第一節
その娘は緑色の大きな瞳を持っていた。
薄緑色の長い髪が白い肌によく似合う。長身ではないが、小さい顔にほっそりした身体がとても美しく見えた。
「銀さん、なにか飲みますか?」
微笑む彼女の背中には、片手よりも小さな白い羽が生えている。
その大きさゆえに明らかに飛べるはずもない小さな羽を彼女はあえて隠すこともなく、ひまわりの花のような色の背中の大きく開いたノースリーブから覗かせていた。
"銀"と呼ばれた青年はしかし、ヒロと名乗ったこの少女の質問に答える気配がない。
「あのさ、本当に何でもしゃべれるの?」
「はい……?」
「なに言っても理解できる?」
すると彼女は自分の質問を置いて、少し考えるように視線をはずしながら、首をかしげた。
「たぶん、だいたいのことは……」
「じゃあ……」
彼は、彼女が答えられない質問を探す。
「爪は、どれくらいの周期で切るの?」
「爪ですか? あんまり決まってないですけど、気になったら切ってます」
「スリーサイズはいくつなの?」
「え、……そんなの言いませんよ……」
「はいてるパンツは何色?」
「は……?」
「やらせてとかいったらどうなの?」
「え?」
少女の瞳は、この失礼な客を映して呆れている。
「ゲームの中だからって馬鹿にしたら怒りますよ」
「ははっ」
そう。ゲーム。彼女はゲーム内のキャラクター。……だから、こんな質問ができる。
普段彼はとてもじゃないが女性に対してこのようなセクハラじみた質問をできる男ではなかった。
(おもしれぇ)
ゲームのキャラなのに、まるで本物の人間のような反応をする。なぜ登場人物にゲームの中と認識させたプログラムにしたかはわからないが、二、三、話したところに不自然さがないことに、ゲームの画面越しにいる"銀"の操り手、英治はしきりに感心した。
「その羽って飛べるの?」
「飛べないです。なんで生えてるんでしょうね」
「カレーライス食ったことある?」
「もちろんです。わたしも作れますよ」
何を聞いても見事に答えてしまうヒロ。その瞳やしぐさは、作り物だからか完璧なまでにかわいらしい。
「あの……」
挙句、質問につまる英治に、ヒロは苦笑った。
「飲み物は……いらないですか?」
先ほどヒロが言ったとおり、ゲームの舞台であった。名を『名も無き物語』という。
インターネットを通じて新たな世界が無限に広がっていくタイプのRPGであり、剣と『セラ』と呼ばれる、いわゆる魔法技術が席巻するファンタジーだ。
売りは自由度の高さ。
登場人物は御覧の通りだし、この世界にあるものには現実世界にあるほぼ全てのことができる。昨今のゲームはそこまで進化している。
英治はこの物語の主人公に"銀"と名づけた。英治=Ag(銀の元素記号)で"銀"。このゲームに限らず、すべてのゲーム内での、彼の通り名である。
毎日が退屈だった。
某文系普通科大学に二年と半年も通っていると、もはや真新しいものなど何もない。周囲を見ればポツポツと『シューカツ』という言葉を吐き始め、別にやりたいこともない社会の風を無理矢理受け入れようと躍起になっている。やりたいこともないのに、『ショーライ』という未来におびえながら、流されて『シューショク先』を見つけなければならない。なんとなく馬鹿馬鹿しい。
一度しかない人生なのだ。せめて「これを成せるなら死んでもいい」というものなら頑張ろうかとも思うが、右を見ても左を見ても、自分のような平々凡々な男に、そのような充実した未来が転がっているようには思えない。
そして同時に、彼は知っている。もし万が一、そういう未来が見えたとしても、自分がそのような重責に耐えられるほどの根性なんてない。
自分を知り、世間を見て、将来を仰ぐ。……どう考えても、退屈だった。
彼は退屈な毎日から逃れるかのように数多くのゲームをし、今日、この『名も無き物語』にたどり着いた。
親の仕送りに頼る一人暮らし。アルバイトは行いつつも、時間は唸るほどある。
退屈しのぎという意味で、『名も無き物語』は英治にとって十分な説得力を持っていた。
この世界が初めて彼を受け入れた部屋は少し広めの石造りだ。明り取りの窓から差し込む光を受けながら外に目を向ければ、どうやらここは二階部分らしい。
彼はさっそく、このゲームの一つの肝である自由度の高さを試してみている。
例えば部屋の片隅に置いてある木製のイスに、インクと筆で落書きをして、棚の上に乗っけてみる。その足にヒモを結わえて引っ張ると落ちるようにすることもできた。その棚に入っていた羊皮紙を自分の腰に差してある剣で星型にくりぬくことすらできる。現実世界だと当たり前すぎて見向きもしないことなのに、それらの自然現象は彼をいちいち感激させた。
「なにしてるんですか?」
まるで初めて公園に行った子供のようにはしゃいでいた彼が、その声でようやく我に返る。が、何かを言う前にヒロが先ほどのヒモを見つけてしまった。
「ん? なんだろこれ……」
「あ! それだめ!!」
が、その声に重なるようにして響いた「ひゃっ!!」という短い悲鳴と、がらんがらんと広がる椅子と床との衝突音。
「いったぁぁーーーぃ……」
見下ろせば、紐を引っ張ってしまったヒロが頭を抱えてしゃがみこんでいる。
「大丈夫か?」
だがゲームの中のキャラクターという頭が英治にはある。本当に心配しているような言い方ではまるでなかった。
「大丈夫じゃないですよ……何でこんなことするんですか……」
涙目の恨みがましい表情が向けられても、特に悪びれる様子もない。
「いやちょっといろいろ試してたんだよ」
「うちで試さないでください……」
顔をしかめたまま立ち上がるヒロは窓の外を覗き、再び"銀"の方へ振り返った。
「銀さん、早めにここを出て行ったほうがいいと思います」
「いや、悪かったよ。そんな冷たくすんなって」
「いえ、そういうことじゃなくて……銀さんは「追われる者」でしょ?」
「追われる者?」
「はい、追われる者……」
どうもこのゲームの肝らしい。
ヒロの説明をかいつまんでいけば、ゲーム内で主人公を討ち取った者が勝利、というゲームが行われている設定のようだ。
「街の人たちも銀さんがここに逃げ込んだことは感づいてます。危ないと思います」
「アンタは?」
するとヒロは笑って、
「わたしだって狙ってるかもしれませんよ。頭、すっごい痛かったし……」
「いや、アンタは別だな」
「え? どうしてですか?」
「だってアンタ、チュートリアルだろ?」
意味は説明書。操作の説明や設定などをナビしてくれるためのモノだから彼女に危険はないのだろう。
と、軽いつもりで言った英治だったが、ヒロの表情からすっと笑顔が消えていくのを感じて少しはっとなった。
「わたしはチュートリアルなんかじゃないです!!」
その瞳が怒気を含んだままみるみるうちに濡れていく。
「わたしは確かに作り物です……だからって馬鹿にしないでください!」
「え、ちょっとまって……!」
まともに動揺した"銀"が思わず情けない声を上げたが、その娘は扉を開け放ってそのまま飛び出していってしまった。