第二節
英治にはしかし、ヒロについて考える余裕はなかった。彼女が消えるのとほぼ同時に、入れ替わりで押し入ってきた影がある。
その数は四か、もっとか……まだ視界に慣れないの画面の向こうで、一瞬では勘定できない人数がそれぞれの得物を片手に、どかどかと乗り込んで"銀"の前で身構えた。
「「追われる者」ねぇ……」
なんとなく納得しつつ、彼は眉をひそめる。自分の剣が、遠く出口近くの壁に立てかけてあるのだ。
刺客達は逡巡なく振りかぶった刃を一斉に振り下ろす。反射的に身をよじって地面を転がる"銀"の背中で切り刻まれたベッドの羽毛が、派手に舞い上がった。
それがハラハラと部屋に散らかる頃、足元をもぐるように這い出した彼が、壁を背にして振り返る。
「リアルだね」
黒い影たちの向こう、ズタズタになった布団の無残な姿に自分を照らし合わせれば背筋も凍る。画面を通してでもその様がリアルすぎて、たとえ斬られても痛くないということを忘れそうだった。
自分を殺そうとしている集団はしかし、容赦なくその距離をつめてくる。反りの入った刃が影の数だけ怪しく揺らめいて、次の瞬間、そのひとつが上から斜めに襲い掛かってきた。
「!!」
"銀"の身体が袈裟斬りの死角、左斜め下に流れる。剣は彼が元いた場所を一瞬遅れで通り過ぎた。その剣尖が、ばんっ!という音とともに部屋の壁を数センチ斬り裂いて止まる。
「斬るな! 突け!」
狭い小屋の中で円軌道の斬撃は都合が悪いことを知った彼らの剣尖が下がる。しかし次の一撃をかわした"銀"の表情は、すでに落ち着いていた。
剣筋が、見えているのである。
彼には、今どきの他の多くの若者と同じように、幼い頃からゲーム文化が浸透している。対峙している刺客の剣は決して遅くないが、ゲームの中でだけならもっと綱渡りの大博打を打たなければならない修羅場をいくつもくぐり抜けている。同ジャンルのゲームの基本操作方法などはほぼ同じであり、今、ここにいる“銀”は、戦いに関して言えば、一流の戦士と変わりがなかった。
四人目のぬるい一撃を寸ででかわし、ためしにその腹を蹴りあげてみる。
「ぐぅ……!」
数メートル先の部屋の壁に叩きつけるほどの威力を持ったそれが、驚愕の表情を浮かべた男を悶絶させる。
「すげえ……」
空手などの経験はない。が、"銀"という主人公としては、このレベルの相手だと軽く蹴ってもこのようなポテンシャルを持っているらしい。
これは楽しい……そう思った瞬間から、ステージは彼の独壇場と化していた。
気がつけば朝になっている。
襲われたのが明け方だったのかよくわからなかったが、木製の部屋の窓からは光が差していた。それとともに、朝を伝えたのがヒロ……。
彼女はおずおずと部屋の扉を開けて入ってくると、小さな声で「おはようございます」とだけつぶやいた。
どうやら朝食のスープを持ってきたらしい。腕に下がってるバスケットには今朝焼き上げたのだろうか。パンがいくつも重なっている。ゲーム内なのでさすがに匂いを感じることはできないが、視覚で感じられる部分だけで十分にうまそうに見えた。
「なぁ……」
"銀"が転がっていたベッドから起きる。と、その動きを追ったヒロの視線がズタズタのベッドに落ち、彼が何か言いだす前に悲鳴を上げた。
「これ……!?」
「昨日アンタが出てった後に襲われたんだよ」
せわしなく机にスープとバスケットを置き、"銀"の方に駆け寄ったヒロが顔を覗き込んだ。
「大丈夫でした……?」
「なんともない」
闘いはあの後、二、三のやりとりがあったが、力の差が歴然であることを知り逃げられる者から順に逃げていった。その時のことを思い出せば、「追われる者」という言葉の意味が、聞かずとも納得させられる。
しかしそれより、"銀"は彼女と再会したことに安堵していた。なんとなく謝りたい気分だ。
「昨日、悪かった」
なんだか、コンピュータープログラムに謝るのも妙な感じがしたが、"作り物"と切り裂くように言い放った時の、ヒロの悔しそうな表情がどうにも頭から離れなかった。
「ごめんな……」
「……」
ヒロはうつむいて黙り込んでしまう。……なにを考えているんだろう。いや、何かを考えているのだろうか。
英治はその沈黙の間、ぼんやりヒロの姿を眺めていた。
モチーフは妖精か。華奢な身体と、一流の彫刻家の最高傑作であるような端正な顔立ちと表情……普通のグラフィックではどうしても不自然になる肌や、口や目の動きまで完璧に人間くさい。腰まで伸びている長い髪は、その一本一本に質感を感じ、滑らかに彼女の背中を隠している。山吹色のノースリーブ型のワンピーススカートも、腰の辺りに撒かれているすもも色の帯も、背中に小さく広がっている天使のような羽も、すべてすべてが彼女をかわいらしく彩っていた。
しかしそんな容姿よりも……。
彼は、両手の平を自分に向けてその手をじっと眺めたまま、一つ一つ自分の言っていることを確かめるように語りだしたヒロに目を据える。
「……わたし、あんなことで、怒るはずのない女なんです。たぶんホントは……」
澄んだ声がまるで本当に生きているかのように不自然なく英治の耳に流れ込んでくる。
「自分がゲームの中に住んでることも、作られたことも知っています。だけど……わたしは、自分が生きてると思うんです。自分の目で見て、自分の耳で聞いて……どんなことだって考えることができます」
今日の夕ご飯を考えることだってできるんですよ。……と、自分の想像できる精一杯の冗談を言ったのだろう。ここで少しだけ表情が和らいだ。
「わたしは、生きてるんです……」
自分自身に言い聞かせるようにつぶやくヒロ。そして、その唇に手を当てて、自信のない評価を待つ子供のような表情を浮かべた。
「だから……「設定がある」とか「道案内のためだけにいる」とか……わたしの意志で生きてないと思われるのは悔しいんです。銀さんの世界にもたくさんいる人と同じように、ちゃんと生きてる人として接してくれませんか……?」
"銀"は思わず視線をそらす。
……感服を通り越して、少し気味が悪い。
そういう第一印象を抱いたこの時の英治は、まだヒロという少女の深遠を、まったく理解できないでいた。