2.21 タイトルは未定
monogatary.com 2026年2月21日のお題『この話には続きがあって…』について投稿したものです。
佐藤、三十一歳。
中堅企業の経理課勤務。独身。
そして、未完の作家志望。
未完歴は、もう三年目に突入している。
ノートパソコンの画面には、途中まで書かれた原稿が表示されている。
タイトルは未定。
カーソルが、静かに点滅している。
――この話には続きがあって。
そこまで打ち込んで、指が止まった。
続きがあることはわかっている。
問題は、それがどこへ向かうのか、まだ決めきれていないことだ。
深く息を吐き、原稿をスクロールする。
書きかけの本文が現れる。
――――――
三月の雨の日。アスファルトが黒く光り、街の呼吸は浅かった。
男は交差点の真ん中に立っていた。
蛍光色のベストを着ているわけではない。
だが、彼の役目は混乱を整えることだった。
右折車は苛立ち、歩行者は躊躇し、クラクションは遠慮なく鳴る。
男は手を上げる。
止まれ。
進め。
だが、その日だけは違った。
彼自身が、どちらに合図を出せばいいのかわからなかった。
なぜなら――
――――――
そこで文章は途切れている。
「なぜなら、なんだ」
佐藤は呟く。
彼は、主人公に迷いを与えた。
だがその迷いの正体を、まだ書けていない。
Deleteキーに指が伸びかける。
いつもの癖だ。
迷ったら消す。
矛盾が出そうなら消す。
完成図が見えないなら消す。
調子がいい時に書いた自分も、だいたい消す。
だが今日は、キーを押さなかった。
代わりにスマートフォンが震えた。
画面には「タクヤ先輩」の文字。
《若杉がまた暴走してる。話聞いてやってくれへんか?》
《……また四十分ですか?》
《いや、今度は三時間コースや》
《若杉の奴、信号無視どころか料金所突破してますね》
《助けてくれ》
思わず小さく笑う。
現実の交通整理(タクヤ先輩)も、たまには赤信号を見失うらしい。
なら、僕の主人公が立ち往生しても、それは間違いじゃない。
暴走。
交通整理。
偶然だろうか。
いや、若杉が暴走するのは想定内だが、タイミングが出来すぎている。
佐藤はスマートフォンを机に置き、再び画面に向き直る。
自分が書こうとしているのは、迷わない男の物語ではない。
迷いながら、それでも立ち続ける男の物語だ。
もう一度、キーボードに指を置く。
――――――
なぜなら、彼は初めて、自分の足元の信号が壊れていることに気づいたからだ。
これまで彼は、誰かの合図を待っていた。
だが、この交差点には、そもそも信号などなかった。
決めるのは、自分しかいない。
――――――
打ち込んだ瞬間、胸の奥がわずかに軽くなる。
完璧ではない。
推敲すれば、粗は山ほど出るだろう。
それでも、消したい衝動は湧いてこない。
佐藤は背もたれにもたれ、天井を見上げる。
経理の仕事なら、答えは必ずある。
一円でもずれれば、原因はどこかにある。
だが、ここには最初から正解は用意されていない。
用意されていないからこそ、続きがある。
画面の最上段に戻る。
――この話には続きがあって。
その一文の下に、今は確かに文章が続いている。
画面の隅で、カーソルが静かに点滅している。
それは急かすでもなく、責めるでもなく、ただ次の言葉を待っていた。
佐藤は、そっと「保存」をクリックした。
完成ではない。
だが、未完のままでもいい。
続きがある限り、終わりはまだ来ない。
この不確かな人生と、よく似ている。
それだけで、今は十分だった。




