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『名も無き物語』  作者: 矢久 勝基
第2章 「追われる者」
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第十節

 その二人の目の前に現れた男がある。ようやく追いついたユンクであった。

 彼は"銀"に抱きしめられて一つに重なったヒロを見た。

「ヒロ……!」

 下馬して走り出すユンク。傾斜が安定せずに岩がごつごつとせりあがっている足場の悪い丘陵地帯である。気持ちがあせり、馬の操作もまだるっこしかった。

「ヒロ!!」

 彼の声が二人に届く。ヒロにしてみても声の主はすぐに分かった。

「ユンク!!」

 その声は驚愕であった。反射的に立ち上がったヒロの視線がユンク、"銀"と行き来する。その何度目かのやりとりの間に、ユンクが剣を抜いたのが見えた。

「ユンク待って!!!」

 ヒロが叫んだ時はユンクはまだ"銀"の間合いのずいぶん先にいたが、その声に呼応したように一瞬ユンクの姿が視界から消える。

 そして次の瞬間、突如"銀"の直上に現れた剣士は彼を袈裟に斬りつけた。

「な!?」

 反射的に身を翻して横に飛ぶ"銀"。しかし斬撃は服を切り裂いて上半身を薄く傷つけた。

 さらに追撃するユンクの剣には怨にも似た感情がこもり、立て続けに"銀"へと降りかかる。傾斜もつき、足場の悪い岩場で"銀"は全身を傷だらけにしながら、半ば転がり落ちるようにしてそれを避けた。

 痛みはない。ないからこの岩場でその選択を素直に受け入れることができていたが、現実であれば同じ反応のよさをもっていても、躊躇して命を取られたかもしれない。

 転げ落ちた先で立ち上がる"銀"。ふと戦場を仰げば、ヒロがユンクに取り付いている。

「ユンク! やめて!!」

「ヒロ……」

 彼は安堵を帯びた目で最愛の妖精を映し出したが、それを反射する彼女の瞳の色が、彼の望むものではないことにはすぐに気付いた。

 それでも一瞬"銀"のことすら忘れて彼女を見つめ、

「ヒロ、無事でよかった」

 言う。最大のやさしさをこめたつもりだった。しかし伝わらない。

「ユンク、お願いだからやめて……」

「……」

 彼はしばらく目をつむり……別の言葉を返す。

「あいつが好きか?」

「……」

 ヒロは、答えられなかった。自分の気持ちが自分でもよくわからない。

 好き、嫌い、ではない。今この瞬間、あの人がいなければ「生きていない」気がするのだ。ユンクを愛する気持ちとは違う。いや、違うのだろうか……?

 自分でも、よくわからない。違う気がする。

 ……ただその沈黙はユンクにとっては、残酷な答えであった。

(わかっていたことだ……)

 彼は婚約者に背を向け言う。

「あいつだけはだめだ」

 "銀"を見た。少し遠いところでじりじりと動きながらこちらを睨みつけている。たまに視線がうごくのは、何か得物になるものを探しているのかもしれない。しかし、それが見つかるのを待ってやるつもりは毛頭なかった。

 こんなに人を憎悪したことはあったであろうか。全身の血が、彼に一つの言葉を吐かせる。

「……殺す」

「ぜったい駄目!」

 悲鳴と共にヒロの左手にはエメラルド色に光る大型の弓が現れた。

 その出現を、にわかに感じる殺気を、背中で受け止めたユンクがさすがに動揺に肩を震わせる。が、それも一瞬であった。

「あいつを討ち取ったらその矢、正面で受け止めてやる。お前に殺されるなら本望だ」

「あ!」

 次の瞬間、彼の姿は"銀"の目の前に移動していた。


 ユンクは瞬間移動ができる。

 現実世界ならともかく、こんなゲーム空間なら驚きもしない。だからといって対処方法があるわけではないが、ずっと目を凝らしていた"銀"は反射的に後ろに飛んだ。瞬間、彼のいた場所が二つに切り裂かれる。

「さすがだな」

「へっ、わかってればよ」

 だからとて、それは戦いに勝つ方法ではない。

 男の攻撃は執拗で、これほど足場が悪いのに鮮やかに剣撃が連なっていく。先日のニフェルリングも相当なものだったが、経験や熟練具合が比にならなかった。

 攻めきれないのは地形のせいだ。ただ、決定打がないだけで、思うように身動きの取れない"銀"の被害も徐々に拡大している。肩を斬られ背中を斬られ、足を斬られた。逃げ切れないのは明白であった。

「くそ……」

 服が、血と絶望に染まってゆく。死んだらどうなるのか。

 ゲームだからどこかで生き返るのだろうが、死ねばなぜか、ヒロにはもう会えない気がした。とすればもうこのゲームに関わる必要もない。もはやヒロを置いてこのゲームを続ける気はなかった。

 普通の生活に戻るのか。彼は丘陵の草むらをみっともなく転げ回りながら、漠然とこの白昼夢が尽きるところを思い浮かべている。

 ……普通に大学に行って、バイトやって、仲間と適当にやって、そろそろ就職活動で、なんとなくすごして……。

 ……英治は、ここで"普通"でない何かが見つかりそうな気がしていた。

 それが何かを説明することは今の時点ではできないし、実際に形のあるものかと言われればそういうものではない気がする。

 しかし漠然と……かけがえのないほどに大切なもののように思えるそれは、ヒロを失えば完全に見失うだろうことだけは容易に推察できる。

 失われていく非日常を感じながら、"銀"は自分を必死に追ってきた妖精の姿を探した。……もう一度話せるなら俺はヒロに……、

「しまった!」

 一瞬よそ見をした"銀"の腹に、ユンクの剣が深々と突き刺さる。剣は腹を突き通し、背中に貫いていた。

 "銀"とユンク。二人の瞳が交錯する。なおも剣を押し込み血を強要する男の口元に覗く、硬くかみ締められた犬歯から、殺意と憎悪があふれ出して止まらない。

 だが"銀"のブレインである英治は、まだ"銀"が死んでいないことを知った。

「丈夫だね」

 同時に、一矢報いる手だけは思いついた彼は、突き出したユンクの腕を右手でつかみ、さらに手繰り寄せた。

 剣がさらに奥深くへと突き刺さる。そのまま手の届く距離まで来たユンクの顔を左手で目いっぱい殴り、右手を離すと今度は左足で彼の腹を蹴り上げた。

 ユンクの体がまるでトラックにハネられたかのように大きく吹っ飛ぶ。蹴りの強さが漫画のような威力であるのは初めて襲われた時に実証した通りだ。


 ユンクのいたところに白く光る棒状のものが二本突き刺さって、細く深い穴を穿ち、消えた。それがヒロの矢であることは間違いなかったが、迷いに迷ったのだろう。突き刺さったのはユンクが吹っ飛んだ後である。

「銀さん!!」

 駆けてきたヒロの金切り声が"銀"の耳を突き抜ける。

 彼の腹から剣は抜けていた。あの瞬間を誰も正確に見ていないので、どういう過程を踏んだのかわからないが、剣は今、ユンクと"銀"の中間地点に落ちている。

「大丈夫ですか!?」

「ああ大丈夫大丈夫。死んでないみたいだし痛くない」

 必死の彼女に対して、能天気な"銀"の返事はムードのカケラもないが、この分身は次に攻撃がきたら確実に死ぬ。英治だけが分かるところで、画面がそう伝えていた。

「くっ……」

 しかし表面的には、腹を押さえて立ち上がったユンクのほうが、むしろ苦痛に歪んでいる。突き刺さった"銀"のつま先がみぞおちに入ったらしく、横隔膜が震えてしばらくまともに息ができない。

「ヒロ、剣を……」

 "銀"はユンクに睨みを効かせたまま言った。

 自分が前に出ればユンクも出る。今、もみあいになれば自分は死ぬ。ここはそんなそぶりを見せず、戦う構えを見せつつ第三者が得物を奪うのが一番だ。

 互いに無手の中、刺しても平然としているこの「追われる者」に警戒したユンクも……"銀"の術中にはまり……剣に向けて飛び出すことはできない。

 剣は結局戦場の真ん中を駆けた女神の手に渡る。

「ヒロ、それを渡せ……」

 ユンクの息が整ってくる。と同時に彼はヒロの剣に向かって手を伸ばした。

「やだ……」

 その剣を引きずったまま、ユンクから、"銀"からも距離をとるように後ずさるヒロ。

 これには"銀"も目を剥いた。ヒロは今、どっちの味方でもなかった。

「ヒロ、今この男を殺しておくのは、お前のためでもあるんだ」

 三角形となった位置関係で、お互いのパワーバランスが拮抗して動けなくなったこの場所で、ユンクは諭すように言う。

「この男といれば必ずお前は不幸になる」

 世界中がこの男を狙っているのだ。この男につけば、必ず彼女も狙われる。

「俺でなくてもいい。お前が幸せなら……だがあいつへの気持ちだけは、断ち切らなければならない」

「いや……」

 ユンクが一歩出ればヒロが一歩下がる。そして、"銀"は一歩、ユンクのほうへ進み出て、この三角形が膠着している。

「頼む……」

「ユンクお願い、これ以上こないで」

 ユンクの足取りは完全に戻っていた。飛び込まれて力ずくになれば間違いなく剣は奪われる。ヒロは今、心底自分の婚約者におびえていた。

 凍りついた戦場。しかしその氷は限りなく薄い。ひとたび足を踏み入れるだけですべてが崩れ去ることを誰もが感じ、未来を知ることを一瞬ためらう。

 その薄氷を、初めに踏み抜いたのは、ユンクであった。

「ヒロ!」

 婚約者の名を叫び、大地を蹴る剣士。すかさず追う"銀"。ヒロは……

 ……ヒロはこの三角形が踏み潰された時、一瞬悲鳴を上げた。そして起こした行動に、男二人の絶叫が重なった。

「「ヒロ!!!」」

 釘付けとなった男たちの視線の前で、ゆっくりとひざまずくヒロ。その手首からはおびただしいほどの血が流れ、手を真っ赤に染めている。

 一瞬、空を仰いだような格好になった血染めの妖精は、そのままゆっくりと崩れて目を閉じた。


 剣を守ることができないと知った時、ヒロはその剣を垂直に立てて、刃に沿わせるように一気に右手を振り下ろした。寒気がするほどに砥がれた白い刃が彼女の手首に飲み込まれていく様を、二人は目の当たりにした。

「ヒロ!!」

 崩れゆく彼女を先に抱えあげたのは、ユンクのほうであった。

「止血!!」

 彼は自分の着ている服を、切り裂くと彼女の脇、動脈の根元で強く縛り始めた。

「貴様は手首を押さえろ!!」

「分かった」

 こうなると敵も味方もない。とにかく二人とも、この娘を死なせるわけにはいかなかった。

 やがて応急処置を終えるとユンクは立ち上がる。

「自警団の連絡所に連れて行く」

「まてよ。勝手なことを言うな」

「では貴様に助けられるのか?」

 言いながら、彼はヒロを抱きかかえた。

「この処置だけではまったく足りん」

 特にこの圧迫法は長引けば腕が壊死する。

「急がなければならない」

「俺も……」

 言いかけたその物欲しそうな表情を、ユンクは鼻で笑った。笑いながら声は怒気を含む。

「ふざけるな……」

 彼はすでにヒロを抱え、馬のほうへ歩き出していた。

 "銀"は睨みながらも立ち尽くしている。ほかに道がない。今の自分にヒロを助ける力はなかった。

 その様を一瞥したユンクが言う。

「その剣はくれてやる。貴様が無事にこのスラムを出ることができれば、また会う機会もあるだろう」

 貴様は俺が殺したい……最後にそう付け加え、彼は消えた。

 目の前にはヒロの血をいっぱいに吸ったユンクの直刀が転がっていた。

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