2.8 考えないふり
monogatary.com 2026年2月8日のお題『本番前』について投稿したものです。
タクヤ、三十三歳。
大阪住みが十年を超えるのに、いまだに大阪弁が話せない。――ただいま絶賛練習中。
ひとり暮らしだが、この静けさも、近いうちに解消されるかもしれない。
いつもの喫茶店。約束の時間は、もう十五分過ぎている。
遅れてやってきたミサキは、相変わらず「待った?」と聞いてくる。
けれど、その表情にはこれっぽっちも「待たせた」という反省の色はない。
「いや……」
とだけ短く呟いて、俺は冷めきったコーヒーを飲み干した。
「すいませーん。コーヒー二つくださいな」
俺の返事も待たずに、ミサキが注文を通す。
――これも、いつもの風景だ。
「そろそろ、ツバサ君も勝負の時やなぁ」
いつものように、何の脈略もなくミサキが口を開いた。
「ツバサ君……。誰やったっけ?」
「ほら、深夜ラジオのネタ作りに人生賭けてた受験生がおったやん。覚えてへんの?」
「ああ、あの子か。名前、ツバサ君っていうんやな。今初めて知ったわ」
「せやったっけ? 来週が入学試験や言うてたわ。今日あたりは最後の追い込みちゃうかな」
「たしかに、電車の中でも単語帳広げてる子が増えたな」
「ツバサ君、今ごろ胃が痛くなってるんやろなぁ。タクヤの時はどうやった?」
「……昔のことは、もう覚えてへん」
「都合ええ頭やなぁ」
「……」
ミサキは窓の外を眺めながら、答えようのない問いを放つ。
「なんで、こんな寒い時期にせんといかんのやろな。風邪やら、インフルやらが流行る時期にせんかて、もっと桜が咲いてからにしたらええのに」
「そしたら、入学式に間に合わんやろ」
「せやなぁ」
ミサキは届いたばかりのコーヒーを一口飲むと、さらりと爆弾を投下した。
「温こぅなったら、和歌山にも行こうな!」
「また、飛んだな。そうやな。今の時期はまだ厳しいか?」
「行けんこともないけど、雪が降ったらなかなか溶けへんねん。ウチの実家、結構山の上にあるさかい」
「なら、三月になったら行く予定にしとこうか。……ご両親は、どんな方なん?」
「ウチのおとうちゃん、無口やで」
「……へぇ」
「あと、酒にはめっぽう強い」
「……へぇ」
「あと、何より『人を見る目』にだけは自信があるらしいわ」
俺は、静かに揺れるコーヒーの表面を見つめた。
「……それは先に言うといてほしかったわ」
ミサキが顔を上げ、含みのある笑みを浮かべてこちらを見ている。
「どうした? 何か面白いことでもあるんか?」
「いやな……。タクヤがウチのおとうちゃんの前で、どんな顔して話すんやろなぁって想像しただけや」
「別に、特別なことは言わんぞ」
「せやろな。タクヤはぶっつけ本番に強そうやし、心配してへんわ」
「……」
そんなわけあるかい!
想像しただけで心臓が口から飛び出しそうやから、なるべく考えんようにしとるだけや。
受験生を心配してる余裕なんて、今の俺には一ミリもあらへん。
俺は、思ったより熱いコーヒーを少しだけ啜って、まだ見ぬ和歌山の険しい山道を、心の中で登り始めた。




