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ピオーネの里に魅せられ

作者: 辻山琢平

 ピオーネの里に魅せられ

             

          一

「お父ちゃん、お昼を持ってきたよ」

この四月から小学校の二年生になる娘の綾香が、妹の舞と弟の悠太の手を引いた妻の弓子と一緒にブドウ畑にやってきた。

「大分仕事がはかどったわね。昨日一日で二十本ほどだったから午前中で十五本は出来すぎの感じ。よくがんばったわね」

「おとうちゃん、よくがんばったね」

次女の舞も妻の真似をしてたどたどしい言葉で労ってくれる。

「ああ、舞ちゃんありがとう。能率のよいやり方がわかったから今日中に三十本は達成出来るかもしれん。さあ、それではお昼にするか。悠太、今日のお弁当は何かな」

「オニギリとタマゴヤキー」

とたどたどしい口調で今日も元気に答える。

「美味しそうだな。さあ一緒に食べよう」

次郎はブドウ畑の隅に腰を下ろすと悠太を膝の上に乗せてオニギリを頬張る。

「ブドウ棚の支柱を立てるのがこんなに大変だとは思わなんだよ。五十センチも穴を掘らなくてはならんからな」

「私はしばらく力仕事が禁物だからごめんね。手伝えなくて」

「何言ってるんだ。流産したら大変だ」

「だってお父さん一人がしんどい目をしているのを見るのは辛いわ」

「後、四ヶ月だから大事にしてくれよ」

「ありがとう」

「まあ無理をせずにボチボチやるさ」

「ほんとにそうして頂戴。貴方に倒れられたら大変だからね」

「そんなに心配せんでもええ」

こんな会話をしながら家族揃って畑の土手に座って握り飯を頬ばっていると佐藤さんが突然やってきた。

「精が出ますのう」

棚作りはそんなに急がなくてもええよと佐藤さんから言われていたが、周囲のブドウ畑のような姿に早く追いつきたいと考えて精を出していたのだ。

「佐藤さん有難うございます。子供の頃、田んぼの手伝いはしたことがありますが、ブドウ栽培については何にもわかりません」

「心配せんでもええ。棚作りはそんなに急がんでもええよ。来年から棚作りをして枝を這わして誘引するんじゃ。実を付けるのは三年目じゃからそれからが本番と思うたらええ。それまでに一つずつやり方を身に着けたらええんじゃから」

「いろいろと教えていただき感謝しています。一度には無理ですから少しずつ教えてください。」

「感謝しとるんはこっちの方じゃ。若い人が来てくれたら地域が元気になるし耕作放棄地も生き返る。有り難いことじゃ。子供の声が聞こえんようになったら地区は死んでしまう。我が家の孫も友達が増えて喜んどるんじゃ」

そう言って作業の様子を気にして見に来てくれた昭三さんは、草刈機をかついであぜ道をゆっくりとした足取りで帰って行った。

 ピオーネは定植して三年目で少しではあるが実をつける。それまでの二年間、月十五万円の県からの研修費は有り難い。五年も経てば完全に成木となり収穫は本格的になると聞いている。そうなればまあまあの収入も手に入るだろう。四人目の子供が七月には誕生の予定だし、子供たちのためにもなんとしても成功して、やがては自分の作ったピオーネにフアンが出来るよう、顔の見える営農を目指して頑張ろうと今日もスコップを持つ手に力が入る。

          ニ

 田中次郎は大阪の鉄鋼会社に勤めていたが世界不況の煽りを受けて会社が倒産し、三年前から介護の仕事に就いていた。しかしまったく畑違いの仕事で、慣れないせいかストレスの溜まりっ放しで悩んでいた。そんな時、岡山県主催の新規就農説明会が大阪であり、岐阜の農家の二男だった次郎は、農業で食べていけるのだろうかと少々不安ではあったが参加してみることにした。

 いくつかの市町村のブースに顔を出した中で新見市のピオーネ栽培に興味を抱いた。

「私ども新見市では過疎化対策の一環として、新規就農希望者を積極的に受け入れる用意をしています」

 支援センター長の山田さんは熱っぽく参加者に話しかけた。

「新規就農に至るまでに就農相談、就農希望地の調査、農業体験研修、就農計画の作成、農業実務研修の五段階のステップを用意しています」

「農業体験研修というのはどういう内容ですか」

「一ヶ月間農家に住み込んでもらってピオーネ作りを実際に体験してもらいます。ベテラン農家の指導の下で農作業や農村生活に触れながら、実際に就農出来るかどうかの判断材料にしてもらう為です」

「勤め先のこともあるし一ヶ月間というのはずいぶん長いですねえ」

「短期農業体験の制度もありますよ」

「それは魅力的ですね。体験できれば決断するのに大いに役立ちます。期間は何日くらいですか」

「はい、ご希望に応じて何日でも受け入れますよ」

「何日でもいいのですか。とりあえず短期研修に参加してみるかな」

「せっかく就農を希望されながら途中で挫折しないよう就農計画の作成を一緒にやりますし、農業実務研修も出来ます。我々としては万全の体制を整えて受け入れを進めていますから、安心して一度短期研修に参加してみてください」

「私は農家出身ですがブドウ栽培は全く知らないので助かります」

「とにかく興味がおありでしたら一度新見にお出でください」

「はい、ありがとうございます。妻とも相談してみたいと思います」

「ブドウ園の様子を見学されたり先輩就農者の話も聞かれてみたら如何でしょう」

「農業のしんどさは解っているつもりですが、いざというと勇気が要ります。子供たちのことを考えると経済的なことが一番心配になります」

「この九月中旬に現地説明会を予定していますので後日ご案内を差し上げましょう」

「今までに何人ぐらいこの企画に参加された方がおられるのでしょうか」

「研修体験者はここ十年で百人を超えていると思います」

「そんなに大勢ですか。それで新規就農されているのは?」

「定住されているのは新見市全体では四十五戸位になりますか。でも一ヶ月研修で中には一週間続かなかった方もあります」

「やはり農作業が厳しいからでしょうか」

「ある程度農業を理解しておられないと難しいようです。農作物を作ることに興味と魅力を感じた方は大丈夫のようです」」

「私は食の安全を守ることと命を育む農業には魅力を抱いています」

「今日説明しました豊永地区では、方々からお見えになった十八戸の方が活き活きと頑張っておられます」

 支援センター長の山田さんの話では新見市の東部、豊永地区で既に十八家族の新規就農者があり、中には就農五年目で年収六百万円を上げている農家もあるということだった。

 さらに、地元で二十三年間ブドウ栽培をしているベテラン農家では、息子さん夫婦と四人で年収二千万円近く稼いでいるという話も紹介された。

 次郎は自分の携帯電話の番号をメモして山田さんに渡し、説明会でもらったパンフレットを手にして家路についた。

 九月になって現地説明会に参加した次郎は、白いビニールトンネルで覆われた山あいのブドウ園に目を奪われた。畑の傾斜をうまく利用して十六ヘクタールにも及ぶブドウ畑が地区全体を覆っていたのだ。石灰岩の地質がブドウ栽培に適していて夏の昼夜の温度差があることでブドウの糖度が高まり、新見のピオーネは品質が良くて関東・関西方面に人気商品として出荷されているそうだ。

 ちょうど収穫の時期で農家の人たちは忙しそうに働いていた。ピオーネはウズラの卵よりやや大きい粒で、試食してみると種もなくとても甘くジューシーで子供たちも夢中になって食べていた。

 さらに次郎にとって魅力的だったのは、空き家農家を低家賃で貸してくれる制度があるということだった。

 一家五人ドライブがてら参加したのだったが、帰りの車の中で子供たちは疲れてぐっすり寝込んでいた。

「弓子はどう思うかなあ」

「そう言うあなたはどう思うの?」

「県の農業実務研修生に採用されたら、二年間月額十五万円の研修費が支給されるというのは魅力的だ」

「あなた二年間で自立できるのでしょうか?」

「植えて三年経てば年収三百万くらいにはなるという話だったよ」

「初めてなのにそんなに上手くいくかしら」

「今日会ったアイターンの上山さんの話によると管理をうまくやれば大丈夫らしいよ」

「上手くいけばいいけど」

「俺はやってみる価値があると思うがなぁ」

「そうねえ。説明の通りピオーネの農業経営をすれば、市からも地域定着費として本当に一年間だけ月に七万五千円出るのかしら。一寸心配だわ」

「県の研修生に選ばれて新見で就農すれば合わせて月額二十二万五千円は保障されるんだ」

「二年間で何とかなるといいわね」

「そりゃあ、やりよう次第だと山田さんも言っていたし、先輩就農者の上山さんも実績を上げているし。何とかなるんじゃないかなあ」

「住まいのことはどうなるの?」

「住宅についても補助金制度があり至れり尽くせりの話だったじゃあないか。市はそれだけ過疎に対して本腰を入れているんだ」

「上山さんの奥さんの話では野菜は全部自給自足で賄えるらしいわ」

「卵も自家生産、豆腐や油揚げ、こんにゃく、漬物、味噌、しょう油は農協婦人部が共同で製造しているという話だったよ」

「そうだったわねえ。スーパーで買うものは魚と肉に生活必需品程度で済むらしいわ」

 帰りの車の中で妻と会話をすればするほど、次郎はピオーネ栽培に惹かれていくのだった。

 次郎はその後単身で新見を訪れ農業体験研修生として一ヶ月間新見で農業体験をして腹を決めた。そして大阪に帰るまでに貸家の件、農地借用の件、学校施設、病院など必要な情報を手に入れた。妻の弓子は比較的楽天的な性格で、次郎に着いてくるタイプの女だったので、結論を出すのにそんなにもめることはなかった。桜の花の咲く前に移住して出来ればブドウの若木を定植したい。定植は若木の根が動き始める前の二月終わりから三月末が適期という。植物が相手なので遅くなればすべてが完全に一年遅れることになる。決心は早いほうが良い。次郎はそう考えるとじっとしておれなかった。

 そして九月末に介護の仕事を辞めてから新見で農業体験を終え、岡山県から月額十五万円の研修費を貰って三月上旬新見に移住して来た。

 そして自治会長でブドウ栽培の成功者の佐藤昭三さんから堆肥の鋤き込みに始まり、若木の植え方、支柱の立て方、棚の作り方などさまざまな指導を受け、三月末を目ざして借りた三十アールの畑を耕耘機で耕し、取り敢えず四十本の苗木を何とか植えつけることが出来た。昭三さんは何のわだかまりもなく次郎のようなよそ者に、自分の身に着けた栽培のノウハウを惜しげもなく提供してくれて有り難かった。


          三 

 次郎が現地説明会で聞いた新規就農者支援センター長の山田さんの話で、印象に残っているのは次のようなことである。

 岡山県備中地区は昭和三十年代から五十年の始めにかけて全国でも有数の葉タバコ生産地で、ここ新見市豊永地区も例外ではなかった。現金収入を求めて次々と生産農家が増え、専売公社も力を入れて推進した結果、いつの間にか県内で一大産地を形成したそうだ。

 豊永地区でも葉タバコ生産が盛んになり農家の現金収入を支えてきたが、苗の育苗から植え付け、霜予防に始まり、夏の炎天下での葉のもぎ取り、編み上げ、乾燥、収納前の葉の手入れと、ほとんど一年中葉タバコに関わっていなくてはならない。こうした重労働から抜け出すきっかけになったのが、農業改良普及所の指導によるピオーネ栽培だった。マスカットは明治の頃から県南の玉島や総社で産地形成ができていて、全国生産の九十パーセントを占め色々な面で参入は難しい。ピオーネ栽培はまだ全国的にも珍しく魅力のある品種だという説明だった。

 さらに昭和四十八年から二十五年間かけて、豊永、草間地域の標高三百五十メートルから四百八十メートルの丘陵に広がる、畑地四百十ヘクタールを受益とした県営かんがい排水事業が実施され、水源用として大佐ダムと畑地かんがい施設のパイプラインが整備されて、水の心配はなくなったという。

 ちょうど豊永地区は葉タバコに代わる換金作物を模索していた時期で、普及所の指導でピオーネ栽培に踏み切った。この地区一帯は近くに満奇洞や井倉洞と呼ばれる鍾乳洞があることでも解るように、石灰質の土壌が連なっておりピオーネの栽培には最適であり、さらに一日の寒暖の差が最大十七度という気候が、色艶のよい甘いピオーネの生産に最適だった。皮肉なことに今まで水利が悪く石灰質土壌で難儀をしてきた地理的条件が、今回はプラスとなったのだ。まさに『禍福はあざなえる縄の如し』とはこのことである。

 普及所の説明を聞いて地区として結論が出るまで二年が経過したそうだ。そして昭和六十二年、佐藤さんをはじめ十三名の仲間がピオーネ栽培に踏み切った。疑心暗鬼で様子を見ていた近隣の農家も五年が経過した頃安定した収入が得られることが解り、佐藤さんを初め先行農家の薦めもあって、次々とピオーネ栽培に参入してやがて三十四軒に増えた。そして普及所の指導を得てピオーネ栽培は地区の中心作物として定着し、現在豊永地区では百五戸の農家が栽培している。今では年間八億円の収益を上げるまでの県下有数の産地に発展してきた。

 栽培を始めて八年が経過した頃から関西の市場で次第に人気が上昇し、今では東京市場でも取り扱われ、伊勢丹や千疋屋でも扱われるようになり栽培農家の安定した収入源となった。『紫紺の宝石ピオーネ』は豊永地区の自慢の一品となっているという話であった。


山田さんの話を聞きながら、次郎は高校時代に父親がしきりに話していたことを思い出していた。

【戦後しばらく農村ではほとんど自給自足の生活で成り立っていた。米麦や大豆や野菜を作る。その大豆で味噌や醤油を作る。また大豆を豆腐屋に持って行って豆腐や油揚げと交換する。時折万屋に出向いて買うのは塩や干し魚や生活必需品くらいの物であった。肉は飼っている鶏を絞めれば足りた。従って現金はそんなに必要としなくてもそこそこの生活が成り立っていたのだ。 

 ところが朝鮮戦争以後、日本の工業生産が飛躍的に増大し牛で耕していた田は耕耘機に代わり、自家製の堆肥から化成肥料になり、山からの薪で用をたしていた台所や風呂はプロパンガスに取って代わられ、無償の義務教育から高校進学が当たり前となり、自転車からバイクになって便利になり生活レベルも上がり、以前から比較すると格段の様変わりとなったが、現金が無くては生活出来ない金、金の世の中になってしまった。】


 勇気を出して豊永にやって来て地区の様子を見ていると、農村の高齢化が言われるなか、この豊永地区では都会に出ていた若者たちのUターンも始まり、最近では子供の声が何時も聞こえる以前の里にもどりつつある。市も新規就農者の受け入れに本腰を入れ、次郎のように新しく移住してくる若い家族も増えてきた。地区の老人たちも子供たちの声を聞くと心が和むと言って、若い者の後に付いてブドウ畑に出かけていくようになった。農村の活性化が叫ばれて久しいがここ豊永ではピオーネに助けられて見事再生を果たしつつあるといえよう。豊永地区がここまでに産地形成できたのは普及所の指導は勿論のこと篤農家の佐藤さんたちの力に負うところが大きいようだ。

 次郎の指南役の佐藤昭三さんは還暦を迎えたばかりだが、八十四歳になる母親と奥さんの衣子さんに長男の謙作夫婦の五人でブドウ栽培をしている。ピオーネの栽培を初めて二十三年、当初は十三人の農家で始めたブドウ栽培だったが、始めて二、三年は失敗続きだった。ところが生活レベルの向上で消費者の嗜好も高まり市場価格も高値が付くようになって飛躍的に栽培農家が増え、今では新見市全体で三百八戸にまでなり県内一の産地が形成された。従って出荷時期の九月から十月末にかけての選果場は戦場の様相である。

 昭三も今ではここ四年間平均して年収二千万円を達成している。このピオーネのお陰で岡山の建設会社に勤めていた長男の謙作も跡を継ぐ気になり帰って来てくれて大助かりと喜んでいる。自治会長として出ることが多いが長男の謙作が今では万事とりしきってやる気満々なのも頼もしい。

「もう生まれるんじゃあないのか」

「そう、今日は十日じゃから、予定日が近うなってきとる」

「三人目の孫じゃから早う生まれるんと違うんか」

「元気でよう働いとるから多分そうなるでしょうな」

「もう一人、男の子がええなあ」

「あなた、そんなこと言うたって子供は天からの授かりもんじゃから元気で生まれりゃあええが」

「二人男の子がおるとどっちかが後を継いでくれると思うがのう」

昭三は妻の衣子とブドウ棚の下で堆肥を鋤きこみながら生まれてくる孫に夢を馳せていた。



          四

「三年で三百万円、五年で六百万円の年収が見込めるというのは本当ですか上山さん」

「植えて三年で少しだけれど収穫出来るんです。私も二年間は県からの研修費で食べてきました。あの制度は本当に助かりました。五年経てばブドウの樹も一人前に成長しますから、贅沢をしなければまあまあ家族四人食べていけます。野菜は自家生産で旬のものを食べていれば年中不自由はしませんよ」

「それなら僕の場合今年の春植えたから再来年の秋には少しは収穫出来るんですね。楽しみです」

「作業の手順をきちんと守り予防も時期を間違わないようにするといいですよ。相手は生き物のうえ自然を相手の仕事ですから、天候にも十分気を配る必要があります」

「また解らんことがあったら教えてください。よろしくお願いします。妻も頼りにしていますので奥さんにもよろしく」

次郎はそんな会話を交わしてJA阿新支所の前で別れた。

 上山太一は妻の純子と千葉県でコンビニ経営をしていたが、昼夜の別なく働かなければならず、二人の子供との接触も少なかった。このままでは子供のためにも良くないし自分たちの健康にも悪いのではと、思い切って店を人に譲り勇気を出してこの豊永に移住して来て六年になるそうだ。ネットで新見市の「新規就農者募集」を目にしたのがきっかけで、東京での説明会に参加しとんとん拍子で話が決まり親子四人でやってきたという。小学三年だった長男の大樹君はもう中学二年生で娘の桜ちゃんは小四になっていた。

「ここにやって来てからは太陽とともに起き、夕日とともに休むんです。これが正常な人間の生活だと改めて実感しています」

「僕は慣れない仕事でストレスが溜まり、あのまま続けていたら自分がだめになってしまったかもしれません」

「私もあんたと同じですよ。ブームにのってコンビニを始めたのですが、始めのうちは良かったけどだんだん競争相手が増えてきまして」

「今はコンビニも乱立気味でずいぶん増えましたからねえ」

「何人もパートを頼んだらやっていけません。アルバイトの学生を二人雇っていましたが妻も私も疲れ切って」

「二十四時間営業だから大変だったでしょう」

「子供との接触もほとんどなくて働き詰めでした」

「慣れない仕事で悩んでいた頃僕が一番気にかかったのは、子供達の将来に責任が持てるのかということでした」

「この豊永に来た当時、山から拾ってきた枯れ枝で風呂を焚き、星空を仰ぎながら子供と一緒に五右衛門風呂につかっていた時が、私にとって至福のひとときでした。借家賃貸料の助成が二年間あり、そのうえリフォーム費の助成もあって大助かりでした」

「本当に市も地域もしっかりとサポートしてくれて安心出来ますね」

「今では子供達は大きくなって一所に風呂に入ってくれないのが少々残念ですが、それは仕方ないことで二人とも逞しく育ってくれていることが、わたしらにとって一番有り難いと思っています」

 上山さんは四月の上旬、地区の花見をかねて地元の人たちが次郎の歓迎会を開いてくれた席でポツリ、ポツリと話してくれた。


          五

 ブドウ棚の設営も何とか終わった。昭三さんが夏野菜の茄子やトマトやキュウリ、カボチャなどの苗を持ってきてくれた。

「家族五人ならこれくらいあれば足りるじゃろう。まだお子さんは小さいし」

「いつもありがとうございます。素人でうまく出来るかどうかわかりませんが頑張ってみます。又手入れの仕方を教えてください」

「ええように出来なんだらうちの畑で出来た物を遠慮せずに採って食べりゃあええ」

そう言って帰って行った。

 次郎は三月の終わりに町に出かけた際に買っていた「岡山の家庭菜園」を開いて植え付けの欄を読んでみる。畝幅や株間などそれぞれ違うので大変だ。何とか本を参考にしながら早速家の前の菜園にしようと耕していた畑に、昭三さんから貰った苗を植え付けた。そして昭三さんに言われた通り霜除けにビニールのキャップをかぶせて、一通りの作業を終えた。県北では五月のゴールデンウイークあたりまで霜の降りることがあり、気をつけないと折角植えた苗が霜害に逢うそうだ。


「田中さんピザを焼いたから食べてちょうだい」

石窯で焼いた自家製のピザを綺麗な包装紙に包んで、八百メートルほど西の北川さんの奥さんが玄関に立っていた。 

「いつもありがとうございます。子供達が大変喜んで美味しくいただいております」

「赤ちゃんは無事に大きくなってるの?」

「はい、おかげさまで順調です」

「もうすぐだわね」

「はい、今九ヶ月ですから少ししんどくなってきました」

「転んだりしないように気をつけてね」

「最近は長女の綾香が台所をよく手伝ってくれて助かっています」

「やっぱり女の子ねぇ。今何年生になったのかしら」

「今三年生になったばかりです」

「やっぱり妹さんや弟さんがいるから余計としっかりして、だんだんお姉ちゃんらしくなってきたのでしょうね」

 臨月になってすっかり動きの鈍くなった弓子は、ゆっくりと椅子から腰を上げて紅茶を入れようと食器棚の扉を開ける。北川さん夫婦には新見にやって来てからあれこれと新規就農者の先輩としてアドバイスをして貰い、頼りにしている一人である。夫婦二人だけの生活なので弓子たちの様な切実感はない。ユックリズムの生活を楽しんでいる風で羨ましい限りだ。

 娘さんが岡山の大学に入学して何度か岡山を訪れている内に、岡山の魅力に魅せられて北海道の札幌からはるばる新見にやって来たそうだ。温暖な気候で桃やマスカット、ピオーネなど果物の豊富な岡山は別天地の様だと話していた。以前はアパートを経営していたが、全て人に譲って第二の人生を踏み出したという。なかなか思い切った英断である。

 アパートを手放した資金と市から百五十万円の助成金を貰って家を新築していた。いずれはグリーンツーリズムを目標にしているらしい。三十アールの畑を購入してピオーネの栽培四年目を迎え、今では少し出荷出来るようになったと話していた。


「おかあちゃん、大丈夫?」

陣痛が始まった弓子を見て長女の綾香が心配そうに顔を覗き込む。

悠太は訳もわからず心配そうな顔をして弓子にもたれかかって離れようとしない。

「心配せんでいいよ。悠太はお兄ちゃんになるんよ」

次女の舞も弓子の手を握りながら不安そうにしている。綾香はもう小学校三年生で弓子の出産のことは解っているが、幼い二人は無理もない。早く夫に帰ってもらわなくてはどうにもならない。急いで次郎の携帯を呼び出す。

「もしもし、お父さん、今どこ?」

「ああ、弓子か。農協に来とるんじゃ。陣痛が始まったか?」

「そう、生まれそうなのよ早く帰ってきて。晩ご飯を作りかけていたら急にお腹が痛くなって。お願いだから子供たちの夕食にコンビニでサンドイッチでも買ってきてちょうだい」

「おう、わかった。子供たちは北川の奥さんに頼んだらええ。その時には預かってもらう約束をしているから」

「ええ、そうするわ。気をつけて早く帰って来てね、お願い」


 次女の舞と長男の悠太の出産の時には次郎は仕事が済んで赤ん坊と対面した。毎回弓子の母親が田舎から来てくれていたので安心ではあったが、長女の綾香の時は工場から飛んで帰り弓子に付き添った。後で職場の連中から色々と冷やかされ、次からは母親に任せて周りの連中に格好をつけた。しかし今回は誰に気を使うこともない。農協にブドウ棚の資材調達に来ていたのだが、後日のことにして急いで軽トラを走らせる。五人分のサンドイッチを買って二十分ほどで家に着いた。綾香が心配そうに次郎の帰りを玄関口で待っている。

「綾香、心配せんでええよ。赤ちゃんが生まれるんだからな」

と次郎は綾香に声を掛け、

「おい、大丈夫か」

大きな声を上げながら急いで中に入る。弓子は二人の子供を抱きかかえながら、玄関に腰を下ろして入院用の大きなバッグにもたれかかっていた。

「綾香、舞と悠太を連れて北川さんの家に行くんだ。おばさんが面倒を見てくださるから。夕ご飯はこのサンドイッチを食べるんだよ。分かったな」

「うん、分かったよ」

綾香は夕食のサンドイッチの入った買い物袋を手に舞と悠太を連れて北川さんの家に歩いて行った。

「あなた早くして。新見の市民病院まで四十分はかかるのよ。産科の先生がいらっしゃるといいけど」

急いでワゴン車に荷物を積み、

【急がば回れだ。慌てるな、慌てるな】

自分に言い聞かせながら次郎はハンドルを握る。弓子の苦しそうな顔をミラーで見ながら祈るような思いだ。

「おい、サンドイッチを食べれるか?食べといた方がいいぞ」

 そういいながら弓子に渡して、自分も用心しながら車の中で急ぎ腹ごしらえをする。

北房インターから中国道に乗り予定通り六時過ぎに病院へ着いた。既に看護師二人が玄関でストレッチャーを用意して待機してくれていた。産科の先生はもう帰宅していて当直の内科の先生が取りあえず対応してくれる。弓子はストレッチャーに乗せられて産室にむかう。

「産科の先生に今連絡を取りましたから大丈夫ですよ。安心してください」

五十過ぎと思われる看護師が話しかける。

「四人目ですから、早いかも知れません」

と弓子。

「付いていてやりたいのですが、よろしいか」

「どうぞ傍に居て上げてください」

次郎はタオルで弓子の額の汗をぬぐってやりながら左手で弓子の手を握る。頑張ってくれと祈る思いだ。先生が到着して一時間も経ったろうか。次郎の握る弓子の手に力が加わり、大きな呻き声とともに元気そうな産声が聞こえた。弓子はホッとしたように穏やかな顔に戻っていた。気がつくと次郎も汗びっしょりになっていた。

「元気な男の赤ちゃんですよ。処置が終わるまでご主人は廊下でお待ちください。後でお呼びしますから」

看護師にそう言われて廊下で汗を拭いながら次郎もやっと安堵する。時計を見ると九時前だった。四人目だから案外早かったのかもしれない。男の子なら大輝、女の子なら薫と二人で決めていた。出来たら男の子がいいねと話していた通りになってラッキーだった。

 弓子の落ち着いたのを確かめて綾香を学校に行かせるため次郎は夜の十一時ごろ北川さんの家へ子供を迎えに行く。

「どうもお世話になりました。無事男の子を授かりました」

「まあ、それはおめでとう。舞ちゃんと悠太君は眠ってますよ。手のかからぬお利口さんですね。綾香ちゃんは心配なのか起きて待ってると言って主人とテレビを見ていますよ」

「ありがとうございました。助かりました。綾香の学校がありますので連れて帰ります」

「舞ちゃんと悠太君は起こしたら可哀想だからこのままにしといたら」

「目を覚ましたら多分むずかると思いますので連れて帰ります」

そう言って眠たそうな二人を何とかなだめながら車に乗せる。

「綾香、よく面倒見てくれてありがとう。男の子が生まれたよ。悠太もお兄ちゃんになったんだよ」

「おかあちゃんはいつ帰るん?」

「悠太が七つほど寝たら赤ちゃんと一緒に帰ってくるよ」

「舞、弟が二人になったのね」

「そうだよ。可愛がってやれよ」

車の中でこんな会話をしながら、次郎は頑張らなければという思いを胸にハンドルを握りしめるのだった。

 そしてちょうど一週間して弓子は大輝を連れて退院して来た。次郎は弓子の入院中、三人の子供の面倒を見て妻の大変さが身に染みて解った。掃除は綾香がしてくれて助かったが炊事と洗濯は大変だった。舞と悠太は珍しそうに眠っている大輝を覗き込んでいる。これで六人家族になった。賑やかなことだ。


          六

「おばあちゃん見て、見て。カボチャの花だよ」

次郎たちが新見に移住してきて初めて、弓子の両親が大輝の誕生を祝ってやってきてくれた。悠太はもの知り顔に話しかけている。

「こっちにはトマトもなっているよ。早く赤くならないかなあ」

「悠太はよく知っているのねえ」

「おばあちゃん、こっち、こっち。これはキュウリだよ。小さいのがここにもあそこにもあるよ」

「悠太のお父さんは頑張ってるのねぇ」

弓子の母親は次郎たちが新見で農業をすると聞いて、食べていけるのだろうかと心配して最初は反対していた。だがお父さんが次郎の強い意志を聞いて応援してくれ何とか説得してくれたのだった。

その晩お父さんと一杯やっていると、

「次郎君、今日農場を見せてもらったがよく頑張ったなあ。ブドウの樹も立派に育ち、立派な野菜も出来とるじゃあないか」

「いやいや、まだ駄目ですよ。近所の先輩農家にはとても及びません。でも自治会長の佐藤さんが、親切丁寧にアドバイスして下さるので助かっているんです」

「それはよかったなあ。ピオーネも大分成長しているから来年は収穫できるんだろう?明日佐藤さんへご挨拶に行くとするか」

「そうして下さるとありがたいです。来年は初生りのピオーネをお届けできると思います。最初はどうなることかと不安でしたが師匠がいいので順調です」

「家族がまた一人増えて大変だろうが無理をせず軌道に乗せることだな」

「ここ豊永には何人も僕と同じように新規就農の仲間がいまして、互いに励ましあいながらやっています。いまお付き合いしている仲間が六人います。豊永全体では十八人いるんですよ、アイターン仲間が」

「ほう、そんなに増えたのか」

「東京でも大阪でも説明会が開かれているようで、まだこれからも増えると思います。県も市も本腰を入れて取り組んでいるようですから」

こんな話をしながら久しぶりに飲んでいるといつの間にか十二時を回っていた。両親たちは一晩泊って明くる日安心した様子で大阪に帰っていった。


「お父さんキュウリと茄子を取ってきて」

「トマトやピーマンもできとるよ」

「トマトやピーマンはまだこの前収穫したのがあるのよ」

「ああそうか。かぼちゃも昨日晩食べたなあ」

「次々出来るので食べきれないわ」

「まだ子供たちが小さいからな」

「キュウリや茄子は漬物にしてるけどレタスなんか日持ちがしないのよ」

近頃こんな会話がしょっちゅうである。贅沢な悩みと言えばそうなのだが、食べ切れなくても近所におすそ分けという訳に行かない。どの家でも季節の野菜は充足している。

「昭三さん、野菜が一度に出来ますがどうされていますか」

「ああ、やっとあんたもそんな状況になってきたか。新見に入る手前に『道の駅・あすなろ』と言うのがあるじゃろう。地区の年寄りたちは家で消費しきれんものを出品しとるんで」

「誰でも出品出来るんですか」

「会員にならんと駄目じゃ。入会金が三千円で、年会費が毎年千円。それに出品ケースは買い取りで一ケースが千円なんじゃ」

「いい事を聞きました。うちではまだ子供が小さくて消費しきれずに悩んでいたんです。早速入会して出品することにします」

「ああそれがええ、年寄りたちはいい小遣い稼ぎになって、道の駅が出来てから活き活きしとるんじゃ。子供のおやつ代くらいにはなるからなあ」

昭三さんの話を聞いた次郎は翌日道の駅を訪れ、オーバーフローした野菜を出品するため会員登録をした。

道の駅の会員になってから色々な情報が飛び込んできて、豊永での活動も広がってきた。最近妻の弓子は農協婦人部に参加して味噌、醤油、こんにゃく、豆腐、油揚げ、梅干づけなど、それぞれの季節に応じて作りに行っている。製品を道の駅で販売すると地元の人や観光客に人気があると言って、農作業の合間を見つけては喜んで参加している。作業をしながら女同士色々な話題が飛び交い、情報交換の場としても重宝しているし、地域に溶け込むいい機会となっている。そのうえストレス解消にもなるらしい。生き生きとしている弓子の顔を見ると次郎はホッとするのだった。



          七

 今日はトマト・カボチャ・茄子・レタスを道の駅に出品した。特に土曜日、日曜日になると新見市内は勿論岡山や倉敷方面からもお客がみえて、新鮮な野菜は飛ぶように売れる。劣化の激しいものはその日の夕方回収しなくてはならぬが、カボチャなど日持ちのいいものはしばらく置ける。安いに越したことはないが、ほかの人たちの値段を参考にして次郎は値付けをすることにした。自分だけが極安の値を付けたら他の人たちの妨害になる。そう考えて何時も搬入してから他の人の値段を見て同じようにすることにした。バーコードが一枚一円、手数料は売り上げの十五パーセントだ。これで無駄なく新鮮な野菜をさばく事が出来る。出品一年目、農協の通帳には夏野菜だけで八万円ほど入金されていた。子供たちのおやつ代はこれで十分足りる。

 これに味を占めた次郎は菜園の耕作面積を十アールに拡張してピオーネだけの収入でなく、年間を通して僅かでも収入を確保することにしようと考えた。

 秋にはキャベツ・白菜・大根・ネギ・金時人参を出品した。白菜は重さ三キロもある大きなものが出来て土、日に出品すれば毎回完売であつた。ネギも鍋シーズンの冬季は人気が良く、金時人参は正月のおせち料理に飛ぶように売れた。キャベツ栽培では無農薬を目指したが失敗し青虫にやられてあまり良い出来ではなかった。昭三さんの忠告を守って無農薬栽培なら防虫ネットを掛けるべきだった。キャベツの失敗を生かして白菜はネットを掛けたので上手くいったが、何しろネットの値段が高くてキャベツまで資金が回らなかったのだ。

 来年の冬野菜は白菜と金時人参と白ネギを主力にしてやってみよう。白ネギは十一月から三月までが消費シーズンなので大量に植え付けたい。初年度は夏、冬で三十五万円ほどの売り上げとなり経費を差し引いて三十万ほどの利益となった。ピオーネの栽培管理の合間に作業をすれば良いので余り手を取られることはない。この方式が次郎には一番適している。少しずつノウハウを身に付け「百姓の来年こそ」を地でいこうと思う。地区の年寄りたちがよく使っている「百姓の来年こそ」という言葉を身をもって体験することになった一年であった。


 移住してきて三年目の春、

「佐藤さん見事な鯉のぼりですね」

「ああ田中さんか。孫の健太が生まれたから、翔太の時の鯉の上に今年は一匹増えたんじゃ」

「健太君はうちの大輝と同い歳でしたね。男のお孫さん二人で後継者はこれで安心ですね」

「ああ有り難う。男の子が二人なら一人ぐらい跡を継いでくれるじゃろう。地区の年寄りたちは鯉のぼりの泳ぐ姿を見るのを楽しみにしとるんで」

「大阪では無理だったんですが弓子の親から今度は鯉のぼりを揚げられるじゃろうと言うて持ってきてくれまして」

「柱にする竹ならうちの藪にええのがあるから適当なやつを切って使ったらええで」

「有り難うございます。弓子の親も喜ぶと思います」

 鯉のぼりが届いてから次郎は十五メートルほどの竹をもらって早速準備をする。柱を立てるときには昭三さんと息子の謙作さんが手伝ってくれた。三本の支柱で支えて風で倒れないよう補強をする。早速、親子四匹の鯉が屋根を越える高さで泳ぎだした。

「大きい真鯉がお父さん、その下の緋鯉がお母さん、その次の小さいのが悠太、そして一番小さいのが大輝だよ」

弓子が悠太と大輝の肩に手をかけて語りかける。悠太も大輝も目を輝かして喜んでいる。

「どうして舞や綾香姉ちゃんのは無いの」

「あのな、鯉のぼりは男の子のために揚げるんだよ。大空を気持ちよく泳いで立派な男の子になってくれるようにって」

「つまんないの。悠太と大輝だけなんて」

「お姉ちゃんと舞にはお雛様があるじゃないの。二月に飾ってあげたでしょう」

弓子の説明を聞いても舞はすぐには納得できない様子だった。


          八

 新規就農者の先輩達の中で一番毛色の変わっているのはなんと言っても山本守さんだろう。フランスにまで行って修行して、料理店のシェフをしていた身から一転して、岡山の田舎・新見にやって来てブドウ作りに専念しているのだから。奥さんの道子さんはパテシィヱの資格を持ち、ご主人と一所に静岡でフランス料理店を開いていたと聞いている。

「私には中一の長女、美咲と小四の長男翼と二人の子供がいますが、まともに向き合う機会がなく、以前は近くに住む道子の両親に面倒をみて貰っていました。店が終わって後片付けをして帰宅するのは毎日十一時頃になります。こんな生活を続けていたら家族が駄目になってしまうのではないか。もう少し人間らしい生活がしたい。子供達と向き合い家族四人が毎日揃って食事の出来るような生活がしたいと思うようになりました」

「子供たちと一緒の生活が出来ることが一番ですからねぇ」

「そんなことを思っていた矢先、定休日の昼間のテレビでアイターン農業体験のドキュメンタリーが私の目にとまりました。それから暇あるごとにネットで方々の募集情報を手にして、就農まで懇切丁寧に相談に乗ってくれるという新見のキャンペーンを見つけたのです」

「そうでしたか。確かにここは面倒見がいいですよねえ」

「それから妻と幾晩も話し込んで説き伏せたんですよ。どうしてもやりたいという私に道子としては従わざるを得なかったようでした。パテシィエとしての技術もありそれなりの収入もあったので、道子にとってはつらい決断だったのでしょう。でも来てよかったと今は言ってくれています」

 山本さんはそう語って杯を重ねる。今日は自治会主催の懇親会が地区の公民館で開かれていた。この道に進んだ経緯を語ったり、お互いが情報交換をするなどして理解を深める場だ。このような年一回の交流の機会が地区の団結を強め、新規就農者の定着を促す大きな役割ともなっている。自治会長の昭三さんの提案で始まった取り組みだ。既に軌道に乗っている人たちと違い次郎のような新米にとっては有り難い交流の場だった。

 日本の農政は少し方向が間違っているのではないか。キツイ、キビシイ。キタナイの三K産業として若い人たちは次々と農村から離れていく。農業に対して多くの人たちの認識を改める必要があるのではないか。普通に働いて普通の生活が維持できる、そんな農政になることが大切ではなかろうか。産業界では工業生産に準じた効率の良い農業を求めて大規模化が奨励されている。工場での野菜生産も始まっている。しかし日本のような山がちの国土では限界がある。大規模農業の成立するところは限られている。大規模農業と小規模農業の両立するような農政は考えられないものか。自給率が五十パーセントを切る状況で外国からの輸入に頼っている現状を見直して、価格が少々高くても農業を守るという観点に立つ、消費者の意識改革も必要ではないか。国土の荒廃にストップをかけ、安全、安心の食糧自給を目指すべきだと次郎は思う。

 今日の懇親会で次郎はかつてぼんやりと思っていた「食は命の源」という考えを改めて強く意識することとなった。食べ物を作る農業は命に直結する尊い仕事だと思っている。人間は他の生き物の命を頂いて生きている。だから家庭の主婦も食材の命を生かす調理をすべきだと思う。

 星空のもとに広がる田んぼのあぜ道を歩きながら、懇親会から家路についた次郎は、田んぼや畑は命をつなぐ場所だと意を強くするのだった。


          九

 地区の農家がブドウの出荷を終えて来年に向けての剪定作業に忙しい冬のある日、昭三さん宅の八十四歳になる花さんが亡くなった。肺炎を患ってあっけない最期だった。入院したとは聞いていたが一週間ほど前の話だった。秋の収穫の時にはまだ元気な姿をブドウ園で見かけたので次郎は耳を疑った。その日の晩、公会堂で葬儀の相談があると言うので急いで一風呂浴びて出かける。各家から一人ずつ出て日取りの決定から役割分担まで相談が始まる。次郎が大阪のマンションに住んでいた時は、比較的若い住人が多くて十五年ほどの間に二度葬儀があったが、いずれも葬儀屋が段取りをして次郎たちは受付を手伝うだけだった。

「明日は友引じゃ。明後日でないと葬式はできんよ」

自治会副会長の川上さんが口火を切る。

「お寺さんにはもう連絡をしたんか」

「はい一応連絡はしとりますから。御通夜は明日の晩六時からということになっとります」

さすが昭三さんは早手回しである。

「もうすぐ農協の担当が来ると思うのでそれまでに決められることは済ましておこう」

「昭三さん、いつもの通りの次第でええんかのう」

「へえ、それでお願いします」

「解りました。皆さんいつもの通りじゃ。そんなら誰か記録をしてくれんかのう」

「誰か若い衆でやってくれんか。わしら年寄りは目が薄うなって難儀じゃから」

「次郎さん、あんた記録係りをしてくれんか」

副会長から指名を受けた次郎ははじめてのことで様子がわからなかったが、辞退するわけにもいかず机の前に座る。

「昭三さん御通夜は地区の者と親戚で何人位になるんかなあ」

「地区が二十八軒で親戚は十人ほどです」

「そんなら饅頭は万一を考えて四十五人分にするか」

「立ち飯は何人分作りゃあええかのう」

「五十人分では足りんかな、昭三さん」

「足りなんだらいけんから六十人分位お願いしますらあ」

次郎がそこまで記録をした時やっと農協の担当者がやって来た。

「香典返しはどれ位用意するかな」

「余ったら返せるから三百ほど用意してもらえますか」

「仕上げの料理は何人分用意したらええかな」

「地区の二十八人と親族二十三人で合計五十一、それにお寺さんが二つで五十三ですが、五十五人分にしてもらおうか。仕上げの料理は仕出し屋に頼むとして、ほかは地区で昔通り作ってもらいたいと思うとります」

 こうして豆腐何丁、油揚げ何枚、ヒリョウズ何枚と決められていくのを、次郎は驚きながら一つ漏らさず記録する。味噌やだしイリコ、調味料、手伝いの人たちの飲料、茶菓子まで用意するのには驚いた。

「受付四人は顔の知れている者がええじゃろう。作やんと八郎さんと六八さんと和さん、頼めるかなぁ」

「礼場は誰が立つかな」

次々に段取りが決まり喪主の昭三さんはやがて農協の担当と祭壇やら香典返しの品物やらの相談をしている。

「大体決まったから誰か役所へ死亡届を出しに行って、埋葬許可書をもらってきてくれんか。死亡診断書と印章と一万円を預かって行ってくれ」

自治会副会長の川上さんから言われてアイターンの北川さんが出かけていった。

 翌翌日の朝七時集合で午後一時からの葬儀に合わせて汁やご飯炊きの準備に慌しい。十一時には親族などの会葬者に食事の用意をして給仕をし、済むとすぐに片付けて地区の者たちで昼食を摂る。次郎は台所仕事を担当し、シェフ上がりの山本さんたちと奮闘した。骨上げは四時頃というのでそれまでしばらく休憩だ。斎場へは婦人衆が見送りに行く習慣だ。次郎は田舎の葬儀に始めて参加して、地区民みなで故人とお別れをする昔からのやり方に感心した。業者任せでなく手作りのシステムだ。形式的な葬儀でなく相互扶助で安上がりだし人々の連帯感や一体感が残っている。助け合いと協同の意識が満ち満ちていて感心した。


 葬儀のあくる日昭三さん宅では初七日の法要が行われている。僧侶の叩く鐘の音を聞きながら次郎は途中止めしていた剪定作業に精出していた。ピオーネの栽培は一本の樹から二本の蔓を左右に伸ばして誘引する。次郎の家のピオーネはまだ若樹なので剪定作業は簡単だ。先輩たちの話によると来年は植えつけて三年目なので少しは収穫が期待できるようだ。剪定鋏を持つ手に力が入る。

 黙々と作業をしながら次郎は考えた。最近は葬儀が近代化して業者任せでスマートに執り行われるのが常となっているが、地区民皆でお別れする葬儀こそ本来のお別れではないか。できれば自分も病院ではなくて家族に看取られながら自宅で最期を迎えたいものだ。子供たちや孫たちに看取られて死にたいものだ。昨日までの葬儀全般を思い起こしながら黙々と鋏を握る次郎の姿があった。市からの援助が今年で切れるので、せめて二百万円くらいの収穫があればよいがと思いながら、剪定鋏を握る手に力が入る。


         十

 若木を植えつけてから三年目の春を迎えた。先輩たちの話では今年次郎のところでも少しではあるが収穫できるらしい。蔓は左右四メートル位延びている。昭三さんに言わせるとまあまあ順調とのお墨付きをもらった。五月になってどの樹も勢いの良い新芽が吹きだした。ビニールトンネルで雨よけを設置して着果率を高めねばならない。妻の弓子と二人三脚で作業に汗を流す。大輝も畑に付いてきて一人遊びをしてくれるので大助かりだ。小学校に通っている姉ちゃんや兄ちゃんが帰ってくるまで何時もこんな調子で、子供たちが元気で活き活きと成長してくれることが次郎にとっては何よりの励みである。


  やねよーり たーかい こいのぼりー

  ・・・・  ・・・・

  おもしろそーうに およいでるー

 三歳になった大輝は鯉のぼりを見上げながらたどたどしい調子でうれしそうに歌っている。大輝が生まれた翌年の四月中頃、昭三さん親子の協力で鯉のぼりを揚げた時はまだ幼くて鯉のぼりを指さしながら

「おさかな、おさかな」

と言っていたが、早いもので今年は鯉のぼりの歌が歌えるようになっている。次郎の家から四十メートル東の昭三さんの家でもひとまわり大きい鯉が心地よさそうに風になびいている。

地区の年寄りたちから毎年四月になると、

「まだ鯉のぼりを揚げんのかなあ。早よう揚げて見せてくれぇ」

と催促される。

「鯉のぼりが泳いどるのを見ると何かしらん心が安らぐんじゃ」

「子供の声が地区から聞こえるのはええなあ」

「若い人らが次々来てくれて有り難いことじゃ」

「ほんま、ほんま。うちの孫たちも帰ってくりゃあええのにと思うとるんじや」

「そうじゃのう。ブドウで結構食うていけるんじゃからのう」

「市の方もしっかり応援してくれるんじゃから」

「外からいっぱい人が移住して来とるというのになあ」

「次々移住してきてこの地区でももう九軒にもなったで」

年寄りが集まって今日もこんな会話をしているのが次郎の耳に入ってくる。地元の年寄りたちから喜んでもらえるのは、次郎たちアイターンした者にとって何よりの励ましになる。

 次郎の野菜つくりも二年目を迎え「道の駅 あすなろ」に積極的に出品するようになって、頻繁に顔を見せるようになった。普段余り交流のなかった婦人衆ともだんだん親しくなり、地域に溶け込むいい機会だと思っている。

 弓子は農協婦人部に仲間入りして、次男の大輝と悠太を連れて朝早くから、週一回の手造りこんにゃく、豆腐、油揚げ等を作る作業に出かけている。味噌は昨年仕込んだ物をケースに詰めて道の駅に出品する。特に味噌とこんにゃくは人気商品として毎回陳列されている。弓子は主に手造りこんにゃくの担当で頑張っている。時には山菜おこわや手作りパンも手掛けるようになった。手作りパンはパテシィエだった道子さんと北海道から移住してきた北川の和美さんが中心となり、地元の人たちからも珍しがられている。八十歳を先頭に平均年齢六十七歳の婦人部の仲間は主に農閑期を利用して作業に従事し、作業をしながらお互いの会話も弾み、ストレス解消とお互いの交流が出来て活き活きしてきた。

「弓子さん、こんにゃく造りが手馴れてきたなあ。ここずっと人気が出て毎回完売よ」

「人気商品だから少し数を増やすかなあ」

婦人部長の緑さんが弓子の作業を見つめながら話しかけてくる。

「こんにゃく芋は十分ストックがあるのでしょうか」

「昨年から地区の人たちが評判を聞いてだいぶ作付けが増えとるから大丈夫と思うよ」

「土曜日と日曜日はお客さんが多いそうだから百五十袋に増やしましょうか」

「ああそうしてみようよ。残ったら原価で会員が買えばええから」

緑さんの一声で五十袋増やすことになって、弓子はさらに忙しくなりそうだと思いながら、蒸した芋をミキサーにかけていた。

「味噌はやっぱり減塩が人気らしいよ」

「健康志向が高まっているからやっぱりね」

「家の爺ちゃんは味噌汁が水臭いと言って、少々気足らんようだけど血圧のことを考えるとねぇ」

「そりゃあそうと今年の地区の納涼祭はいつになったん?」

「八月の第三土曜日に決まったようよ」

「去年は花火が評判で今年は予算を増やしたらしいわ」

「焼き鳥とたこ焼きも人気が良かったから倍に増やすそうよ」

「子供たちはやっぱりかき氷が人気で我が家の孫は三杯も食べたと嫁が驚いていたで」

「盆踊りは肝心の踊り手が少ないと音頭取りの友さんが嘆いておったで」

「弓ちゃんも早う覚えて踊ってくれんと」

「はい、子供がまだ小さくてなかなか大変なんです」

「まあぼちぼち宜しくな。年寄りの後について真似をしとるとすぐに覚えられるから」

「ええそのつもりで頑張ります」

田舎の知恵と都会からの若いセンスが渾然一体となり新しい文化が芽生えてきつつある。移住者は地区の様々な知恵を吸収する場ともなって妻の弓子は大助かりと喜んでもいる。


          十一

「お久しぶりです。お元気そうで安心しました」

「吉岡さんよく来てくれました。もうあれから三年になりますね。引越しの時は大変お世話になりました」

「マンションの仲間が田中さんのことをずいぶん心配していまして、一度お訪ねしようと思ってやっと実現しました。『高速どこまで行っても千円』を利用して来ました」

「実際は幾らかかりましたか」

「中国道一本ですから本当に千円で来ました」

「それは良かったですねぇ。夏休みになったら子供さんといつでもお出で下さい。大歓迎です」

「この前田中さんから送って頂いた茄子とトマトをマンションの仲間におすそ分けしたら、大変よろこんでくれました。トマトの本当の味がすると言って」

「それは良かったです。無農薬で完熟、しかも取れたてですからきっと満足していただけると思っていました」

「ずいぶん美味しかったようで仲間からネット販売をしてもらえないかと頼まれました」

「えっ、ネット販売ですか?」

「ネット販売は今だんだん増えてきて注目されてきていますよ。我々仲間だけでなく全国ネットで顔の見える果物、野菜は人気上昇中なんですよ」

「ああそうですか。まだそこまでは考えていませんでしたがヒントを頂いて有り難う。今は道の駅に出品するのが精一杯ですが、地区の人たちにも話してみることにしましょう」

「言って良かった。仲間たちはきっと喜びますよ。是非前向きに検討してみて下さいよ」

 こんな話をして吉岡さんは子供さんの部活が明日からあるのでと夕暮れ前に慌しく大阪に帰っていった。


「北川さん先日大阪の友人がきましてね。野菜や果物のネット販売を始めたらどうかと言うんですが」

「最近農薬や偽装のことで世間が騒がしく、若い人たちの間でも安全・安心の食べ物志向が増えてきたらしいなあ」

と北川さん。

「ネット販売となると全国へ発信することになるから、ちょっと無理と違うかなあ」

アイターン一号の上山さんはピオーネ栽培専門で、既に軌道に乗っていて、野菜は自家消費程度しか作っていないからかどうも乗り気ではないようだ。次郎もピオーネ作業の片手間で野菜作りを始めたので、全国に向けて対応出来るかどうか不安である。

「昨年の秋だったかアンテナショップの記事が新聞に載っていたよ」

そう言って山本さんが新聞の切抜きを見せてくれた。

「何でも吉備中央町が岡山の奉還町で野菜を中心に始めたらしい。最近人気が出てきたらしいよ。新鮮で安全だと言って」

「毎日でなく週に三回とか土日に開催する手もあるよ」

「それはいいかもしれないなあ。ブドウが忙しい時期はそのほうがやりやすいよ」

「でも我々アイターンの者だけでは品揃えが大変だよ。検討課題だなあ」

「そりゃ昭三さんにも相談して地区のお年寄りたちにも野菜の提供をしてもらわないと」

 焼酎のビンを横に男たちは話がはずむ。今日は年に四回実施している近回りのアイターン仲間だけの夕食会である。今回は北川さん宅が会場で子供たちも一緒にパーティーに参加している。隣の部屋では子供たちの賑やかな声が聞こえていた。たぶんいつものように食事を済ましてゲームをして遊んでいるのだろう。母親たちはその脇で女同士色々と情報交換をしている模様だ。次郎はもう少しネット販売やアンテナショップとか契約栽培など情報を仕入れて、再度次回に提案することにしてこの話を終えた。

 大阪の吉岡さんからはその後どうなったかと、問い合わせのメールが一月ほどして届いた。同じ階のマンションの住人たちの間で期待されているようだ。簡単に一人でも出来ることはないかと考えていた次郎は、取り敢えず大阪のマンションとタイアップしてみようとメールを送信した。


          十二

「田中さん、我が家をキーステーションにして、旬の野菜や果物をお願いできますか。皆あなたの提案に賛成してくれましたよ」

「マンションの三階は全部で十二軒でしたね。野菜は鮮度が一番ですから週一回のペースで注文メールを入れましょうか」

「ああそうしてもらえると有り難いです。農繁期は大変でしょうから無理をしないで長続きするようにお願いします」

「夫婦共稼ぎの家が多いと思いますので日曜日の朝着くように送ればいいでしょうか」

「運賃が少し高くなってもいいのでクール宅急便でお願いします」

「我が家だけでは品揃いが貧弱ですから、仲間や地区の人にも協力してもらって送れたらと思っています」

「仕分けはこちらでしますので荷造りのし易いようにしてください」

 夜十時前、ぼちぼち寝ようかと思っていた矢先吉岡さんからの電話だった。

 横で電話を聞いていた弓子が話しかける。

「貴方、ピオーネは勿論ですが野菜作りにももっと力を注がないと駄目ね」

「ああ、せっかくの話だから期待を裏切らんようにせんとなぁ」

「これからますます忙しくなるわね」

「道の駅への出品は控えないと駄目かもしれんなぁ」

「仕方ないわよ。仲良くしていた大阪の友達とも縁が切れずに良かったわね」

次郎は弓子とこんな寝物語りを交わしながら、よし頑張らなくてはと意を新たにするのだった。

 土曜日の陽が沈みかけてから次郎は菜園で茄子、トマト、ピーマン、キャベツ、キュウリなどの準備をした。玉ねぎとジャガイモは昨日すでに箱詰めを済ましている。桃とインゲンとサラダ水菜は昭三さんが提供してくれた。

注文のメールをプリントアウトして、間違いのないように数をチェックして急いで箱詰めをして日曜日の午前中に着くように発送する。家に帰ったら六時半を過ぎていた。荷姿がどんな状態で届くか心配である。

 翌日の昼過ぎ吉岡さんからメールが入っていた。

∧野菜が届きました。有り難うございました。どれも新鮮で皆喜んでいます。届いてすぐにそれぞれ注文の品を届けました。トマトは子供たちがその場で口にして甘くて美味しいと大評判でした。我が家の今晩のおかずは肉ジャガを作ると家内が張り切っています。小生はモロキュウで一杯やりたいと思います。次の週も皆期待していますので又注文メールをよろしく。∨

 クール宅急便だったので劣化の問題もなく着いたようで次郎はホッとした。大阪の仲間が喜んでくれるのだから、せいぜい長続きするよう地区の仲間にも協力してもらって品数も増やしたいものだ。昭三さんが提供してくれた桃はもう終わったので、ピオーネの収穫時期にはブドウも是非加えよう。生産者としては喜んで消費してもらえることが一番の励みになる。新米農業者としては無理をせずに続けていけたらと思う。

 吉岡さんのメールを夕食後読んだ弓子は、

「お父さん大阪の皆さんの期待を裏切らないためにも、道の駅への出品は少し控えめにしたほうがいいわよ」

と話しかけてきた。

「ああ、わかってる。葉物野菜は収穫時期があるので難しいよ。採取の時期が遅れると畑で劣化してしまうからなあ」

「それにどれくらいの注文が大阪から入るかわからないものねぇ」

「だから道の駅への出品は調整するために利用しようと思っているんだ。消費者は王様ではなく消費者は我が儘だからな」

「そうねぇ、曲がったキュウリなど手を出さないものねえ」

「俺たちは安全、安心の野菜を届けようと思っても虫の食ったキャベツなどたいてい売れ残っている」

「以前はスーパーできれいなキャベツを買って食べていたけど、あれは農薬がしっかり散布してあったのかもしれないわね。虫の付かないキャベツなどは農薬を使わないと出来ないことがここに来て始めて解ったわ」

「それに引き換え大阪の仲間はある程度理解してくれているから、今後主力を大阪にするか」

「道の駅には地区の人たちが大勢出品しているからそうしたほうがいいかも」

「それに最近気づいたが、道の駅では生産者が自分の出荷したものを早く売ろうと互いに値下げ合戦が始まっているんだ」

「なるほど、消費者は同じ程度の野菜なら安いほうがいいものね」

「自分で作った物に自分で値を付けるという利点もあるが、それが逆にお互いの足を引っ張る結果になっている一面もあるよ」

「そうなると利益がどんどん少なくなるわねぇ」

「苦労して作った野菜が採算の取れる正当な価格で販売できないのは生産者としては辛いよ」

「なにか良い方法はないのかしら?」

「俺たちとしては大阪のマンションに重点を置くやり方に変えてみるよ」

「そうねえ、そうすれば足の引っ張り合いはないわね」

「だが送料を大阪で負担してもらうので価格設定は慎重に考えんとな」

「面倒でもせっかく大阪の仲間が喜んで食べてくれているのだから長続きするように頑張りましょうよ」

 弓子も、大阪の仲間との縁が続くことを喜びなかなか乗り気のようだ。秋から冬の野菜作付けのためにも一度吉岡さんにメールを入れて希望の野菜を聞いてみよう。弓子の話を聞きながら次郎はもう次の植え付けのことを考えていた。

 こうして大阪の吉岡さん経由の野菜販売は軌道にのり、九月の中旬には次郎のブドウ畑で初収穫のピオーネも送り大好評を得た。スーパーで買ったブドウよりもプチプチしていてとても甘くて新鮮だという。JA阿新と道の駅、それに大阪の吉岡さんの三ヶ所に出荷してピオーネだけの売り上げが二百八十万円ほどであった。


          十三

 今日は豊永地区のピオーネ栽培農家として『農林大臣賞』を受賞した勇さんの受賞記念の祝賀会である。勇さんは佐藤さんの分家の跡取りで甥にあたり、大阪の商事会社を退職しユーターンして十三年になる。佐藤さんの指導よろしく見事最高の賞を手にしたのである。豊永地区でピオーネ栽培を始めて最初の受賞者であり佐藤さんは嬉しくてしようがない。

「皆さん、当地区からこのような名誉ある受賞者が出て誠に嬉しいことです。甥の勇もUターンして帰ってきて本当に良かったと私は思います。これも地区の皆さんのご指導とご協力の賜物です。この受賞を地区の励みとして今後もお互いに頑張っていきたいと思います。今日はしっかり飲んで明日からの英気を養ってください」

「親父が体調を崩して私はにわかにユーターンしてピオーネ作りを始めたのですが、先輩たちを差し置いてこんな栄えある賞を戴き光栄です。これも皆さんや叔父に指導してもらったお陰です。本当にありがとうございました。今後もどうかよろしくお願いします」

勇さんは頬を紅潮させながら喜びの挨拶をした。

 こうして今までにない賑やかな会が始まり、そのうち今年の生産の反省があちこちで始まった。

「そうかな、三百万にはならんかったかな」

「はい、でも野菜の売り上げと合わせると二百八十万くらいになりました。これも佐藤さんのご指導のおかげです。有り難いことです」

「JAは等級検査が厳しいから、玉まびきをもっと上手にして粒を揃えるとええよ。初めての出荷でそこまでになったんならまあ良しとせにゃあ」

「今年の春からは市からの援助金も切れたので、もっと品質と収量を高める必要があると思っています」

「まあそんなに急ぎなさんな。わしらもここまでになるには二十年以上かかったんじゃから」

そう言って慰めてくれた。

 新規就農仲間で一番先輩の上山さんは、ここ数年平均して六百万の収益を上げているらしい。栽培規模が次郎と同じ四十本くらいだからいずれ追いつきたいものだと次郎は皆の話を聞きながら来年こそはと内心闘志を燃やしていた。


 祝賀会の余韻の残る翌日、稲作をしていない次郎は子供たちを連れて、新見に来て初めて近くの満奇洞にハイキングに出かけた。秋の山々は少し紅葉が始まっていて清々しい天気だった。歩く道筋ではコンバインの音があちこちで聞こえ、稲の収穫に忙しく立ち働く姿が見える。そんな姿を目にすると子供連れでのんびりハイキングしている自分たちが、何か後ろめたいことをしているように思えて少々戸惑いを感じる次郎であった。しかし子供たちは小さなリュックを背にはしゃぎながら歩いている。普段はブドウ栽培で忙しくてかまってやれない次郎は、そんな無邪気な子供たちの姿を見て思い切ってやって来て良かったと思うのだった。

 満奇洞はここ新見地区では井倉洞に次ぐ規模の鍾乳洞で、洞内は延長四百メートルにも及び、様々の形をした鍾乳石が展開していた。パンフレットには奇趣に満ちた洞と激賞されて「満奇洞」と名づけられたとある。

「お父ちゃんどうやってこんな面白い形のものが出来たん?」

「あのなあ綾香、石灰岩が長い間地下水に溶けて出来たものと、水に溶けた炭酸カルシュームがもう一度結晶して出来たものとあるんで。あの筍のような形のものが結晶で出来たものと書いてあるよ。でも綾香にはちょっと難しいかな」

「ふうん、よう判らんけど面白い岩がよけいあるなあ」

「洞の中は暖かいなあ」

と二年生になった舞は目を輝かせている。悠太と大輝は面白い形の岩を手でなでたりしながら、弓子と一緒に三十分ほどで一巡して外に出た。子供たちにはちょっと不向きだったかと次郎は反省しながら、木陰を見つけて親子六人で弁当を開くのだった。


          十四

 収穫を終えて十二月の半ばから一月の終わりまでに、地区ではどの農家も山に落ち葉をかき集めに行く。クヌギやナラの木の落ち葉を集めてブドウ畑に鋤きこむのだ。ブドウの根は浅いのであまり深く鋤きこむと根を傷めてしまう。浅く鋤きこんで土作りをするのだ。肥料はやりすぎると果実の熟れが悪く色づきもよくない。木の葉がちょうど適度の堆肥となって先輩農家のブドウ畑はどこもフカフカとして軟らかい。次郎も早くあのような畑に仕上げないと良いブドウは収穫出来ないと言われているので、妻の弓子と許可をもらった近くの山に行き、落ち葉集めに専念する一ヶ月だった。何とか畑一面に鋤きこんで終わったのは一月も終わりだった。これで少しは良いブドウが収穫できるぞと期待に胸を膨らませる。

 二月になって今年もいよいよ剪定作業が始まった。一昨年の冬、佐藤さんのブドウ畑に行き、選定のやり方を見学してノウハウを学んでいた。佐藤さんに指導してもらったことを思い出しながら、寒風の中での作業に精を出す。剪定を間違えばたちまち来年の収量に響く。四年目で四百万、五年で五百万、六年目には上山さんの言っていたように六百万は達成したいと思いながら剪定バサミを握る。樹が生長して昨年よりも倍の時間がかかったが嬉しい悲鳴である。来年からは収穫量も増えるから、大阪の注文にもしっかり応じることが出来るだろう。楽しみである。

 二月を迎えても作業は目白押しだ。剪定を終えて一息つく暇もなく、二度目の落ち葉を鋤き込む作業が待っている。甘みのしっかりした大粒のピオーネ作りは、冬の土作りが翌年の収穫に影響すると昭三さんは言っていた。昭三さんの畑では土がフカフカとしていて、手入れのよさが一歩足を踏み入れるとわかる。次郎の畑とは段違いである。

昨年の勇さんの農林大臣賞受賞に引き続いて、今年、平成二十一年には豊永地区全体が栄えある日本農業賞を受賞し、地区民はピオーネ栽培に一段と燃えている。ピオーネ栽培に着手して苦節二十年、今では県下はもちろん全国的に名を馳せ、関東関西の青果市場でも評価が高く、地区の栽培農家は高品質のブドウを作らねばと、受賞が逆にいい意味のプレッシャーにもなっている。

 最近では高品質を維持するために、十二月から三月にかけて落ち葉のかき集めに余念が無い。集めた落ち葉はストックして五月になるとブドウ園に敷き詰めて、夏場の乾燥防止に利用し、さらに鋤き込んで土作りに役立てる。鋤き込まれた落ち葉はそのうち堆肥となり、やがてより一層甘いピオーネが出来て生産者の努力に応えてくれるはずだ。

 次郎はこの豊永地区にアイターンしてきて、こうした先輩たちの豊かな経験に学び指導も受けて、この地にやってきて本当に良かったと思う昨今である。その一員として生産者の仲間に入れてもらい、落ち葉をかき集める手にも力が入るのだった。

 農業は土作りから始まるとよく言われているが、二年や三年では土壌改良は出来ないことが次郎にもだんだんわかってきた。根を傷めないように気をつけながら、次郎は今日も鍬をふるって堆肥の鋤き込み作業に専念した。この調子だと何とか先輩たちの仲間入りが出来るだろうと思うと、親切に指導してくれた昭三さんに感謝の念でいっぱいである。

 露地栽培の次郎にとって冬は大阪へ送る野菜の種類もぐっと少なくなる。アイターンの仲間や昭三さんたちの応援を得て、白菜、大根、水菜、人参、ネギ、蕪など、今日も箱詰めに忙しい。昭三さんが提供してくれた西条のつるし柿が前回好評で今回は大阪の仲間全員が注文してくれた。


          十五

 こうした季節の野菜が大阪の友人たちとの仲立ちの役割を果たしてくれ、田舎に住む次郎たちの心の支えとなっている。そしていよいよ四年目の春を迎えた。発芽の時期を前にして雨除けのためのビニール張りの作業を二人でしていた昼前、弓子が突然下腹部の異常を訴えた。ひどく痛がるので病院に連れて行ったところ腎臓結石と診断され、手術のため緊急入院することになってしまった。

 上の三人はそれぞれ小学校、幼稚園に行っているので日中は困ることはない。次郎は三歳になったばかりの一番下の大輝を抱えて、病院通いと農作業に追われることになった。

 四月の下旬頃から新芽が出てくる。したがって四月の中ごろまでにはビニール張りを終える予定だった。去年は慣れないながら弓子と二人でなんとか作業を終えた。今年は去年の経験を生かして順調に作業が進み残り半分ほどになった時だったのである。ビニール張りは風に吹かれると二人でやっていても困難を伴う作業なのだ。張り終えるまで雨の降らないことを祈りながら次郎は覚悟して作業を続けていたがとうとう間に合わなかった。運悪く弓子が入院して四日後本降りの雨になってしまったのだ。

 新芽が雨に打たれると病害にやられて収穫が極端に落ちるといわれる。被害の出ないことを祈っていたが雨に打たれた樹は葉がちぢれたようになり成長が特に悪い。昭三さんから病気予防の薬剤散布の指導を受け、どこまで改善するか期待しながら作業を終えた。

心配していた通り六月になって花穂の着きの悪いものが目立ってきた。もうこうなると手の施しようがない。今年は収量の減るのを覚悟しなくてはなるまい。今年こそはと思っていた次郎は唇を噛みしめた。


「お父さん、ゴメンね。私が病気にならなかったらこんなことにならずに済んだのに」

二週間程の病院生活を終えて退院してきた弓子がブドウ園にやって来て済まなさそうに言う。

「何を言うとるんじゃ。お前のせいではないよ。天気のことだから運が悪かったんだ。気にするなよ」

「でも県や市からの援助も切れているし、今年は何とか三百万以上を目標にしていたのに」

「何とかなるさ。今年は野菜で頑張るしかないよ。大阪の仲間たちも我々が送る野菜を歓迎してくれているのだから心配するな」

 弓子の心配を出来るだけ軽くしてやらねばと次郎は強気を言ったが、心の中では今年の秋の収量は大幅に減るだろうと覚悟していた。玉まびき作業の最中でも、ジベレリン処理の時も、雨にあたらなかった房と雨に降られた房とでは格段に粒の着きようが違っているのに気づいていた。今までは援助があったので気分的にも楽であったが、援助が切れた今となっては自力で生計を立てていかねばならない。妻の弓子には何とかなるさと言ったものの内心次郎は気が気ではない。子供たちも成長するにつれ金がかかりだす。何としても一年、一年の目標を達成していかなければと次郎は決意を新たにするのだった。

 失敗を繰り返さないために昭三さんから教わったブドウ栽培の作業工程のメモに何回も目を通してみる。

まず四月の下旬には発芽が始まり五月の初めごろから芽欠き、摘穂、結果枝の誘因作業、花穂の切込み作業と大忙しの時期になる。

 花穂の切込み作業では穂の先端三センチ五ミリだけ残すよう上の部分を切り取る。この三センチ五ミリが将来五百グラムのブドウに成長するのだ。この時昭三さんが六月の終わりにジベレリン処理をする際の目印として、上のほうの二つの穂を残すのが大事なポイントだと教えてくれた。種無し処理を施した時に二つ残した一つの穂を切り取り、肥大処理をした時に残りの穂を切り取って作業完了の目印にするというのだ。作業ミスを防ぐための知恵だ。そして六月の摘心作業まで一房、一房手間のかかる作業が日々続く。

 結果枝の摘心を終えてから種無し処理と肥大処理のため二回ジベレリン液へのドブ漬け作業が待っている。ブドウ農家としては一年で一番大事でしかも労力のかかる時期だ。

さらに房の仕上げ整形・粒数の調整、害虫・病気予防の薬剤散布を終えて、六月下旬から七月中旬にかけ害虫・病気予防のため袋をかけてやっとひとまずの作業が終わる。

お盆前から濃紺に着色し始め、最低気温二十四度以下になり昼夜の寒暖の差が激しいほど甘みが増して八月下旬から完熟し始める。そして待望の収穫、出荷が九月から十月まで続くのだ。

次郎は昭三さんに教わったこのような作業工程を書き留めて、その都度何回も読み返しながら、時期を違えないように根気よく取り組むことにしている。

八月の終わりから九月の上旬ピオーネの収穫を前にして、冬物野菜の播種の時期を迎えて、昨年より一・五倍多く白菜や大根の種を蒔いた。ピオーネの不出来は野菜で穴埋めするしか方法はない。

 九月の中旬を迎えピオーネの色づきの良いものから収穫を始めた。心配していた通り雨に当った樹は出来が悪く、四年目の収量としては予定量の五分の三程度になった。少しでも収入を確保するために出荷制限がなく、価格が安定しているJA阿新に主力を置いて出荷した。売り上げ目標四百万を目指していたが、結局のところ三百二十万を切った。仕方ないとはいえ少々こたえる結果だった。「百姓の来年こそ」が身に沁みる次郎だった。


          十六

 九月の終わりの日曜日、今年もまたピオーネ祭りの日がやってきた。今年は落語家の桂三枝が新見ピオーネ大使として任命されてやってくるという。次郎は子供たち四人を引き連れて弓子と豊永福祉交流プラザに向かう。

会場には農協婦人部の人たちがたこ焼き、焼きそば、手作りアイスなどの販売で忙しく立ち回っている。弓子にも手伝って欲しいと依頼があったが子供が小さく手が離せないのでお断りをしたようだ。

「ごめんね。お手伝い出来ずに」

「いらっしゃい。気にしなくていいよ、弓子さんはまだ坊やが小さいのだから」

婦人部長の緑さんが竹串でたこ焼きをうまく返しながら応える。催し広場では三枝がマイクの前に立ち、例の口調で大使就任の挨拶をしているところだった。

「・・・この豊永のピオーネが大阪の町で大フィーバーするように、大使としてしっかり宣伝させていただきます。どうか安全で美味しいブドウの生産を・・・」

 次郎たちはたこ焼きを買って丸テーブルを囲んだ。隣のテーブルには上山さんの家族や山本さん親子が焼ソバを食べている。次郎は挨拶を済ませるとピオーネコーナーに出向いてみた。地区外からの参加者向けに宅配便の受付もあり、何人ものお客さんが送り状を書いている。何箱も買い求めて車に積み込んでいる人も目に付く。次郎のブドウ園では全部出荷してしまったが、町内会長の昭三さんはこの祭りに備えてストックしていたピオーネを、軽トラックいっぱい積み込んで会場に乗り込んでいた。祭りを盛り上げるために市場価格より安値で提供している。頭の下がる思いである。

 やがて催し広場ではカラオケ大会が始まり、昭三さんの息子の謙作さんの司会で次々と自慢の喉を披露している。

 今年は備中町から小中学生八人の一座が招かれて、例年なかった子供神楽も予定されていた。

 子供たち三人は久しぶりのお祭りに参加してやや興奮気味だった。下の大輝がまだ小さいので子供神楽を見終わって少し早かったが切り上げることにした。

 道の両側に連なるピオーネ畑を見ながら次郎は車のハンドルを握る。その中にポツリポツリと早出し栽培のビニールハウスの屋根が陽の光を浴びてキラキラ輝いている。早出し栽培は一・五倍の値段で毎年取引されている。収益が上がり資金が出来たら次郎もビニールハウスを一棟や二棟立ち上げて、ベテラン農家に少しでも近づきたいものだと思う。


 剪定や土壌管理の一段落ついた二月の下旬、アイターン仲間が久しぶりに上山さん宅でパーティーを開くことにした。今回は農閑期でもあるので、日ごろからお世話になっている昭三さん親子も、お礼を兼ねて招待することにした。栽培技術の面で色々教えてもらいたいこともたくさんある。昭三さんと息子の謙作さんが快く参加してくれて、北川、山本、上山、田中の四家族がそれぞれ食べ物を持ち寄って賑やかな会となった。

 アルコールがまわるにつれてだんだんと声も大きくなる。

「上山さん今年はずいぶん良かったんと違うか?」

「とても昭三さんのところには追いつきませんが、昨年はやっと六百万ほどになりました。山川さんが歳をとられて、出来れば作って欲しいと言われたので十アールほど借りましたから」

「そんなら作付けが三十アールを超えたんじゃなあ」

そんな話を聞きながら次郎は

「上山さんはアイターン仲間の中でも一番の成功者ですから。私も早く追いつきたいものです」

と言いながら、もう少し作付けを増やすために、耕作放棄のブドウ畑を借りようと内心闘志を燃やしていた。

「家内がピザ作りをしたいと言っていますので、ぼちぼちグリーンツーリズムを始めてみようかと思っています」

北川さんは以前からちょくちょく話していた構想をやっと前に進めるつもりらしい。

「ログハウスを拡張して観光的な経営をしようと思っています。この豊かな自然を生かさない手はないと思います。都会の人たちにとっては魅力的な地域だと思うんです」

「そりゃあいいことですね。私も妻も協力できることはしますよ。妻は以前パテシィエをしていましたのでピザ作りは応援出来ると思います」

以前フランス料理店を経営していた山本さんが目を輝かせながら口を挟む。

「いや有り難う。またその時は知恵を貸してください。まあ年寄りの道楽みたいに考えていますから、どうなることか判りませんがやってみることにしました」

「そりゃあいいことだ。地区の活性化にもなるしわしも町内会に話して地区を挙げて応援するで」

「ブドウ狩りだけでなく、年間を通して地元野菜をメインにして呼びかけてみたいと思っています」

「私の大阪の仲間もきっと喜んでやってくると思いますよ。ネットで呼びかけたらきっと参加者が増えるんじゃありませんか」

「まず仲間内で知り合いに発信するのもいいでしょう」

「私の出身地北海道でも晴れの国岡山は魅力的な土地柄と思っています。果物は美味いし、気候は穏やかで温暖ですから」

「まあ頑張ってみられえ。この前市役所に行ったら又三人ほどアイターン希望者がこの豊永にもやって来るらしいで。地区としては有り難いことじゃ。他の地区と合わせれば合計五十人を超えるそうじゃ。農村の活性化につながり、わしらとしては嬉しい悲鳴を上げとるんじゃ」

「新見は面倒見がいいから希望者が次々増えているんでしょう。僕みたいな者がここでやっていけるんですから」

次郎は仲間が増えるという話を聞いて、何か明るい希望のようなものが湧いてくるのだった。勇気を出してここにやって来て良かった。子供たちもたくましく育ってくれているし、地区の人たちも暖かく付き合ってくれるし申し分のない選択だった。

 昼前から始めたパーティーだったが気がつくともう外は薄暗くなりかけていた。心ゆくまで飲み色々な話が出来て、また明日への活力を充電することが出来た。呼びかけてくれた上山さんに感謝である。 

やがて三月の終わりに聞いていた通り、新たに三人の後輩たちが移住してきて二年間の研修を始めている。定着すれば次郎たちを入れて豊永地区では八人の新規就農者となる。どうあっても定着してもらいたいものだ。次郎も今まで教わったり、身に付けた栽培技術をバトンタッチして、活性化に向けて恩返しをしなくてはならない。


          十七 

 昨年はやむなくビニールの屋根張りが遅れて発芽したばかりの新芽が雨に遭い、次郎は予定通りの収量を上げることが出来なかったが、今年は昭三さんや先輩たちの指導を受けて、季節ごとの作業も早めに着手することにして、既に四月中旬にはビニール張りを終えていた。 

下旬になると新芽が吹いて一日一日と大きくなってくる。これから芽欠きやら、枝の誘引やらで一日も休む暇はない。大阪への野菜発送も道の駅への出品も夏野菜が出来るまでしばらく休むしかない。運良くこの時期は野菜の端境期なのでブドウの手入れに専念できる。今年もこれから一房、一房花穂の切り込みや、ジベレリン処理、粒のまびき作業、袋掛けと、お盆前まで息つく暇もないシーズンを迎えた。今年上手くいけば、来年は体調を崩して耕作を断念している山川さんのブドウ畑を借りて増反しよう。次郎はそんなことを考えながら今日も妻の弓子と共にジベレリン処理に汗を流していた。

 今日は日曜日で子供たちもブドウ畑にやって来て元気に遊んでいる。二人にとって子供の成長はピオーネの成長と同じように嬉しいことである。新見に移住してきて生まれた大輝ももう四歳を迎え、普段は保育園でお世話になっている。友達と切磋琢磨して田舎の子供らしく最近逞しくなってきた。でも手放しで喜んでばかりもいられない。長女の綾香は来年中学校だ。さすが女の子で妻の弓子の手伝いをして台所に立つことも多くなってきて頼もしい限りである。次女の舞は四年生になったが、やや気の弱い性格からか時々学校でいじめに遭うらしく、ベソをかきながら帰ってくることがあり、次郎にとって少々心配の種だ。現在のところ綾香が時々ガードしてくれているようだが来年になるとそうはいかない。長男悠太は早生まれでもうすぐ二年生だが、男の子だからお姉ちゃんとは遊ぶ仲間が違うので綾香の代わりは出来ないだろう。

「舞ちゃん学校は楽しいかなあ」

「お姉ちゃんがいるから楽しいよ」

「でも来年お姉ちゃんは中学だから一緒ではないよ」

「ふうん、お姉ちゃんは中学?」

「そうだよ。辛いことがあったら先生に相談するといいよ」

「うん、でも先生には言いたくない」

「どうして?」

「先生はあんまり話を聞いてくれないもの」

 これは困ったものだ。一度先生に会って話してみる必要があるなあ。何が原因でいじめられているのか聞いてみなくてはと思った。

 悠太と大輝を次郎が面倒を見て数日後弓子を学校に行かせた。

「先生、うちの舞がいじめに遭っているようなんですが原因は何でしょうか」

「舞ちゃん、何か言ってましたか」

「理由を言わないので心配なんですが」

「私の見るところでは大阪弁が原因ではないかと思われるんです」

「ああそうですか。六歳まで大阪でしたから」

「子供たちには時々注意しているのですが、一人意地悪な男の子がいましてね」

「上の娘はそんなことはなかったんですがねえ」

「私も今まで以上に気をつけておきますのでもう少し様子を見させてください」

「今までは姉の綾香がおりましたから学校は休まずに行ってくれたのですが」

「綾ちゃんは来年中学ですね」

「そうなんです。親としてはそれで心配しているんです」

「ご心配はよくわかります。職員会議でも取り上げてもらい皆で注意して見ていきましょう」

「なにぶんよろしくお願いします。少々気の弱い子供だもんで」

 次郎は弓子の報告を聞きながら、言葉のことはもう少し時間が経たないと解決しないだろうと思った。外に出て地元の友達と遊んでくれたら解決は早いのに、舞は内気な娘だから時間がかかるのかも知れない。出来るだけ親も地元の言葉に慣れないと駄目らしく、今まで以上に気をつけなくては舞が可愛そうだと気付く。

 そんな心配はあるものの、この新見にやって来て子供たちが病気をしなくなったのは驚きである。新鮮な空気と野山いっぱい遊べる自然環境が幸いしているに違いない。新規就農を決断する時はずいぶん勇気がいったが、何とかクリヤーして生活の見通しも立ってきた。トラブルもあり失敗もしながらの四年間だったが少し自信もついてきた。これから子供たちも大きくなっていくので、願わくは安定した収入を確保して、それなりの就学を保障してやれるようになりたいものだ。そんなことを考えながら今日も次郎は弓子と共に一房一房、丁寧に作業を続けるのだった。


          十八

 秋の収穫期を迎えた九月のある日曜日、大阪のマンションの野菜グループが吉岡さんに案内されてブドウ狩りを兼ねてやってきた。車三台に分乗して大人六人子供七人の総勢十三人のメンバーである。

「大勢でやってきました。皆が田中さんに会いたいのと、送ってもらう野菜の生産現場が見たいと言うものですから」

「いやぁ伊藤さん、川田さんお久しぶりです。ようこそお出でくださいました。あれからもう四年が経ったんですね」

「田中さんこんにちわ、田辺です。吉岡さんに連れて来てもらいました。よく日に焼けて逞しくなりましたなあ」

「ああ田辺さんと山田さんですか。お元気そうで」

「皆さんようこそお越しくださいました。まあお茶でも飲んで一息入れて下さい。お疲れだったでしょう」

 弓子は子供たちにはジュース、大人には手作りのハーブティーを用意して庭のテーブルに並べている。四年の隔たりがあっても子供たちはすぐに昔のように何のわだかまりもなくジュースを飲むとブドウ畑のほうに遊びに行った。

「一息いれたらブドウ畑に案内します。今ちょうど最盛期で、丁度いい時に来ていただいたと思っています」

「今回来られなかった仲間にも頼まれていますのでよろしく。前に送っていただいた一箱四房入りで六箱お願いします。お代は二千円でよろしいか?」

「吉岡さん、今回は運賃が不要ですから千五百円でいいですよ」

「ええっ!そんなにお安く分けて頂けるんですか」

「道の駅での価格ですからご遠慮なく。今年はジベレリン処理に失敗しまして時々種がありますのでご勘弁を」

 吉岡さんたちは気を使ってそれぞれがコンビニで弁当を買ってきていた。弓子はキュウリの漬物や味噌汁を出してもてなし、和やかな昼食となった。その席で吉岡さんがとんでもないことを提案してきた。

「田中さん、我々マンション三階の取り組みを聞いた自治会長の小川さんから、マンション全体に呼びかけて希望者に月二回程度、定期的に野菜を送ってもらうことは出来ないか聞いてきて欲しいと頼まれたんですよ」

「いやぁそれは大掛かりですねぇ。戸数は十二戸の八階建てですから九十戸以上ですね」

「全部で九十六戸ですが世帯持ちは七十戸程度です。その中で希望する人がどれくらいになるか呼びかけてみないと判りませんが」

「そんなに大勢だと僕一人では対応できませんから地区の皆さんに応援してもらわないと」

「是非皆さんに諮ってみてください。前向きにお願いします」

「町内会長の昭三さんにはずいぶんお世話になって、色々相談に乗ってもらっていますので近々話してみましょう」

「よろしくお願いします。自治会長も本気のようでしたから」

「今は出荷の最盛期ですから年が明けて農閑期になった頃話してみます。あまり急がずに気長に待っていてくださいとお伝えください」

 かつてのマンション暮らしの仲間たちが車のトランク一杯に、ピオーネとキュウリや人参・大根・ほうれん草などの野菜を積み込んで帰っていったのはその日の夕方近くだった。 

 

          十九

 十一月の初め今日は北川さんの長年の夢だった農泊施設『洗心亭』オープンの日だ。今まであったログハウスを五家族が宿泊できるように増築しての試みである。彼はピオーネに魅せられて北海道のアパートをたたんでこの新見の地にやって来て八年目になる。新規就農者支援センター長の山田さんもお祝いのためにやって来ている。自治会長でブドウ栽培のベテラン佐藤昭三さんの家族の顔も見える。その他地区の年寄りたちも案内をもらって興味津々で大勢集まって来ている。勿論次郎を始めアイターン仲間も顔をそろえて総勢三十数人はいるだろうか。 

「皆さん大変お世話になり有り難うございます。私の念願でした農泊施設の開所にこぎつけました。何もありませんが今日は記念のパーティーですので、どうか遠慮なくくつろいでください」

 北川さんの興奮した挨拶があり、奥さんの和美さんが焼いた石釜のピザをメインにしてパーティーが始まった。フランス料理のシェフだった山本さんが地元野菜をふんだんに使って腕を振るったオードブル、元パテシィエの道子さんの焼いたケーキなど、それぞれが特技を生かして応援して作ったバラエティに富む料理が並んだ。

「ホームページを作って全国発信しました。来週の金曜日からの募集としました」

「洗心亭というネーミングはここに農泊して心を洗い流して下さいという意味ですか」

「ええ、その通りです。この温暖で自然豊かな新見の地に泊まってもらい、命の洗濯をして帰っていただくのがねらいです」

「北川さん、とうとうやりましたね。素晴らしい企画です。就農センターとしてもしっかり応援します。いいモデルとなるようご成功を祈ります」

就農センター長の山田さんが顔をほころばせてお祝いを言う。

「私は民宿でもなく、ペンションでもなく気軽に泊まって心の洗濯をしてもらう農泊を目指しています」

「もう少し北川さんの狙いを話してくれませんか」

「はい、別に農作業の手伝いをしてもらおうとは考えていません。ボーッと昼寝を楽しんで下さってもいい。気が向けば畑から大根を抜いてきてもらってもいい。ピオーネを採って味わってもらってもいい。それぞれの季節に合わせてゆったりと土地の空気に触れてもらうことで、又明日へのエネルギーを蓄え心の充電をしてもらえばいいと考えています」

 きらきらと目を輝かしながら語る北川さんに参加した人たちは心から成功のエールを送るのだった。


「ちょっと私にも手伝わせてください」

農泊第一号の森田さん親子三人がやってきたのは次の土曜日の朝だった。

「ああいいですよ。その棒で袋の口を縛って絞ってくれますか」

 和美さんが快く説明する。森田さん親子にとって豆腐作りは初めてだった。ぎゅっと棒を回転させて奥さんが絞りあげる。中学生の娘さんもお母さんと一緒に挑戦している。木綿袋の布地を通してとろりとした豆乳がしみ出る。森田さんは早速飲んで。

「市販の豆乳とはまた一味違って、やや黄色だがまろやかでコクのある味ですねえ」

「この大豆も私の家で作ったもので水も地元の湧き水です。今日の夕食は全部自家製ですから安心して食べてください」

そう言って和美さんは忙しそうに調理場に戻っていった。

 あくる日の朝、和美さんはコンニャク作りを用意していた。色々体験してもらうことが一番のご馳走という考えで始めた農泊である。近所のお年寄りからコンニャク芋の種を分けてもらって栽培を試み、三年前から自家製の手作りコンニャクに挑戦して、次郎の家でも何回かおすそ分けを戴いている。

 森田さんの奥さんは昨日に引き続いて、また珍しい体験に目を輝かしながら挑戦している。

「コンニャク芋はよく洗って荒皮だけ落としてください。そしてイチョウ切りにして蒸し器にいれて二十分ほど蒸します」

「この黒っぽい皮はとらなくていいの?」

「ええ少し残っていても大丈夫。蒸しあがってから皮を取ると手が痒くならずにすむのよ」」

「市販のものは色の白いのと黒っぽいのと両方あるけど白いのは漂白してあるのかしら」

「ええ、市販のものはもちろん皮を取り除いて漂白したものを粉にして貯蔵しているのよ」

「別に真っ白でなくても美味しいものね」

 そんな会話をしている間に北川のご主人は家の東角に据え付けてある大きなカマドに大鍋を載せて水を一杯注いでいる。

「森田さんお湯を沸かしてください。うまく薪に火がつくかどうかやってみてください」

「はい、やってみましょう。中学生のころ野外研修で飯盒すいさんをした時以来ですから、ちょっと自信はないけど」

「薪に火をつけるには最初は小枝を使ってやるとうまくいきますから」

北川さんはそう言って森田さんにバトンタッチした。森田さんは言われた通り小枝を用意して新聞紙に火をつける。新聞紙は燃えたが小枝に火がつかない。

「森田さん新聞紙は小枝の下に入れないと駄目でしょう」

「ああそうか。済みません」

言われたようにやり直して何とか小枝に火が回って燃え出した。燃えている小枝の上に薪を重ねて置く。

「やっと薪に火がつきましたね。グラグラ沸騰するまで焚いてください」

 その頃森田さんの奥さんはゴム手袋をはめ、台所で蒸しあがったコンニャク芋の皮をむいて、ぬるま湯を加えながらミキサーにかけていた。生のコンニャク芋一キログラムで二十個以上出来るという。

「ミキサーで潰したコンニャク芋はぬるま湯とよく混ぜ合わせて三十分ほどそのままにしておくのよ」

「固めるのには何を加えるの?」

「無水炭酸ナトリュウムを入れるの。熱湯で溶いてよくかき混ぜながら入れて十分ほど置いて、直径七センチほどに丸めて熱湯で煮ると出来上がりですよ」

 説明を聞きながら森田さんの奥さんは潰したコンニャク芋を、ゴム手袋をはめてぬるま湯とよくかき混ぜた。奥さんがコンニャクを丸め、ご主人が釜焚きをして出来上がったコンニャク玉二十三個はまさに夫婦合作の代物である。

「この刺身コンニャクはシコシコして歯ざわりがよく美味いですなあ」

「一杯飲めたらもっといいのですが、今日は車でお帰りですから飲めませんので持って帰って一杯やって下さい」

「有り難う。今晩が楽しみです」

 午後から森田さん親子は北川さんの勧めで、三キロほど北にある満奇洞の見物をして帰途につくと言って洗心亭を後にした。


「北川さん、農泊第一号はうまくいきましたか?」

「一泊二日でしたから十分満足してもらえたかどうか」

「利用者が増えるといいですね。都会の人たちがリフレッシュして帰っていくのはいいことですから」

「まあ余りあくせくせずにのんびりとやることにしますよ」

「ピオーネの作業もあるからそういうことですね」

「無理をせず受け入れることが出来る範囲でやるつもりです。まあ自然体で気楽にやりますよ」

 あくる日の朝ブドウ園に向かう道の途中で出会った北川さんは、そう言いながら奥さんの和美さんと畑に出かけて行った。 

                                       終わり                            


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