第八節
少し話が前後する。二人が夜のスラムを歩き出す数時間前の出来事だ。
二人を追いかけたい自警団の支隊長ユンクは、自警団の最寄の連絡所に詰め掛けていた。しかし相手は自警団もサジを投げていたチャックビルである。許可が下りる気配は無い。
「われわれがヘタに踏み込めば暴動になる可能性がある」
高級そうな木製の机越しに、涼しい顔のまま事も無げに懇願を退ける上司に対して、ユンクはあくまで食って掛かった。
「しかし「追われる者」を放置してはさらに厄介なことになります!」
「場合によっては、チャックビルの連中が始末してくれるんじゃないか?」
それでは困るのだ。奴の隣にはヒロがいる。彼は歯を食いしばってその言葉を飲み込む。
「……「追われる者」は自警団が討伐すべきです。街の治安を守り、住民を安心させる役目にある我ら自警団が、この世界的な脅威にただ指をくわえてみていたとあらば、末代までの笑いものです」
「その治安を守り住民を安心させる自警団が、暴動の引き金になっては本末転倒だろう!」
ユンクのかみ締めた奥歯に、さらにきしむほどの力が加わる。拳は硬く握られ、震えていた。
「ユンク、お前の欲はわからんでもない。「追われる者」は確かに最大の名誉だ。しかし我らには守らねばならない責務があるのではないか?」
「違う!!!」
力任せに机に叩きつけられたユンクの拳には、爪が食い込んで血がにじんでいた。
自警団など辞めても構わない。
ただ、あの場所に一人で踏み込むことは、あらゆる意味で危険であった。
自分自身の剣技への不安ではなく、利益のためなら手段を選ばないスラム民を相手に、例えば自分が"銀"と掛かりきりになった時、一人ではヒロの安全が確保できない。
彼は人もまばらな街道を馬で往き、例の学校に戻ると部下の中でも手だれを十五人ほど集めた。
「許可が下りた。今よりチャックビルに向かう」
これしかない。馬上、ユンクは単独で動くことに決めていた。のち、どのような処分が下されるかはわからない。だがそんなことも今はどうでもいい。
"銀"を殺し、ヒロを取り戻す。それ以上の優先事項などはない。
十五人の部下も何も動揺することもなく、下令と共に各自準備のために八方に散った。手際のよさはさすがである。この精鋭ならばすぐに出発もできよう。
ユンクは彼らのたくましさに助けられ、この時ようやく天を仰ぐ余裕を得た。
すでに日は落ちかけている。突入は夜半になるか。
この一連の会話を聞いていた学生がいる。
「チャックビルだって」
ユキは自分の教室で、両手の親指人差し指中指を三本立ててそれぞれ両耳に当てていた。ユンク達が会話をしていたのは遠く、校庭の一角だったが、それくらいの距離なら隣で話しているかのように聞くことができる。
彼女お得意のセラの一つ、通称「猫耳」だった。
「チャックビルってあのスラム?」
隣で壁にもたれかけていたメルケルが言う。
「だねぇ」
「チャックビルか……」
ニフェルリングがつぶやいた。自警団たちの会話を盗み聞きすることを頼んだのは彼だ。
"銀"の動向が気になった。今勝負をしても勝てるわけではない。だからすぐにどうこうというわけでもないのだが、彼を見失いたくない気持ちがある。
「チャックビルは駄目だよ? ニール」
「いかねーよ」
ちなみに学校内で編成された見栄っ張りたちによる討伐隊だが、自警団が動き出した今、そのほとんどは解体された。自分達が子供の軍隊だということは分かっている。
「なぁニール、俺たちでやろうぜ。一生に一度だよ、たぶんこんなチャンスは」
分かってない男もいる。
ニールは少し考えるようなそぶりを見せたが、放課後の窓から差し込んでくる日差しを見つめて、つぶやくように言った。
「俺ら二人でも無理かもな……」
「そんなに強えか」
「強えのもそうだけど、隣にいた女……」
暗がりで顔もよくは見えなかったが、弓の実力は決して素人の仕事ではなかった。一本目、二本目共に、撃ち出すまでによく狙う時間などなかったはずなのに、正確に自分の顔を目がけて撃ってきた。
自分とメルケルの二人で"銀"に打ちかかったとして、外からあの矢で正確に狙われたのではまともに戦うことすらおぼつかないのではないだろうか。
「女は女同士でユキに任せればいいよ」
メルケルが軽く笑うと、ユキがぶんぶんと両手を振る。
「え、あたし無理だよ? チャックビルとか怖すぎるもん」
「そっちかよ」
ニールが吹き出した。
一応彼らは全員戦闘訓練がなされているので、ユキも戦うことができないわけではない。いや、実際彼女はセラに相当の教養を持っているから、意思さえあればすでに立派な戦士であった。
「とにかくあの二人を相手にするんなら、俺がもうちょっと強くならないと無理だ」
メルケルは嫌がるだろうが、その上で、自分が「魔王」、メルケルがあの女と戦って、やっとつりあうだろう。
なににせよまだまだ先の話だ。今から勇んでも仕方がない。
……彼はやや乱暴に頭を掻くと、いつものように机に突っ伏してしまった。
スラムの夜道を歩く二人。ヒロが言うには物が腐ったような匂いがたちこめているらしい。
英治がその匂いを感じることはないが、時々なにかの虫を踏んだのではないかというような「バリバリ」という不快な音や、月の光に反射する餓鬼のような背虫男たちの目から来る、スラムの夜の闇の圧迫感は伝わってくる。
画面を通しても不気味なのだ。腐臭にえずきながら実際の現実として歩かなければならないヒロの足取りはさぞ重かろう。
……などと考えるようになったのだ。彼は変わった。自分の実力の過信が招いたこの状況に追い回されるヒロに対して、心苦しく思っているようだ。
「ごめんな、ヒロ……」
"銀"がヒロのほうを見れば、彼女はゆっくりと何度も首を振っている。目が合えば、その表情はなぜかドキッとするほどやわらかい笑顔だった。
「わたし、まだまだ歩けます」
「すまねぇ……」
「全然平気です」
ヒロの崩れない笑顔は、ただ"銀"を元気付けようとしているだけではない。
この妖精は、今しがた起きた奇跡の上を歩いていた。彼の起こした奇跡が自分にどれほどの平安と自信をくれただろう。
うまく言葉にはできないが、彼女は、初めて人間に受け入れられた気分だった。この男のやさしさが、ひょっとしたら長く溺れていた自分に差し伸べられた蜘蛛の糸なのかもしれない。自分はようやく、底なしの絶望感から抜け出せるかもしれない……奇跡の中で、そういう可能性の光をヒロは見ていた。だから、
「怖いのも大丈夫……」
彼女は自分に向かってつぶやいた。彼についてゆけるのなら、「怖いのも大丈夫」と思わなければ、と思った。
そしてまた、かなりの距離を歩いた。
「ハメられたな……」
あんなに気のよさそうな男だったのに……そういえば「詐欺師はスーツを着ている」と聞かされたことがあったのを思い出した。
方向感覚は完全に失われていた。もともと狭いところにバラックが林立して迷路状になっているおかげで、初見では自分がたどった道を再現することはほぼ不可能だ。
たまに転がっている浮浪者が襲い掛かってくる気配はない。だがこのまま飲まず食わずでここをさまよえば自分はともかくヒロが参ってしまう。
「あれぇ?」
"銀"がたまにうんざりしたような声を上げるのは、来たはずだと思っていた道がゴミや瓦礫に埋まっている時だ。
「ここ通ってこなかったっけ?」
とはいいつつ、この暗がりで同じような小屋が立ち並ぶ中で正確に道を把握するのは難しい。
「富士の樹海だなこりゃ……」
「富士の樹海……?」
「向こうの世界に、入ると迷って出てこれなくなる森があるんだよ」
もっとも、こちらの「樹海」は、住人が周到に作っている罠であることに、二人は気付かない。この二人を狙っている住人の数は十や二十ではない。彼らは獲物に対していつもそうするように、街を作り変えて"銀"達の方向感覚を狂わせていた。
彼らのいつもの手であり、食料もなく気も休まらないここで十分に弱らせてから、狩りを始める作戦である。