遠い星から
午前六時、まだカーテンを開けるには少し早い空の色を眺めながら、僕は冷蔵庫の奥に残っていた牛乳をコップに注いだ。賞味期限が昨日だったことに気づいたけれど、匂いを嗅いでみると特に変なところもなかったので、そのまま飲むことにした。
窓の外では新聞配達のバイクがいつもの角を曲がり、隣の家では誰かが洗濯機を回し始めていて、世界は昨日とほとんど変わらない朝を迎えていたけれど、郵便受けの中に見慣れない封筒が一つ入っていたことで、僕の一日は少しだけ違うものになった。
差出人の名前は、君だった。
僕は玄関の前に立ったまま、その封筒をひっくり返したり、窓から差し込む朝の光に透かしてみたりしていたけれど、切手の代わりに見たことのない記号が印刷されていることに気づいて、これはきっと君の悪ふざけなのだと思った。
君は昔から、僕が真面目に考えるほどくだらない嘘をつくのが好きだったし、突然変な手紙を送ってきては僕がどこまで信じるのかを面白がっていたから、今回もきっとそうなのだろうと思いながら、それでも僕は封筒を開けた。
中に入っていた紙には、見慣れた君の字で『元気?』とだけ書かれていて、その下には僕が最後に君を見た日のことが続いていた。
駅前のパン屋で買ったメロンパンが思ったより甘かったこと、帰り道に雨が降ってきたこと、僕が傘を持っていなくて、君が自分の傘を半分だけ僕の方へ寄せてくれたことまで、どうでもいいような出来事がいくつも書かれていて、僕はそれを読みながら、君はそんなことまで覚えていたのかと思った。
そして最後に、君はこう書いていた。
『今、地球から四十六光年くらい離れたところにいる』
「……は?」
思わず声が出た。
僕はもう一度その文章を読んだけれど、やっぱり同じことが書いてあったので、四十六光年という距離がどれくらい遠いのか考えてみた。電車では当然行けないし、新幹線でも無理で、飛行機なら途中で何回燃料を入れればいいのだろうと考えたところで、そもそも光年はそういう単位じゃないことに気づいた。
手紙には、君がいる惑星の名前も書かれていた。
地球の研究者たちはそこをK-46と呼んでいるらしく、君によれば、そこでは空が紫色に見える時間が長く、夜になると二つの月が地平線の向こうから現れ、遠くには三つの山が並んでいるらしい。海は地球より少し黒くて、雨は空から降ってくるのではなく地面からゆっくり浮かび上がることがあり、夜になると植物の葉が淡い光を放つため、街灯がなくても道を歩ける場所があるという。
僕はそこまで読んで、すごいなと思った。
けれど、その直後に書かれていた、
『でも、コンビニはない』
という一文を見て、笑ってしまった。
四十六光年も離れた惑星の話をしているのに、君が一番困っているのがコンビニがないことなのは、いかにも君らしかった。
手紙の最後には、向こうでは一日が三十二時間あるから最初は眠るタイミングが分からなかったことや、地球にいた頃より朝が長く感じることが書かれていて、その最後に『そっちはどう?ちゃんと寝てる?』とあった。
僕は返事を書くことにした。
元気だと嘘をついた。
仕事は相変わらず忙しいし、朝は起きられないし、洗濯物は三日くらい干したままだし、冷蔵庫には賞味期限の切れた牛乳しかないけれど、それでもまあ、それなりにやっていると書いた。
それから、君がいなくなってから初めて買った花のことを書いた。
駅前の花屋で一番安かった花で、名前は知らなかったけれど、君なら多分知っていると思うから、今度教えてほしい。そう書いた。
手紙を封筒に入れてポストへ投函してから、四十六光年先にいる君へどうやって届くのかなんて僕には分からなかったけれど、それでも数週間後、郵便受けの中にはまた君からの手紙が入っていた。
『花の名前、調べたよ。多分マーガレット』
僕は玄関で笑った。
君は相変わらずだった。
それから僕たちは、手紙を送り合うようになった。
地球では桜が咲いたとか、君の惑星では夜になると地面が青く光るとか、僕は新しい仕事を始めたとか、君は向こうで植物を育て始めたとか、そういう話を毎週のように書いた。君の手紙には知らない星の話がたくさん書かれていたけれど、その途中には必ず、今日の昼ご飯がまずかったとか、同僚と喧嘩したとか、靴下を片方なくしたとか、地球にいた頃と変わらないくだらない話が混ざっていた。
ある日、君から一枚の写真が届いた。
写真には紫色の空が広がり、その向こうには二つの月が浮かんでいて、遠くには三つの山が重なるように並んでいた。写真の端には君の手が少しだけ写っていて、その裏側にはいつもの字で『綺麗でしょ』と書かれていた。
僕は写真を机の横に飾って、『綺麗だね』と返事を書いた。
それから少し考えて、『でも、君の写真の撮り方は昔から下手だ』と付け足した。
次に届いた手紙には、『うるさい』とだけ書いてあった。
そんなやり取りを、僕は気に入っていた。
宇宙のどこかに君がいるということが、僕には不思議なくらい心強かった。
地球では相変わらず面倒なことばかり起きたし、電車は遅れるし、仕事では怒られるし、スーパーでは卵が高いし、洗濯物を取り込もうとした日に限って雨が降ったけれど、それでも夜になれば僕はベランダへ出て、君のいる惑星があるはずの方向をなんとなく眺めるようになった。
四十六光年という距離は、僕にはまだ途方もなく遠かった。それでも、星の数が少し増えたように見えた。
ある夜、君からいつもとは違う手紙が届いた。
『たぶん、これが最後になる』
僕はその一行を読んだところで、しばらく手紙を机の上に置いたまま動けなかった。
続きを読むのが怖かったけれど、読まないわけにもいかなかったので、ゆっくり紙を開くと、君のいる惑星では最近になって巨大な嵐が観測されていて、その規模は惑星の一部を覆うほど大きく、研究者たちは住民を別の地域へ避難させようとしていることが書かれていた。
『大丈夫だと思う』
そう書いてあった。
君はいつも、こういうときだけ嘘が下手だった。
『もし戻れなかったら、地球のことを教えて』
その下には、たくさんの質問が並んでいた。
海はどんな匂いがするのか、雪は本当に冷たいのか、朝の電車はどのくらい混んでいるのか、コンビニのおにぎりなら何味が一番おいしいのか、夏の夜は虫がうるさいのか、そして桜は散ったあとどこへ行くのかと、まるで初めて地球へ来た人みたいな質問が、紙いっぱいに書かれていた。
僕はその一つ一つに、海は少ししょっぱい匂いがして、雪は手のひらに乗せるとすぐに消えてしまい、朝の電車ではみんな眠そうな顔をしていて、コンビニのおにぎりなら僕は鮭が一番好きで、夏の夜は眠れないくらい虫がうるさいけれど、それでも桜が散ったあとどこへ行くのかだけは今まで考えたことがなかったから答えられない、と書いた。
最後に、僕から一つだけ質問をした。
『そっちの空は、今も綺麗?』
返事は来なかった。
それから一年が経ち、僕はある日、君に教えてもらったマーガレットを花屋で買った。窓際に飾ったその花を眺めながら、夜になると僕はいつものようにベランダへ出て、君のいるはずのない空を見上げるようになった。
もちろん、どの星が君のいる惑星なのかなんて分からないし、四十六光年という距離が僕と君の間に本当にどれほどの時間を作っているのかも、結局よく分からなかった。
それでも毎晩、同じ方向を眺めた。
何かを待っていたわけではない。
ただ、君が最後に見ていた空と同じものを見たかった。
それだけだった。
ある朝、郵便受けを開けると、一枚の葉書が入っていた。封筒ではなく、宛名もなかった。
裏返してみると写真が一枚だけ印刷されていて、そこには紫色の空と二つの月、それから遠くに並んだ三つの山が写っていた。その下には、小さな文字で『こっちも見えてる』と書かれていた。
僕はしばらく、その葉書を持ったまま動けなかった。
四十六光年という距離を、光は四十六年かけて進む。
だから今、僕の手の中にあるこの写真は、君が四十六年前に見た景色なのかもしれないし、もしかしたら君がいなくなったあとに誰かが撮った写真なのかもしれない。
君が今どこにいるのかも、あの惑星がまだ存在しているのかも、もう何も分からない。
それでも僕は窓を開けた。
朝の空は少し白くて、夜の星はもうほとんど見えなかったけれど、ベランダに置いたマーガレットだけは昨日と変わらず風に揺れていた。
僕はその花を見ながら、なんとなく君に手紙を書き始めた。
『元気?』
最初の一行は、昔と同じだった。
それから、昨日スーパーで卵が安かったことや、近所に新しいパン屋ができたこと、最近は少しだけ早起きできるようになったことなど、宇宙の話とは何の関係もない地球で起きたどうでもいいことを、一つずつ書いていった。
最後に、
『そっちの空は、今も綺麗?』
と書いた。
僕は手紙を封筒に入れて、宛先の分からないままポストへ投函した。
届くかどうかなんて知らないし、もう二度と返事が来ないかもしれない。
それでも僕は空を見上げた。
見えないほど遠くにある星の光が、何十年も何百年もかけて僕のところまで届くのなら、言葉だっていつか届くかもしれないと思った。
だから僕は、君の知らない地球の話を今日も書く。
君がもういない星の話を、君が知らない未来の話を、君が一度も見たことのない朝の話を、届くまで何度でも書く。
だって宇宙は、僕たちが思っているよりずっと遅い。
だからきっと、さよならだけが先に届くとは限らない。
いつか何十年後か、僕がもう手紙を書けなくなった頃に、遠い惑星の誰かが古い郵便箱を開けて、地球という小さな星から届いた一枚の手紙を見つけるかもしれない。
そのとき、その人が夜空を見上げてくれたなら、僕はそれでいい。
僕たちが一度も同じ場所に立てなかったとしても、同じ時間を生きられなかったとしても、同じ星を見ることができなかったとしても、四十六光年という途方もない距離の途中で、一度くらい僕たちの光が交差していたのなら、それはたぶん、宇宙が僕たちにくれた小さな奇跡だったのだと思う。




