2.9 錨を下ろす夜
monogatary.com 2026年2月9日のお題『彷徨い続けて30年』について投稿したものです。
若杉は、いつも笑っている。
その笑い方は軽くて、場に馴染みやすくて、どこか便利だった。
タクヤは、その様子を少し離れたところから見ている。
若杉より二つ年上なだけだが、自然とそういう立ち位置になっていた。
「タクヤ先輩、このあとどうします? もう一軒、いけます?」
若杉はグラスを揺らしながら言う。
声は明るい。断られても構わない、という余裕を含んだ誘い方だ。
「明日、仕事ちゃうんか」
「まあ、なんとかなりますって。どうせ一人ですし。家帰っても静かなだけっすから」
若杉はよく「どうせ」と言う。
タクヤはそれを、聞き流すふりがうまくなっていた。
――若杉は、ずっと身軽だ。
*
若杉が最初に暮らした家は、祖母の家だった。
本人はほとんど覚えていない。
生まれてすぐ、両親は海外へ行き、それが仕事なのだと聞かされていた。
祖母は優しく、生活に不自由はなかった。
ただ、そこは「自分の家」ではなかった。
「もうすぐ迎えに来るからね」
その言葉を何度も聞いた。
若杉は泣かなかった。
泣いても状況は変わらないし、何より「期待しすぎないこと」が自分を守る唯一の術だと、早い段階で知ってしまったからだ。
*
初めて両親と暮らしたのは、見知らぬ外国だった。
言葉も、匂いも、空気も違う。
家は整っていたが、会話は少なかった。
悪くはないが、どうにも落ち着かない。
しばらくして、日本へ戻った。
理由は詳しく説明されなかったし、若杉も聞かなかった。
聞いても、どうせ答えは濁される。
その後、母に連れられ再び海外へ。
父は来なかった。
やがて、両親は別れたが、大きな喧嘩の記憶はない。
ただ、生活のチャンネルが切り替わっただけだった。
*
日本に戻ると、母は忙しかった。
若杉は学童保育に通い、迎えはいつも遅かった。
「しっかりしてるね」
そう言われるたび、若杉は笑った。
それが正解だと分かっていた。
でも、心のどこかで
――しっかりしてるって、甘えなくていいって意味だよな
と思っていた。
*
中学は地元の全寮制。
高校は県外の全寮制。
環境が変わることには慣れていた。
自己紹介も、人との距離感も。
仲良くなりすぎない。
深く入りすぎない。
――どうせ、また離れる。
軽くしていれば、置いていかれるときに痛くない。
そうやって彼は、三十年かけて「どこにも根を張らない術」を身につけた。
*
大学から一人暮らし。
自由だった。
誰にも縛られない代わりに、誰にも待たれない。
だから、人に囲まれる生活を選んだ。
飲み会、軽い恋愛。
本気になる前に終わらせる。
「重いの、ちょっと苦手なんっすよね」
それは照れ隠しでもあったし、本音でもあった。
*
今でも、両親とはそれぞれに会っている。
嫌いではないが、頼らない。
愛がなかったわけじゃない。
ただ、いつも「途中」だっただけだ。
*
居酒屋で、若杉はいつもどおり場を回していた。
年下の後輩として、空気を壊さない絶妙な位置を選ぶ。
けれど今夜は、終電の時間が近づいても席を立たない。
「今日は、いつものチャラさが足りんな」
タクヤが水を向けると、若杉は一瞬だけ言葉を探すように天井を見た。
「……たまには、真面目な顔も見せとかないと、先輩に飽きられちゃいますから」
軽い口調だったが、目は笑っていなかった。
「三十越えたら、さすがに考えますよ。俺、ずっとこうやって浮き草みたいに生きていくのかなって。そろそろ、どこかに錨を下ろしてもいいかな、なんて」
若杉は笑った。
いつもの笑顔だったが、その瞳にはどこか覚悟のような色が混じっている。
「もう一杯だけ、付き合ってくださいよ」
追加の注文をする若杉の背中を見ながら、タクヤは思った。
――あいつが自分という地面を見つめなおすのは、たぶん初めてなのだ。
タクヤは何も言わず、届いた新しいグラスを自分のそれと軽く合わせた。
「何も起きない人生」を愛していたタクヤと、「何も持たない人生」を歩んできた若杉。
二人の夜は、少しだけ深いところへと潜っていった。




