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『名も無き物語』  作者: 矢久 勝基
第3章 現実と仮想の狭間で
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第一節

「ありやっしたーーー」

 客に声だけで挨拶をした英治が、ふと隣からの視線を感じて振り返った。

 レジの裏のパインのスムージーの詰め替えを、見もしないで行いながら彼を見ていた陶冶とうやが、それをキッカケに口を開く。

「お前、なんか変じゃね?」

 前も紹介したが、英治と同じコンビニで働いている一つ上の先輩である。コンピュータを扱う情報学部の学生で、ひょろ高い容姿と細い目が特徴であった。

 なんとなくこの二人は気が合うようで、彼は英治の面倒をよく見ていたためか、今日の英治がどことなく抜けている様も分かるようだった。

「なに、パチで大負けでもしたか?」

「いえ……なんでもないっす」

「スロットで大負けでもしたか?」

「いえ……」

「馬か?」

「いや、俺賭け事やってないっす」

「あっそう」

 今日の英治は会話が弾んでいかない。まるで陶冶が一方的に粘土を投げつけているようである。

 それからしばらく、二人は黙々と業務を行っていたが、思い出したことがあった。

「お前さ、そういやあれやってたよな。『名も無き物語』」

「……」

 英治の反応に一瞬、変な間ができたことを感じながら陶冶は続けた。

「あれどうなった? 強くなった?」

「いや……」

 わざと視線をはずした英治が、冷蔵庫からメンチカツを取り出してオーブンにかけながら言う。

「あれ、もう辞めると思います」

「なんだよ。飽きたんか」

 カラカラと乾いた笑い声を上げる陶冶。

「いやぁ、ゲーム性としてはクソですね」

 英治はその笑いに乗るように作り笑いを浮かべてみせた。

「全然融通利かないし、リセットできないし、回復できないし、ヒロインがなんだか陰気だし……」

 そのヒロインの痛みが、苦しさが、一生懸命さが、自分の心の奥底まで伝わってくるし、だから生きているかのように思えてしまうし、それゆえに自分の行動に責任をもたなければならないし……

 自分の愚かな未熟さで、彼女を死の淵にまで追い込んでしまうし……。

「なんか……いろいろ面倒なんですよね」

 彼の作り笑いが続いている。陶冶もさすがにその奥底までが分かるわけではない。「ふーん」と微妙な相槌を打つと客を一人捌いた。

「じゃあ、もういらねえんなら俺にくれ」

「いや、それは無理っす」

 それでいて、英治は即答した。

「なんで? もうやらねんだろ?」

「……」

 もしそうだとしても……無理だ。

「ま、いいや」

 コイツやっぱりなんかヘンだな……と、陶冶は英治の表情を見て、一瞬おどけたような姿を見せるとそれ以上を話すのをやめた。

 ……陶冶はその日、まるで一人で仕事をこなしているような気分だった。


 彼は抜け殻のまま、現実世界に戻ってきている。

 あの時のヒロの一連の表情が、目に焼きついて離れない。

 軍装の男が走り出したとき、彼女からまず溢れた感情……あれは恐怖であったのだと思う。悲鳴をあげ、そのまま二,三歩よろけるように後ずさり、そして、確かにこっちを見た。なにかを思い出すかのように。

 あの目は次に剣を見ていた。顔は変わらず恐怖であったが、さっきの怯えの恐怖ではない。今思えば、自分を傷つけることへの決心の恐怖であったように思う。

 そして彼女の大きな緑色の瞳が一際大きく見開かれた時、白く研ぎ澄まされた刃にその手首は吸い込まれ……

 ……思い出すだけでも身の毛がよだつ。間違いない。あれは"銀"を護るために斬ったのだ。

 ヒロはあの時確かに、恐怖におののきながらも一瞬も目をつむることなく、自分の腕を切り裂いた。

 ……俺などという、くだらない男のために。

「おい!! 起きろ馬鹿!!」

「え?」

 目の前に、厚い化粧の女がいる。

「あれ、美優ち……」

「こ・ん・な・美・女・を・目・の・ま・え・に・し・て、寝てんじゃない!!!」

「いや、起きてたろ」

 目も開いていたし、そもそも立っているじゃないか。

「じゃあ返事くらいしろ!」

「あ、わりわり、なに?」

「なに、じゃないよ。今ここがどこだかわかってんの!?」

「え? ゼミ合宿……だっけ?」

 英治の中でまったく興味もなかったので、環境すら何も描写できないくらいに無関心だったのだが、ここは富士五湖の一つ、西湖のほとりにあるキャンプ場である。

 経済学を学ぶのにキャンプもクソもあったものじゃないと彼は思いつつも、だからといって特にこれといった批判もないようだ。気持ちはとにかくそれどころではない。

「そ・の・ゼ・ミ・合・宿・で、立ったまま寝てていいと思ってんのかアンタは!!」

「だから寝てないって。二十一時のディベートのミーティングまで自由じゃなかったっけ?」

「自由行動は立ったまま寝ていい時間じゃ、ない!」

「なんだよーー。なんか用か?」

「……。……別に……」

 美優としては心中穏やかではなかった。

 自分がこのゼミ合宿に(無理やり)誘ったのだ。こんなにつまんなそうにされているとどうしていいのかわからなくなる。

「ねぇ、英治くん。わたし悪いことした……?」

「え?」

「そんなに来たくなかった? ゼミ合宿」

「えっと……」

「だとしたらゴメンね。もう誘わないから」

「あ、いや、そういうわけじゃないんだよ。ゴメンゴメン」

 むしろ、こんな時に気分転換はいいもののはずである。

「美優ちゃんさ。髪伸びた?」

 なんだか最後に会ってから三週間弱しかたってないのに、美優の髪の長さが異常に伸びているように思う。

 しかしこれも美優とっては地雷であった。

「ハァ? エクステだよ。それより今、初めてわたしのこと見たわけ?」

 その質問をするなら今日初めて会った時にするべきだろう。それくらい自分の今の髪型はいつもと極端に長さが違うのだ。美優はデリカシーのないこの男の足を、思いっきり踏んでやりたい気持ちになった。

「もう信じらんない! いいよ、そこで立ったまま寝てろ!」

「あ! 美優ちゃん!」

 走り去った美優の先に、傾斜してゆく砂利道とバンガローがいくつか見える。さらに向こうに木々が見え、山が見え、空が見えた。

 英治はそのとき初めて、自分が来た場所の空気を感じたのであった。

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