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『名も無き物語』  作者: 矢久 勝基
第2章 「追われる者」
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第一節

「え? 英治君ゼミ合宿行かないの?」

「うん、だって任意だろ?」

 大学はそろそろ夏休みに入る。その前に前期の試験があり、夏休みに入れば、美優が言った通りのゼミ合宿がある。

「えー! 英治君合宿行かないのー?」

「うん、だって任意だろ?」

「行こうよー。ツマンナイじゃん。ホラ、わたし髪染め直したんだし」

 言われれば根元からチョコレートのような色になっている。目の周辺はシャドウとマスカラでまっくろで、ファンデが明るく、チークが濃い。好みにもよるのだろうが、基本的に女子が思うよりも男子は化粧は薄いほうが好きなんじゃないかと英治は思っている。

 が、女子にそれを言うと「薄い顔なんか見せられない」という。

「いや、だって青木も行かないだろ?」

「裕君はお家騒動で帰省するからしかたないし」

「俺は家の中で別の世界に帰省するからしかたない」

 ……などと思いつつもそういうことは言わない。それよりもっと大切なことがある。

「美優ちゃん、銀行論のノート貸して。試験は持ち込み可だよな?」

「その前に染め直した髪の毛の話題をスルーすんなよ……」

「あ、うん。キレイキレイ」

「……絶対貸してやんない」

「え! なんで!?」

 美優とは一年の前期に一緒の授業を取ったときからの縁で、英治がこのゼミを選択すると彼女も滑り込んできた。誰にでも社交的で、派手な容姿とは裏腹に非常にマジメで成績も優秀であった。

 英治が無事に三年次に上がれているのも、美優のノートの力によるものが大きい。

「ゼミ合宿、富士山だっけ?」

「山じゃないけど、そのふもとだよ」

「旅行ガイド貸してやる」

「マジか」

「ノートと交換な」

「ノートはゼミ合宿となら交換する」

「うげ。じゃ保留」

「銀行論の試験あさってだよ?」

「あさってまで保留」

「間に合うの?」

 あさってまでに他の銀行論のノートが探せなかった時はやむをえない。


 そんな背景もありつつ、家に帰れば『名も無き物語』がすべてであった。

 彼は事あるごとにインターネットを片っ端から検索し、『名も無き物語』に関するブログを漁った。だが相変わらずヒロに関する情報はほとんどない。

 実際には、ヒロを連れ出したプレイヤーもいたはいた。が、そういう珍しい層は英治含めてブログに熱心ではないため、英治の検索に引っかかることはなかった。

 代わりに……というか、どうもプレイヤーの多くは「ユキ」という別のヒロインと旅をしているらしい。どこで会うはずだったのか見当もつかないが、それらのプレイヤーの多くはその「ユキ」とずいぶん陽気な冒険をしているようだ。

「おいおい……」

 笑うしかない。ブロガーが得意になって記事にしている内容と、自分のそれはまるで別のゲームだ。

「ユキなんてどこにいたんだ……」

 会えるはずだったヒロインを逃し、なんだか重い地雷を抱えた気のする英治だが、しかしゲームを起動する彼の瞳に濁りはないようだ。

 『名も無き物語』の、開かれたページの向こうで小さく微笑む妖精に会釈をする彼の表情は、静かで柔らかい。


「銀さん、りんごがありましたよ。おなかすいてますか? むきますね」

 どこから引っ張ってきたのか、ナイフを片手に、ヒロが"銀"のところへ戻ってくる。

 彼らはあの水田地帯からかなり離れた空き家に潜伏していた。空き家ではないことはヒロの見つけたリンゴで明らかだが、とりあえず主人は留守だ。

 味のある木造家屋はキャンプ場にあるバンガローのような雰囲気で、コーディネートされた木製の椅子とテーブル、本棚や花瓶などが並んでいる。

 外を仰げば西日が空を茜色に染めている刻限。日が昇りきった頃にこの家に寝床を求め、それからしばらく仮眠していた。やがて、のそりと起きたヒロが家の中を物色してりんごを見つけてきたというわけだ。

「ああ、わり」

「甘いといいですね」

 そして、"銀"の目の前でぺたんと正座が崩れたような……いわゆる女の子座りをして、

「ええええ!?」

 信じられない手つきでりんごをむきはじめた。

「ん?」

「バカお前、そんなやりかたじゃ手ぇ怪我するって」

 左手をまな板代わりに、しかも右手に握られたナイフは逆手で扱われている。

「そんなことないです。わたし、料理は得意なんですよ」

 言ってる間も先の鋭いナイフがヒロの左手をかすめ、すこし力の加減を間違えればりんごは果肉まで真っ赤に染まりそうだ。

「う……ウソだ……」

「ほんとです。料理で怪我なんてしたことないです。はい銀さん、どうぞ」

 微笑むヒロ。そして、ナイフを逆手に持ったまま、ひとかけらをつまんで"銀"の口に運んでくれた。

 この危なっかしい手つきからどういうトリックを使っているのかと思えるほど、ヒロのナイフは見事に種や皮を取り去ってゆく。それが無駄のない八分割ほどのかけらとなってまた一つ、"銀"の口に運ばれてきた。

「おいしいですか?」

「あ、あー、うん」

 味などわからない。でも、英治はそういうことを言いたくない気持ちになっていた。

「ヒロも食ってみて」

「はい、りんごは二個ありましたから後でむきます」

「手を切らないようにな」

 二人の視線が再びりんごへ……。そして"銀"の視線だけその後すぐにその手の上に向く。

(ほとんどのヒロは死んでる……っていってたよな……)

 一心不乱にりんごに向かっている、ヒロの真剣なまなざしに一瞬の儚さを覚え、"銀"は一つ、感じたことがあった。

「ヒロってさ、全部のヒロがつながってるって言ってたよな」

「はい」

「っていうことは、自分の未来もわかってる……ってこと……?」

 一瞬、ナイフをもつ手が止まる。

 だがすぐにあの危なっかしいりんごむきを再開しながら言った。

「みんな別の道を歩いています。だから、こうなった……とはいえても、こうなる、とはいえないと思います」

「そっか」

「でも……」

 りんごを口に運んでくれる。そのまま、彼女は声のトーンも視線も変えずにこう言い放った。

「今からわたし達が抜けようとしてるところを、生きて抜けたわたしはまだいません」

「え?」

 あまりにあっけらかんと口にされると別の意味で驚いてしまう。それを指摘すれば

「死んじゃうのは自分ですからね。はじめは動揺もしてましたけど、いまはもう慣れっこです」

 信じられないことをいった。

「でもアンタ、生き返らないんだろ?」

「はい、ここでわたしが死ねば銀さんの前には。でも他のわたしが活動していますから……」

 次の誰かに望みをつなげる。次の可能性まで、何万回の死を経験するかわからないが。

「……そういうもんかぁ……」

 ……"銀"は気づいていない。あっけらかんではないのだ。今、一連の言葉を、彼女は魂を殺して語っていた。

「わたし、死ぬことは……怖いけど……まだいいんです」

 そのまましばらく、彼女だけがしゃべった。

 ヒロがどれほど深いところで溺れているか、まだ英治には理解できていない。この妖精もそれを知りながら、それでも目をそらすことなく聞いてくれるこの男に、心情を吐露し続ける。

 ひとしきり言葉を接いだ後、その空気だけを残して部屋に静寂が訪れる。長い間、ナイフがリンゴの種をえぐる音だけが静寂を埋めていた。

 リンゴはふたつめ。あと四つも切ればすべてだ。

「ねぇ、銀さん。覚えてますか?」

「なにを?」

「あの……わたしの部屋での……」

「うん?」

 ヒロが、自分のむいたりんごを一口かじる。会話はそれで一瞬途切れたが、

「わたし、キスってあのキスが初めてですから」

「へ?」

 瞬間、脳裏に浮かぶベッドの上のヒロと、硬く閉じられた彼女の瞳。そして、今こちらに向けられている瞳にそれが重なる。でもその表情に恨みがましさはなかった。

 食べかけのりんごを"銀"の口に押しやると、その瞳はいたずらっぽく笑い、

「今度機会があるときは、もうちょっと苦しくなくしてくださいね」

 一瞬、呆気に取られた彼の口からりんごが落ちる。慌ててカバーした両手でそれが床に落ちることはなかったが、英治はその時、動揺したことを知られたくないと思い、何でもいいから思いついたことを口にした。

「あの男とは?」

「ずっと付き合ってますけど、なにもないです」

 ひょっとすれば(いや、自然に考えれば)、その辺はそこまで深く設定されていないのかもしれない。

「わたし、ユンクのことが大好き。会っただけで、その声を聞いただけでうれしいです。でも……わたしたちには馴れ初めもない……」

 好きなのはよくても初めから好き、生まれた時から好きなのは悲しい。何で好きになったのかくらい、自分の中でほしかった。

 再び沈み込む部屋で、"銀"はこの重い女をしばらく見ていたが、急に場違いに明るい声を咲かせて彼女を驚かせた。

「わかった。じゃあもうそいつやめて俺のこと好きになれ」

「え?」

「とりあえずどんなことがあってもヒロが死なないように護ってやるから、俺のことを好きになろう。そしたら馴れ初めもあるだろ?……その時に、もう一度キスしよう」

 ……この草食系男子がそれをさらりと言いのけたのは、画面を通して現実味がなかったからなのか。冗談まじりか。

 彼がヒロを人として愛し始めたとは言えない。でも、この不遇の妖精の笑顔のためにこの世界の住人に近づきたいと思っているフシはある。それを彼なりの不器用さで表現したものなのかもしれなかった。

「な?」

 その瞬間の、"銀"のはっとするような優しい笑顔。ヒロは思わず顔を伏せてしまった。

 思えば自分はなぜ今しがた、キスの話を振ったのか……

「りんごもっとむいて」

「はい!」

 動揺しているヒロの、さらに危なっかしい手つきを眺めながら、"銀"は、そのりんごの味が分かるようになるまで食べ続けたいと思った。

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