8-1 裏通路
放課後の校舎は昼よりも音が少ない。
部活へ向かう足音が遠くで散って、廊下の真ん中に薄い静けさが残る。
静けさが広がると壁の中の音が戻ってくる。
音は昨夜の点呼の残響と同じ匂いをまとっている。
わたしは歩幅を一定に保った。
急がない。急げば呼吸が乱れて、呼気が言葉に変わる。
だからといって遅くもしない。遅すぎると静けさが濃くなって、残響に捕らわれる。
鞄の中で三枚の状態札が擦れた。
△、○、□。
形だけ。文字はない。
それでも指先がその角の感触を知っている。
『……おねえちゃん……
いく……?』
紗灯の声は小さく、でも逃げ道を塞ぐように確かだった。
声で答えない。
胸の奥で四つの丸を並べ直した。
読むな。
呼ぶな。
返すな。
終端を作れ。
その順番で息を一つ、深く吸って吐く。
吐く音は消す。舌を上顎につけたまま。
裏手へ向かう扉の前には、掲示が貼ってある。
立入禁止、だったはずだ。
読まない。
文字の輪郭だけを見て、視線を床へ落とす。
床は現実だ。
現実は怪異の外側だ。
扉を押す。
ゴムが床を擦る音が薄く鳴った。
その音に喉が一瞬だけ反応した。
……はい……
言っていない。
でも“言った形”が混ざる。
返事の残響が生活音に貼りつく。
(来てる)
扉を閉め、裏通路へ出た。
空気が違う。
校舎裏の空気は日陰の地面の匂いがする。
苔の匂い。湿った土。冷えたコンクリート。
遠くで鳴く鳥の声が逆に不自然に澄んで聞こえる。
鐘楼はすぐそこに見えた。
尖った屋根。
古い石の肌。
石の黒ずみが影のように張り付いている。
鐘楼裏へ続く通路は狭い。
狭い通路は声をより反響させる。
反響は回路を作る。
わたしは口を閉じたまま、足音だけを数える。
一、二、三。
角を曲がると空気がさらに冷えた。
冷えの中に紙の匂いが混じる。
匂いが濃い――ここに“文字の溜まり場”がある。
(名簿室)
“名”を保管する場所。
保管するということは、閉じ込めるということでもある。
閉じ込めるには容器が要る。
容器は怪異の喉に似る。
壁を見る。
石の目地。
目地の線は輪郭だ。
輪郭はこちらの刃になる。
鐘楼裏の扉は思ったより普通だった。
木製の扉。
金属の取っ手。
ただ、扉の周りだけ影が濃い。
でも、足元の影は薄い。
(無影域……)
踏めば落ちる。
落ちれば回路が開く。
喉が開けば名前が削れる。
扉の前で止まった。
止まった瞬間、背中に“見られている”気配が増す。
振り向けば呼応が成立する。
そして呼名が始まる。
振り向かない。
代わりに、鞄の中で状態札の角を触った。
□。停止。
指先が角を確かめるだけで喉が少し閉じる。
扉の取っ手に手を伸ばした、そのとき。
背後で靴音が一つ鳴った。
コツ。
近い。
逃げ道は狭い通路のみ。
通路は反響が強い。
息を止めず、ゆっくり吐く。
吐きながら、視線を床へ落とす準備をする。
背後の気配が声を作り始めた。
「……とう――」
呼名が始まった。
“途中”で終端を差し込め。
先生の言葉が冷たく胸の中に滑り込む。
振り向かない。
相手の口元を見ない。
見ただけで成立する。
足元の石畳の“欠け”を見る。
ここでの欠けは現実だ。
そして、鞄から状態札を一枚だけ抜いた。
文字はない。
形だけ。
□
停止。
札を床へ落とした。
落とす音は小さい。
小さい音ほど響く。
でもこれは返事じゃない。
返事の代わりに用意した終端だ。
背後の声がぴたりと止まった。
「……」
呼名が途中で切れた。
その瞬間、空気が一拍遅れて戻ってくる。
刻印がひやりと冷えた。
【終端:成功(停止)】
・呼名(途中)→遮断
・返事発生:なし
・影落ち進行:抑制(微)
(効いた……)
わたしはそこで初めて、背後を“見ない範囲”で確認した。
肩越しにではなく、壁の影の揺れで。
そこに立っていたのは、誰かのシルエットだった。
制服の輪郭。
だが顔が――ない。
顔の輪郭が定まっていない。
名を失った者の輪郭。
それが笑った気配がした。
声は出ない。
でも笑った“圧”だけが廊下の空気を押す。
……へんじ……
壁の内側から薄く音が滲む。
返事を要求する圧。
返事はしない。
そのまま、床の□札を靴先で踏まないように避け、扉の取っ手に手をかけた。
取っ手は冷たい。
その感触が、原初札のものに似ている。
(罠がある)
扉を開ければ文字が来る。
呼名が来る。
返事がしたくなる。
胸の中で次の札の形を思い出す。
○。完了。
呼名を終わらせるのではなく、こちらが先に“終わり”を返す。
扉を開けた。
中は暗い。
紙だけが白く浮いている。
棚が並び、束ねられた名簿が積み上がっている。
紙の端が呼吸しているみたいに微かに揺れる。
名簿室そのものが怪異だ。
喉の奥に乾いた針が迫った。
返事を作りたがる。
声を出したがる。
自分の名を確認したがる。
(だめ。読むな。呼ぶな。返すな)
わたしは視線を床へ落とし、棚の脚だけを見る。
背後のシルエットが扉の外で動いた気配がした。
中へ入ってくるつもりなのか。
どちらか分からないほど恐怖が増す。
鞄から二枚目の札を抜いた。
△。拒否。
呼名の入口を拒む。
そして、扉の内側――鍵穴の近くに△札をそっと掛けた。
貼り付ける、固定、つまり確定を避ける。
札の角を木のささくれに引っ掛けるだけ。
札が吸い付くように留まった。
【遮断:成功(拒否)】
・入口(扉)→呼名誘導の抑制
・混入(返事残響)→弱体化
一歩、名簿室の中へ入った。
その瞬間、棚の間から無数の声が同時に息を吸った気がした。
呼名の準備。
返事の準備。
交換の準備。
声を抑えたまま、○札を指先で触る。
完了。
終端。
ここで終わらせる。
しかし――名簿室の奥、棚の影の中で紙が擦れる音がした。
誰かがいる。
誰かが“読む”音。
視界の端に白いものが揺れた。
人の形。
制服の形。
けれど、顔の輪郭が薄い。
あの部屋にいた子――ではない。
もっと深い欠落。
もっと長い時間、削られ続けてきた輪郭。
その者が口を開いた。
「……とうこ……」
呼名が名簿室の中心から響いた。
逃げ場がないほど、綺麗な発音。
綺麗すぎる偽物だ。
喉が反射で返事を作りかける。
(終端)
視線を床へ落とし、○札を床へ落とした。
落とす音は小さい。
でもこの部屋では小さい音が世界を切る。
○が床に落ちた瞬間、呼名が一拍だけ遅れた。
遅れた“間”で、わたしの影が増える。
二つ。
三つ。
刻印が氷みたいに冷えた。
【危険】影三重化(名簿室)
【対抗】終端(完了)を重ねる
息を吸い、吐く。
声を出さずに吐く。
吐ききった瞬間、胸の中で宣言する。
(完了。終わり。ここで終わり)
宣言は声にしない。
でも宣言は燃料にもなる。
宣言を“形”へ落とす。
○札の上に、□札を重ねて落とした。
完了の上に停止。
終端の二重。
名簿室の空気が、ぎし、と鳴った。
紙が一斉に揺れ、棚の奥の白が波打つ。
呼名の声が途切れた。
「……と、う……」
途中で切れた。
途中で終わった。
喉の奥の針が少しだけ折れる。
【終端:成功(完了+停止)】
・呼名(中心)→遮断
・返事発生:なし
・影落ち進行:抑制(中)
息を吐き、札を踏まないように足を置いた。
棚の間を現実の縁だけで進む。
紙の端を見ない。文字を見ない。
ただ、奥にある“保管箱”の影を見る。
そして――そこに、あった。
木箱。
古い札が貼られている。
札の文字は欠けている。
読めない。
なのに、喉が読もうとする。
読む代わりに、箱の留め具の形を見る。
留め具は円形。
円の中に切れ目。
終端の形をしている。
箱はすでにこちらの手順を待っている。
その背後で、さっきの欠落した輪郭がもう一度口を開こうとした気配がした。
振り向かない。
振り向かずに、最後の札――△を指先で握り直した。
拒否。
ここから先の呼名を拒む。
匂いが湿った紙の中で濃くなる。
わたしは木箱の留め具へ手を伸ばした。
その瞬間、名簿室の天井――鐘楼の内部から低い鐘の音が鳴った。
ゴォン……。
音が一度だけ鳴り、余韻が“はい”の形に変わりかける。
……はい……
返事の代わりに終端を作る。
掌の中の△札を木箱の上へ置いた。
拒否を置く。
拒否で穴を閉じる。
そして、箱の留め具を――ゆっくり外した。




