第十一節
そしてどれくらいの時がたったか、あたりはすっかり静寂に包まれている。
全滅させたわけではない。一人、二人と逃げ出して、すぐにそれが全員に伝播してこの場は収まった。"銀"もそれらを無理して追うほどの感情はない。
あの後、ずっと沼と同化してしゃがみこんでいたヒロの元へいくと、彼女は身を起こし、あぜ道を頼りにペタンとした女の子座りになって彼を出迎えた。
「大丈夫か?」
「まっくろ……」
彼女は……"銀"もだが……まるで全身がパイ投げのパイにまみれたようにどろどろに汚れている。
「でも……死ななくてよかったです……」
表情は呆けている。本当に怖かったのだろう。数え切れない自分自身の末路を知っているからこそ、その気持ちは決して大げさなものではないはずであった。
抜け殻のような彼女の目の前にしゃがむと、ぐしぐしと頭をなでてから身体をひねって背中を見せる。
できるだけ明るい声で言った。
「大丈夫だよ。俺だってほら、矢がいくつも刺さってるけど死なないだろ」
「痛くないんですか……?」
「うん、とってくれる?」
「はい」
おそるおそる突き立っている矢柄に手を伸ばすヒロ。よく見ればすっと形のよい頬の部分が薄く切れている。
「これ、さっきの?」
「わ、血が出てる」
"銀"に言われて左手で頬を押さえ、その手を見たヒロは今始めて気づいたようだった。
沼に飛び込む直前にかすめた矢の一撃。もし数センチずれていればこの世にいなかった。
しかし気丈にもヒロは何の感情も出さずに、"銀"の背中の矢に手をかける。
「痛かったら絶対言って下さいね」
傷口が広がらないように慎重に、まっすぐゆっくり抜こうとして奮闘しているようだ。
「大丈夫だよ。俺はこの世界じゃ痛みを感じない」
「銀さんは向こうの世界でもこんなに丈夫なんですか……?」
「いや、向こうなら死んでるね」
「じゃあ向こうで矢が飛んできたらどうしてるんですか?」
ヒロの純粋な目に英治が吹き出した。そして言葉は"銀"が言う。
「飛んでくるわけねえだろ」
「え、どうして……?」
「んーと……」
彼はしばし考えて、「平和だからかな」と言った。
その、平和が故の退屈という贅沢な悩みを、日本の若者は多かれ少なかれ、そのほとんどが持っている。
ヒロの言う川は、夜の間に見つかった。
流れは西から東へ。上流をたどると北西へ折れながら丘陵地帯を経てフェルシャという険しい山の中腹から湧き出ている。川としての規模は現実世界の日本であれば一級河川の認可を受けることは間違いない。
この川を越えれば落ち着く……ヒロは言ったが、
「橋がないぞ。泳いでわたるのか?」
「わたし、泳げません」
中間の流れは速そうで水深もありそうだ。"銀"のことは知らないが、英治もこんな川を泳ぎきる自信はない。
「まぁ、おいおい考えるとして……」
川にはもうひとつの用事がある。
「洗おう」
泥まみれのヒロを見ながらいった。
ヒロはうなずくと、初めは恐る恐る川の水を触りつつ、何かを確かめているようだった。月の明かりだけが頼りの真っ黒な川だ。子供がプールに飛び込むようにはいかない。
やがて慣れてきたのか腕や太ももなどを洗い始めたヒロが、今では服を着たままにひざが浸かる辺りの深さのところで座って楽しそうに水と戯れている。
いままで全体的にしっとりしたムードを漂わせていたヒロの一転してみせた子供のようなはしゃぎようが、"銀"を苦笑いさせた。
「うれしい……わたし、実は初めてなんです。川で水浴びするの」
ばしゃばしゃと水滴をはねながら、髪の毛を水に浸して水分をいっぱいに蓄えようとしている姿が微笑ましい。"銀"はその幸せそうな安堵の雰囲気を感じつつ、濡れるに任せてまとわりついている彼女の服を指差した。
「そうか。ちなみに裸だともっと気持ちいいと思うぞ」
もうすっかり泥など落ちている。
「裸って……銀さんの前で?」
ヒロは笑い出した。
「一応婚約者がいるんですよ。わたし」
「それは残念だな」
「残念……?」
ヒロは水で遊ぶのも忘れて考え始めた。"銀"は軽い気持ちでいった言葉でも、彼女はそれには何かの意味があるのだろうと思ってしまうらしい。
「わたしの婚約者になりたいっていうこと……?」
「そうくるか」
"銀"が笑う。
「そうですよね。勘違いしました」
「え、マジだったのかよ」
その雰囲気は思ったより真剣そうで、単なる冗談のつもりだった"銀"の笑顔が苦笑に変わる。
「わたし、ちょっと認められたかと思っちゃって……ごめんなさい、早とちり」
「いやぁ……認めるとか何とか……俺は裸が見られないのが残念だなと……」
「んと……それって……えっと……どうして?」
ヒロは、自分の言いたいことがうまく表現できない。
俯瞰して補足すると、自身に「生きているか生きていないか」を問いかけるこの少女は「間違いなく生きている「人間」」が、自分に対して真剣な感情を芽生えさせてくれるのか……ということを聞きたがっている。
たとえば、真剣に自分に好意を持ってくれているのだとすれば、それだけ自分を同列のものとして認めてくれているのかと思えるわけで、それはヒロにとってうれしい。
「うーん……」
一方の"銀"は返答に困っている。男が女の裸を見たいのに理由などあるだろうか。男という生き物が、好意がない女性の裸ならばまったく興味がないのなら、十八禁というレーベルは存在しない。
迷った挙句、
「ま、ヒロがかわいいからだな」
と言ってみる。
ヒロは、ほんの少しだけはにかんで目を泳がせた。お互いの意識はズレたままでも、この妖精のほうはなにがしかを思ったらしい。
「でも、は……裸はだめだと思いますっ」
暗がりで色などわからないが、彼女は耳を真っ赤にして答えていた。