第七節
そんな二人の周りにわらわらわらと集まってきたのは、子供達の集団であった。
「何かちょうだい」「食べ物ちょうだい」
その数はみるみるうちに数え切れないほどに膨れ上がる。
「おいおい、何だお前ら」
もはや自分の胸より下は地面が見えないほどに子供の顔で埋まっている。これがいかつい顔をしたならず者の集団であれば"銀"はこの接近を許さなかっただろう。この一見無邪気な顔にやられた。
「これちょうだい」「僕はこれがいい」
まるでスキャンダルで囲まれた芸能人のようにもみくちゃにされる中で、ヒロの小さな悲鳴があがる。
「ちょっと! ヤダ!!」
はっと我に返ってヒロのほうを見ると、ヒロは必死に自分の服や帯を押さえて奮闘していた。
「おい! やめろ!!」
瞬き一つしない笑顔には、嫌悪感を通り過ぎて恐怖すら感じる。彼らの奥底は笑ってなどいないことにようやく気づいたときにはすでに遅かった。
抜こうとした腰の長剣が、すでに跡形もなく持ち去られていたのである。
子供たちはさらに調子に乗って、二人の持ち物を糸一本までも削り取ろうと身を摺り寄せてくる。
「くそっ!」
子供もこれだけ人数が集まるとちょっと押したくらいでは動かない。"銀"は「ゲームキャラ、ゲームキャラ」と二度ほど唱えると、子供たちを片っ端からひっぱたいた。びくともしない手ごわいのもいたが、それでやや包囲網が緩む。
「ヒロ!!」
その気になれば、もはや子供たちもグレムリン(小さな悪魔)のようにしか見えない。ヒロの帯を解いて引っ張ってる子供を蹴り上げ、半ば飲み込まれてしまいそうだったヒロを抱くようにして走り出した。
たとえ追いかけてきたとしても、一度距離をとってしまえば相手は子供、本気で戦うつもりで行けば無手でも不覚を取ることはない。
彼らが追ってくる気配はなかった。深追いすれば怪我をすることを、スラムの子供達は知っている。
「ヒロ、大丈夫か?」
建物と建物の間の物陰に身を潜めた二人は、崩れて横になっている柱の上に腰をかけた。
「はいぃ……」
服のいろんなところをおさえながら少し震えているヒロ。
「全部もっていかれちゃいました……」
服をおさえるので精一杯だったのだろう。地図もバッグも、彼女の付属品はすべてがなくなっていた。
「まぁ、ヒロが持っていかれなくてよかったよ」
「……ホントやめてくださぃ……」
ヒロにはあの子供たちの目が怖かった。無邪気……ある意味で無邪気なのだろう。四方八方から舐めるように自分をまさぐっていたあの大きな瞳は、人の痛みや憐みなどをまったく知らない無垢で残酷な光を帯びていた。彼らは、たとえば眼球に価値があると思えば、平気でくりぬいていくだろう。
まるで貧苦の闇が造り出した妖怪のような、取り憑かれたような笑顔が頭をよぎるほどに、ヒロの白い顔は吐き気をもよおした。
すでに日も落ちかけている。連日の疲労に今の心労が重なって、張り付いてしまったかのように足が動かない。が、こんな煤けた瓦礫の一角に腰掛けたまま夜を迎えれば、地面から手だけが飛び出してきて引きずり込まれてしまうのではないか。……そんな恐怖が彼女の全身の肌をなでまわしている。
(……こんなにつらいなんて……)
彼女は恐怖の中で、今まで戦いに身を投じていった無数の自分を想った。死んだ無数の自分を想った。
自分の番が回ってきてからまだ数日しか経っていない。しかしすでに人生一回分くらいの心身を削られた気がする。
これが今から続くのか。それがどれほど続くのか。……この男にどれほどの期待がもてるのか。この苦しみはひょっとして徒労なんじゃないだろうか。
自分の運命を握る男の顔をちらりと挟み見ると、彼もちょうど振り返る。
「ヒロ……」
名を呼ばれたが幸い、彼女は藁をもすがる思いで、身体ごと向き直るように座り直した。
彼の言葉は、どう、わたしを助けてくれるのか……そんな、すがるような目を彼に向ける。
彼は言った。
「あのさヒロ、悪いけど、俺今からバイトなんだ」
「えっっ!?」
そんなヒロの目が驚きではじけそうになる。
「こ……ここで……?」
自分の未来を手探るように右へ左へとせわしなく視線を移す。急に目の前の地面がすべて崩れ落ちてしまったかのようだ。今からここに一人で……?
ヒロは無言のまま、思わず"銀"の服のすそをつかんで、瞬きもせずに困惑に満ちた目で彼を求めた。
「いや……だってバイトが……」
「……」
彼は……自分にとっての希望ではないのか。期待している自分の、単なる独り相撲なのだろうか。
崖のヘリに手を掛けてもがいていたら、その手を蹴られたような錯覚すらする残酷な言葉が、彼女を心の闇へと突き落とす。
ヒロはゲームシステムなどは知らない。筆者も知らないが、常識的に考えれば、英治が次にこの物語のページを開くまで、この状態は凍結されるはずである。
しかし彼女に言わせれば「常識的に考えて、銀が帰ってくるまでの間、自分はここで絶望的な恐怖や虚無感と戦っていなければならない」わけで、そんなこと、考えるだけで気が変になりそうだった。
「銀さん……」
それでも……ヒロは袖を放し、彼から目を離して聞こえないくらい小さく、か細くつぶやく。
「早く……帰ってきてください……」
「ヒロ……」
彼女は、「人間」というものが、引き止めても無駄なことを知っていた。自分はどうあがいても現実世界の優先順位には勝てないことを、知っている。
「バイト……がんばってくださいね……」
この部分は、"銀"に……というよりも、人と認めてもらえていない自分の運命に失望していた。所詮はその程度の存在なのだ。知っている。
「わかった。ちょっと待ってろ。すぐに戻ってくる」
"銀"は、いや、画面の外の英治は立ち上がった。同時に、ヒロは膝を抱え込んで顔を伏せる。
この絶望的な虚無感に自分は幾度襲われればいいのだろう。現実世界のプレイヤーを迎え入れる道具として、これを死んでも死んでも生まれ変わって繰り返さないといけないのは、あまりにも酷すぎはしないだろうか。
そして、なぜそんな道具にこんな気持ちを生ませたのだろうか。
死にたい……とまで思った。
楽になる。そうすれば、楽になるんじゃないだろうか。
使命とか、すべてのヒロの期待を一身に背負った責任感とか、そんなのは、誰か別のヒロが背負ってくれればいい。
今の男だって結局優先順位は向こうの生活じゃないか。彼が解決の糸口になる可能性なんて所詮……
「ただいま」
その時、ヒロは信じられない声を聞いた。今まで伏せていた顔が跳ね上がるようにして"銀"の方に向けられる。
「銀さん……?」
「バイト休みにしてきたよ」
「え……?」
彼はヒロからは見えないスマホをゲーム機の脇に置いて言った。
「今日は陶冶さんだから、あとで埋め合わせすればなんとかしてくれるだろ」
ヒロは、英治の言葉を簡単に理解することができない。
「……ここに、いてくれるの……?」
「徹夜でいてやる」
と、笑った。
「ぎんさん……」
ヒロはさらに少しの間、状況を理解できずにいたが、やがて脳が意味を把握したのだろう。不安や失望と戦っていたヒロの心の堰が切れて、大粒の涙がこぼれだす。
それは"銀"の胸元で、しばらくとまることはなかった。
英治が、現実世界から遠ざかり始めたのはこの頃からだったと思う。
物語の都合上、経過は連続して描いてはいるが、実際の"銀"はちょくちょくと物語を抜けているし、現実世界も日が過ぎている。
そういえば彼は先日、同ゼミの美優からノートを借りるだの借りないだのと言っていた銀行論のテストもすっぽかした。おかげで銀行論の単位は逃したが、所詮は一般教養科目、1つ落としたくらいではビクともしないので、英治はすっぽかしても、まるで他人事だ。
ただし、美優は大激怒であったらしい。
「これでゼミ合宿も来なかったら、もう何も一つもどんなものも貸さないからね!!」
というメールが火山爆発の絵文字と共に送られてきた時には、さすがに危機感を覚えた。彼女の支援がまったく途絶えるのは、大げさに言えば石油の出ない日本で石油の輸入が一切止まるくらいにまずい。
とりあえずゼミ合宿には参加しなければならなくなった。八月の第一週、二週間後か。
まぁ今年は実家に帰省する気もない。約二ヶ月間、予定はバイトも自分が申請するシフト次第なので、いくらでも集中してあの世界に埋没することが可能であった。
そんな背景もありつつ……。
英治はヒロの心細さをまともに受け止めてしまった。彼は押しつぶされてしまいそうな彼女の不安を払拭するためにアルバイトを休んだ。これが現実世界にいる生身の女性なら、賛否両論あれど受け入れられるだろう。しかし「仮想世界の娘相手に」英治がとった行動は、おそらくほとんどすべてに受け入れられまい。
これが「生きていること」との差だとしたら、ヒロが嘆いていることの意味がわかる気もする。
別の視点で、彼はそれくらいヒロの人間性を認めるようになってきていた。この世界に来てからというもの、現実世界でも浮かべたことのないような感情が、彼にはいくつも生まれてきている。
それを生み出しているのは他ならぬ、この飛べもしない羽のはえた妖精であり、その手段が今まで行われてきた彼女との無限のコミュニケートなのだとしたら、彼にとって、それは「生きた者とのやりとり」であった。
彼はそんなところから、彼女のことを生きているものとして信じさせてやりたいようになっていた。そのためには、自分自身がまずその気にならなければ駄目だ。
だから、バイトよりも優先した。これは現実世界の女性でも同じシチュエーションならそういう行動を取るであろう、英治の男気だった。
一方、ヒロの考えはそこまで成熟していない。ただ、今、心に満たされている感情は今まで芽生えたことのないものであることは間違いない。
うれしい……一言で言えばそうであるが、そんな簡単なことでもないように思えた。
だが現実的にはそんな悠長な温かさを感じている場合ではない。
実は子供たちが二人の身ぐるみを剥ぎにかかったのは、周到な彼らスラムの住人のやりかただった。
まず子供を使って得物(武器)を奪う。そして戦力が低下したところで、女を奪う。
女は金になる。もちろん「追われる者」を知らないわけではないが、ここの者達はその価値よりも女の価値のほうをよく知っている。
ちなみにこの二人はとっくに見張られている。住人にしてみれば、二人が自分達のテリトリーにいる間はあせる必要もないのだ。じっくりと様子を見て、例えば眠った時などを狙えばよかった。
「あんたら、どうしたね?」
そしてまさに日も落ちんとしてたころ、建物の間に挟まっている二人に声をかけた男がいる。
「見慣れんね。新入りかい?」
汚い風体だが、気はよさそうだ。年は五十を数えるだろうか。
「いや、もう出て行くよ」
"銀"が言う。がむしゃらに逃げたのでどちらが出口かわからなくなったが、とにかく夜陰にまぎれて行動するほうがいいと思い、ここで日没を待った。
「道に迷ったんだけど、とりあえず川の流れてるほうってどっちかわかる?」
今、自分たちが基点に出来るのは、先日水浴びをした川しかない。
「ああ、それなら……」
彼はある一方向を指差した。
「まだまだ遠いし、この辺はならず者が多いから気をつけなさい」
もう十分に堪能している。"銀"たちは軽く礼を言うと、進むことにした。
……そして、ウソの道を教えられた二人は、チャックビルのさらに奥地へと足を踏み入れることになる。