2.20 何度でも
monogatary.com 2026年2月20日のお題『筆が進まない日の雑談記』について投稿したものです。
佐藤、三十一歳。
中堅企業の経理課に勤務する、自他ともに認める独身貴族。
周りからは「歩く計算機」だの「鉄仮面」だの、堅物扱いされているが、それでいい。
感情を数字の裏に隠して生きる方が、自分的には呼吸がしやすい。
だが、僕には誰にも内緒にしている秘密がある。
――作家志望だ。
それも、流行りの異世界転生やネットのラノベではない。
いつかは文学賞の壇上に立つことを前提とした、本格推理作家をめざしている。
インプットにぬかりはない。
乱歩の怪奇、正史の血脈、清張の社会派。
和久俊三の法廷、赤川次郎の軽快さ、栗本薫のライト感。
横山秀夫の組織論から、最新の“このミス”受賞作まで。
僕の脳内書庫には、古今東西のトリックと動機が完璧にファイリングされている。
理屈の上では、もう書けるはずなのだ。
だが、筆が進まない。
構想は、「傑作」の予感がする。
人物プロットも履歴書が書けるほど緻密。
章立てのあらすじまでは、帳簿をつけるように順調だ。
なのに本文に踏み出した途端、思考が渋滞を起こす。
二ページ目で、一ページ目の矛盾が気になり、三ページ目で伏線の回収率を計算し始める。
五ページ目にもなれば、「この殺害動機、費用対効果が悪すぎないか?」と自分の中の経理課脳が冷ややかに突っ込んでくる。
そして十ページ目に届く前に、「Delete」キーを連打して、真っ白な画面に戻る。
経理の世界は、数字が合えばそれが正解だ。
一円の誤差も許されない代わりに、そこには必ず正解がある。
だが、小説には答えがない。
正解がないからこそ惹かれたはずなのに、今の僕はその自由さに怯えている。
――こんな時は、ヘッドフォンをする。
今日は、インストゥルメンタルを選んだ。
言葉を書こうとしているのに、言葉に邪魔されるのは本末転倒だ。
いつもなら三十分も没入すれば、執筆モードに入れる。
だが、今日はどうにも雑念がうるさい。
朴念仁の極みだと思っていたタクヤ先輩に、嵐のような彼女ができた。
あの人はずっと、他人のトラブルを交通整理するだけで人生を終える人だと思っていたのに。
同期の若杉も、最近は一人の女性に骨抜きにされている。
仕事中、あんなに頻繁に通知をチェックする若杉など、僕の知るプロットになかった。
翻って、僕は?
ヘッドフォン越しに、重い溜息が漏れる。
恋愛がしたいわけではない。
いや、したくないわけでもない。
ただ、物語を書き始める時と同じように、一歩目を踏み出す勇気がないだけだ。
年度末を控え、業務は多忙を極めている。
売り上げの数字は伸びているが、比例して僕らの残業代も、目の下のクマも増えていく。
経理が忙しい会社は健全なのか、それとも破滅への序曲なのか。
そんなことばかりが頭の中を駆け巡る。
――思考を、原稿用紙の海へ引き戻す。
人物プロットを緻密に設計しすぎたのかもしれない。
年齢も家族構成も、もっとあいまいでいいのかもしれない。
いっそのこと、登場人物全員に名前を与えない手法はどうだ。
それなら、口調だけで個性を書き分けなければならない。
茨の道だが、挑戦しがいはある。
現代日本を舞台にするのは古いか?
だが中世ヨーロッパに転生させたら、僕が守りたい「本格」の志が霧散する気がする。
主人公は、尖った特徴を持つべきか。
それとも、読者が自己投影できる「普通」であるべきか。
――普通。
はたして、僕は普通だろうか。
堅実で、安定志向で、一円のズレも許さない男。
物語の主人公にするには、あまりに地味で、あまりに臆病だ。
僕が迷っているから、登場人物たちも、指示待ちの部下のように動こうとしない。
筆が乗っている時は、キャストが勝手に動き、勝手に喋るはずなのに。
結局、僕の人生の迷いそのものが、筆を止めている。
そっとヘッドフォンを外し、冷蔵庫から冷えたビールを取り出す。
プシュッ、と弾ける音。
明日は一度、プロットを忘れて書いてみよう。
それでも書けないかもしれない。
そうしたら、また別の、無様な書き方を探せばいい。
経理とは違い、ここでは何度間違えても、何度書き直してもいいのだから。
諦めずに書いていれば進むことがあるかもしれない。
自分という名の、最大の難敵と戦ってみるしかない。
どうせこの物語に、あらかじめ用意された正解なんてものはないのだから……。




