3.16 空振りホームラン
monogatary.com 2026年3月16日のお題『とどめのキック』について投稿したものです。
若杉が最近、妙に調子に乗っている。
理由は単純明快。
一世一代の勝負に勝ち、彼女ができたからや。
「いやぁ、タクヤ先輩。恋愛って結局、タイミングと『押し』なんすよ」
仕事終わりのいつもの立ち飲み屋。
若杉はビールを片手に、悟りを開いたような顔で語っていた。
「へぇ」
俺は枝豆を口に運びつつ、適当に相づちを打つ。
「要は覚悟っすね。俺、ついにその境地を掴んだんすよ」
隣で飲んでいたミサキが、堪らず吹き出した。
「何その、三流の恋愛セミナーみたいな言い草。昨日までのヘタレはどこ行ったん?」
「ヘタレじゃないっすよ。充電期間です。人間、行くときは行かなあかんのです」
若杉は真顔でジョッキを掲げる。
「ナミさんも結局、俺の強烈な押しに根負けしたってことっすよね。やっぱり女の人は、強引なくらいが……」
ミサキがピタッと止まった。
「……おい」
俺は小声で、若杉の脇腹を小突く。
「それ以上しゃべるな」
「え?」
そのとき、店の暖簾が静かに揺れた。
「お疲れさまー」
温度の低い、透き通った声。
ナミさんや。
「おー、ナミ! 来た来た」
ミサキが楽しそうに手を振る。
「今ちょうど、若杉先生による恋愛講座を聞いてたとこや」
「講座ちゃいますよ」
若杉は調子に乗ったまま、得意げに笑った。
「ただの成功者の経験談です。ナミさんも、最初はあんなにクールやったのに、結局は俺の直球に落ちましたもんね」
居酒屋の喧騒が、そこだけ真空になったように静まり返った。
ナミさんは静かに席に座り、ハイボールを一口、ゆっくりと喉に流し込んだ。
「若杉くん」
「はい?」
「それ」
ゆっくりグラスを置く。
「本気で言ってる?」
若杉の背筋がピンと伸びた。
「冗談半分ですけど……まあ、事実かなぁなんて」
「へぇ」
ナミさんは小さく頷いた。
怒っているわけではない、観察しているのだ。
「なるほど。じゃあ、今のうちに訂正しとくわ」
若杉が首をかしげる。
「訂正?」
「『押し』に負けたんじゃない」
ナミさんは、若杉の目を見つめたまま微笑んだ。
「単なる、様子見」
「え?」
「若杉くんをこのまま放置したら、どこまで調子に乗るか」
ミサキが机をたたいて爆笑し始めた。
俺はそっと目を逸らし、額を押さえる。
若杉だけが、石像のように固まっていた。
「で」
ナミさんが淡々と続ける。
「今日、わかった」
「な、なにが……何がわかったんすか」
「もう少し様子見る必要あった、っていう反省。ちょっと早めに拾いすぎたみたい」
若杉の顔から、急速に血の気が引いていく。
「え、ちょ、ナミさん! 拾うって……そんなゴミ捨て場みたいな言い方」
「大丈夫。まだ別れへんよ」
若杉がホッとする。
だが、次の瞬間。
ナミさんは首を少しだけ傾け、この世でいちばん静かな死刑宣告を口にした。
「でも、次その口から『落とした』なんて言葉が出たら。――文字通り、奈落へ落としてあげるから」
俺は笑いながら、若杉の背中を叩いた。
「若杉。今の、完璧なフィニッシュやな」
「……」
ミサキが涙を拭きながら追い打ちをかける。
「若杉さん。空振りホームランどころか、バットへし折られてんで」
ナミさんは涼しい顔で、氷をカランと鳴らした。
若杉だけが、春の大阪で一人、シベリアの寒波に沈んでいた。




