第四節
一方、脇目も振らずに目を真ん丸くさせたまま一心不乱に走り抜けたユキが、ニフェルリングの家に飛び込んだのが同じ頃であった。
「ニーーーーーール!!!」
「あら、こんな時間にうちの子デートに誘ってくれるの?」
それを受け止めるようにして出迎えたのがニールの母親だ。
「ああ! おばさん!! ニールは!?」
血走った瞳はとてもデートの雰囲気ではない。こんな目で愛を語りにきたのだとしたら百年の恋も冷めるだろう。残念なくらい色気のカケラもない。
「あの子でいいの? 大丈夫?」
「お願いしますっっっ!!!」
ぶんぶん頭を下げるユキ。母親は奥に消え、やがて私服の同級生が姿を現した。
「ニール! ちょっちょっ!!」
「どうした。ちょっと落ち着け。またゴキブリか?」
「ち、ちが!! きてっ!! 来て!!!」
状況などを説明してる暇はない。ユキは彼の腕をしっかと握ると、まるで凧揚げをするかのような勢いで走り出した。
「うわ!! ちょっとまて!!」
その圧倒的な力に引きずられるようにして家を飛び出したニフェルリング。
「まて! 俺まだ靴が……!」
「そんなの明日履いて!!」
無茶を言う。
結局そのまま夜の街道をはだしで走った彼も、なかなかのお人よしである。
そして家が見えてきた。
そのままの勢いで今度は何の躊躇もなく「ばん!」と扉を開け放ち、
「ニール! こいつらやっつけて!!」
と、すでに誰もいなくなっている家に向かって叫んだ。
「あんた達! ニールは強いんだよ!! 私が友達……あれ?」
がらんとした部屋はキレイに片付けられていて、自分の声を聞いてくれる人間の気配はない。
「ユキ……」
「いやホント! いたんだよぉ!」
ダッシュでテーブルまで駆け寄って、椅子の前で人をなぞるようなジェスチャーをした。
「ここと、ここに、いたんだよ人がぁ!……ん?」
そこにはヒロの書置きがある。
~バッグと食料と地図をお借りしました。いつか必ずお返しします~
「これなんだろう?」
いまだ部屋に入ってこないニールのところまで駆けていくユキ。その手から差し出された紙を受け取ったニールは言った。
「バッグと食料と地図を借りた。でもいつか必ず返しにくるってことじゃないか?」
「わかってるよそんなことーー!!」
とりあえず誰かがいたことは間違いないようだ。
ほぼすべてのファンタジーの世界に言えることだが、ユキの家に限らず、家の扉に鍵がかかっていることなどはほとんどない。主人公が家を出入りすることが容易であるのはシステム上の理由(いちいち鍵がかかっていたのではゲームが進まない)なので、「玄関扉に鍵をかける」という概念そのものがない。
それでもシナリオ上必要でない限り窃盗などの事件は起こらない。そういう治安が保たれているのはもはや「お約束」なので、この際ユキが無用心なわけではないと言える。
ちなみに、ニールはこの娘が大したことないことでいつも大騒ぎをしてることを知っている。いつもあまりに大したことないので本気に取り合うこともないのだが、彼の中では、ユキのそれにいつも付き合ってやることになっている。
「親父さんたちは旅行?」
「うん」
親が、一年のうち三百六十四日は旅行に行っているような夫婦なのだ。これはユキが幼いころからの病気のようなもので、幼馴染のニールはいつも一人ぼっちのユキの兄貴分を自負している。無愛想な男だが、捨て猫を放っておけない優しい男であった。
「でも朝はこの家から学校行ったんだろ?」
「うん。きっと学校行ってから入ってきたんだよ……」
「だとしても出てったんだからもう解決だろ。よかったな」
「よくないよぉ。気持ち悪い……」
「じゃあ明日自警団にでも言っておけよ。じゃぁな」
「うん……」
しょんぼり……というコミカルな表現が似合うかわいらしい落ち込み方をしてるユキに対して、出て行こうとしたニールは軽く苦笑いを浮かべて、会話を続けることにした。
「ちなみにどんな奴らだったんだよ」
ユキが顔を上げる。長いまつげがぱちぱちと瞬いた。
「んと……よく見てないんだけど二人いたの」
「よく見ろよ」
「見れないよぉ。顔覚えられたらどうするの。明日から付け狙われたら死んじゃうよ……」
「いやぁ、もしユキのこと狙ってるんなら家おさえられてるんだからもう駄目だろ」
「えぇぇぇ……怖いこといわないでよぉ……」
しかし心底怖がっているように聞こえないのは、目の前の男が頼りになることが分かっているためだ。ユキを「何とかなるだろう」で一人放って一年中旅に出てしまう親同様、この娘も天性の楽観主義者であった。
「まぁいいや」
ニールも自分に何が期待されてるかは知っている。出来る範囲で護ってやろうとは思っていた。
「とりあえずねぇ、若い男の人と女の人だったよ」
こぎれいな身なりをしていたので、浮浪者というわけでもなさそうだ。
「あ……」
しかし"男の人"の特徴を思い出そうと、彼女の気持ちが中空を舞った時、脳裏に鮮明に浮かんだイメージがある。
「魔王だ……あの人……」
「え!?」
読者はすでに知っている。
この世界の住人は、「追われる者」を認識する回路だけは、初めから頭脳に埋め込まれて生まれている。"銀"が初めて街へ降り立った時に、すべての視線をその身に受けたのも、その後、無作為に襲われ続けたのも、住人の隅々までその回路が行き渡っていたからで、冷静ささえついてくれば、ユキの頭にもあれが学校で言われている、いわゆる「魔王」であることを確信できた。
「魔王……?」
冷めていたニフェルリング自身の気持ちが、確かな形跡を見て再びふつふつと湧いて来る。
「どんな奴だった?」
「だからよく見てないの」
見たい。死闘までとは行かずとも少し様子を見ることはできないものか。
「まだ近くにいるのかな」
「え? バッグ取り返してくれるの?」
「そういうことじゃないんだけど……」
「たぶん、まだ近くにいるならあたしわかるよ」
「そっか。犬鼻な」
学校内で人を探す時はユキに頼っているのを思い出した。
彼女はセラという、一般のファンタジーでいる魔法に当たるものが使える。今から使おうというセラは、触れたものに匂いが残っているのなら、半径数キロにわたって目には見えない探査網を伸ばすことができるものだった。
ニールはそれを犬鼻と呼んで半分からかっているのだが、ユキのほうはそのネーミングを気に入っているらしい。
そのユキが、ヒロが走り書きをする際に使ったと思われる羽ペンをおでこに当てて目を閉じた。
「言っとくけどまだこの家の中にいたら、あたし気絶するから後よろしくね」
ニールがいるから安心しているが、まだこの家に潜伏してる可能性がないとも限らない。彼女はやや緊張で固くなったまま、ぶつぶつと何かをつぶやき始めた。
そして……
「あれ……?」
「いたのか?」
「学校」
「なに?」
"銀"たちはユキの家からそんなに離れていない、彼らの学校の校庭の端で羽を休めていた。地図は手に入れたが、現在位置すらわからない状態、加えて夜という闇の中では状況を悪化させるばかりだ。まず朝を待ち、起点になる建物などをさがして、そこから地図をもう一度検証したい、という思惑だ。
「うん、これ、ゼッタイうちの学校だよ……」
ユキの声からは緊張が解けている。例えばゴキブリも、自分ちの外にいるのならそんなに怖くはなかった。
ニフェルリングが、やや落ち着かない様子で早口に言った。
「とりあえず今日は安心そうだな。じゃあおやすみ」
「学校に行くの……?」
「いかないよ。おやすみ」
……魔王の気持ちが変わる前に、急がなければならない。