞かれたから、真面目に今ある悩みを答えただけだ。

「こんな……なんていうか……変な質問は美優ちゃんにしかできないからさ……」

 この子は厚化粧とちゃらちゃらした容姿とは裏腹に至極真面目であり、他人のどんなテンションにも斜に構えないところが英治は好きだった。

 とはいっても、さすがに美優の視線は冷たい。

「ほんっとにねぇ。わたしはちょっとがっかりしちゃったよ」

「え?なにが?」

「いいよ。英治くんには期待してない」

「えー、なんだよ」

 本当に分かっていない男だ。本気で足を踏むと決めた日はハイヒールで会おう。

 それでも一日ぶりに「ようやく」仲直りしたのだ。波風は立てまい。

「それで? なに? 生きてるってなにって?」

 代わりに説明を求めることにする。英治は湖面に視線を移し、遠くを見ながら言った。

「んーーと……例えば俺は生きてるだろ?」

「うん」

「美優ちゃんも生きてるよな?」

「うん」

 英治は自分の手の届いた適当な石をもって美優に見せた。

「この石は生きてないよな?」

「うん」

「その違いはなに?」

「息してるかどうか」

 即答。英治もそれはわかる。

「でももし、この石が普通にしゃべったらどうする?」

「息してないのに?」

「まぁ、うん」

 自分で考えて、自分で言葉を発し、喜怒哀楽の感情を持ったら……。

 美優は、そんな英治の言葉に必死さを感じながら長く「うーーーん」とうなってみた。この男はたまにこういう変なところがある。

「そぅだねぇ……。子孫を残せないから不可かな」

「ふむ……」

 美優の意見はこうだ。

 生命の最大の役目は種を保存することであり、花でも虫でも、それが生きている最大の特徴だろう。よって、産めよ増やせよをしない石は生きていない……美優はそんな風に答えてみた。

「うーーん」

 今度は英治がうなる。なるほど、確かにそうかもしれない。だが最近は一生結婚をしない人も増えているし、不妊で悩んでる人もいる。一生子供を作らなくても人は誰しも生きているわけだし、自分も生涯独身である可能性もあるわけで、そんなことで生きていないとは言われたくない。

「えーーそういうこというわけ?」

 少々もてあましつつも、もう一度頭を捻る美優はその過程でこう聞いた。

「なにを求めてるの? 何か思うことがあるからそんなこと聞いてるんでしょ?」

「まぁ……」

 だが、ヒロのことなど直接はいえない。どう言えばいいか……。

「例えばだ。マンガのキャラって生きてないだろ?」

「そうだね」

「あんなにいろいろしゃべって動いてるのに?」

「自分で考えてるわけじゃないじゃん。作者っていう生きてる人が考えてるんでしょ?」

「ってことは自分で考えることができるっていうのは、生きてる一つの条件かな?」

「じゃあ英治くんは雑草とか、モノ考えてると思う?」

「……」

「雑草は生きてない?」

 …………。

 生きてるって、なんなんだろう。

 やはり、実際に触れられて、匂いを感じるものが"生きている"んだろうか。

 英治がそんなようなことをつぶやくと、今度は美優が反論した。

「でもさ、ラインとかツイッターの相手とかは直接触れないけど生きてるよね?」

「まーな、そりゃスマホの向こうで人間が生きてるからな」

「あ、でもね、わたしたまにラインで「わたし死んだな」って思うことがある」

「え?」

「わたしラインの友達いっぱいいるんだけどさぁ」

 その中には直接会ったことのない"友達"も多いらしい。

「気持ち離れてくるとだんだん会話しなくなっていくじゃん。たまにトーク飛ばしてもスルーされちゃったりしてさ」

 美優の中で惜しい関係もあったのかもしれない。言葉の端になんとなくそう思わせる陰がある。

「あの人、なんかあったのかな……とか、もしや死んだかなとか思ったりするけど、そんなことってほとんどないんだよね」

「ないね」

「そういう時……あぁ、わたしはその人の頭の中で死んだんだな……って思う」

 ようするにさ……と美優はひざを抱えたまま小さく英治を指差して続けた。

「その人に必要のない存在になった時に、その人の中では死んでるんだよね。わたしはもう」

 言う美優の目には力がある。やはりよっぽど口惜しい経験があったに違いない。

 ラインやネットの関係というのは直接顔を合わせるわけではないから、徹底的に無視をされれば壁と話しているのと同じだ。そういえば英治自身も返してほしいメールが返ってこないで不愉快になることはある。

 知り合いですらそうなのだから、会ったこともない他人など、なおさら無責任なものなのだろう。

 美優はもう一度目をそらすと、ひざを抱え直して夜空を見た。

「「忙しい」なんて言い訳ありえない。レスもできない忙しさってなに? ないない、分刻みの売れっ子アイドルかよって感じ」

 面倒になれば投げ出せる関係。最近の希薄な人間関係の特徴かもしれない。その縁の切れ目を死とする美優の発想も飛躍しているが、話はわからなくもない。

「生きてても……死んでるっていうことはありえるのか……」

 英治はポツリとつぶやいた。

「そ、生きてても、人の心で生きてなければ、生きてないって感じる」

「人の心で生きてなければ……か……」

 そういう観点は何学……というのだろうか。生物学などではないだろう。ただ、人がそれを納得できるのであれば、生物学の"生きている"という定義とは別に、"生きている"といっていいのか……?

 わからない。が、そういう観点から物を見れば、自分が生きていることを信じ、他人の心に生きていれば、その人物は生きている。

 "銀"であった自分が「お前は生きてる」といった時のヒロの恍惚とした表情……。彼女はひょっとしたら、あの時初めて、この、生きるための二つの条件を揃えたのではないか。彼女は、初めからそういう観点で物を見ていたのではないか……。

 だとすれば、ヒロが今"生きる"のに、自分の存在が必要なのではないだろうか。

「……」

 ヒロに会いたい。

 ……英治は今、強く思った。

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