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7-3 前夜――鐘楼裏へ向かうための静かな準備

 夕方の光は校舎を優しく見せる。


 窓枠の影が長く伸びて廊下の角を丸くする。

 丸くなった角は恐怖を薄めてくれる――はずなのに、わたしにとっては逆だった。

 角が丸いほど、何かが滑り込んでくる余地に見える。


 日常の顔をした怪異は心の隙を好む。


 放課後の喧騒の中で自分の歩く音だけを数えた。

 一歩、二歩、三歩。

 声を出さずに数える。

 数は輪郭。輪郭は回路の外側。


 図書館へ向かう廊下には部活動のポスターが並んでいる。

 文字と写真の洪水。

 視界に入れない。

 見れば勝手に目が読む。


 階段の踊り場で昼間見た鐘楼の影を思い出しかけて、わたしは視線だけを落とした。

 影を思い出すだけでも導線は濃くなる。

 濃くなった導線上は黒幕に見つけられやすい。


(導線はもう見えてる。なら、これ以上好きにさせない)


 図書館のガラス扉を押す。

 開く音を立てないように、ゆっくり。

 それでも、ゴムが床を擦る小さな音が残る。


 その音に喉の奥が一瞬だけ反応した。


 ……へんじ……


 応じない。

 反応しないまま、入館カードを差し出す。

 声を使わない。


 司書の先生は昨日と同じ顔をしていた。

 なのに、目の奥が少し違う。

 疲れているのか、警戒しているのか。

 あるいは――知っている者の目。


「……来たね」


 言い方が妙に落ち着いていた。

 わたしが来ることを、予定に入れていたみたいに。


 返事をしない。

 メモ帳を開いて短く書く。


 ――「お願い」


 先生は苦笑した。


「言わなくていい。……言わない方がいい」


 その一言で背中が冷えた。

 言わない方がいい。

 つまり、ここでも言葉は餌になる。


 先生はカウンターの下から、薄い封筒を取り出した。

 白い封筒。

 触れたくない。

 夜見た紙に似ている。


「これを渡す。……でもここで読まないで。廊下で開かない。自室でも鏡の前では開かないこと」


 注意が多い。それだけ危険だということだ。

 先生は何かを確信している。


 すぐには封筒を受け取らず、先ず手を止めた。

 受け取ることは確定している。

 でもその”確定”すら怪異は好む。


 先生はわたしの躊躇を読み取ったように、封筒を机の上に置いた。

 置かれた封筒が机に影を落とす。

 落とした影の輪郭が少しだけ揺れる。


「……受け取った、拾った、あるいは持っていった、でも大丈夫。あなたが“所持”として覚えないように」


 背がひやりとした。

 所持として覚えない。

 記憶の確定すら危ない、ということだ。


 わたしは封筒の上に指先を置かず、代わりに封筒の角に自分のメモ帳の角を当てて、そっと滑らせるように鞄へ入れた。

 直接触れない。

 境界を挟む。

 境界があれば、怪異は少しだけ遠のく。


『……おねえちゃん……

 せんせい……しってる……』


 紗灯の声が影の底で囁いた。


(知ってる。でも味方とは限らない)


 味方かどうかは分からない。

 分からないから、手順だけを使わせてもらう。

 感情で判断すると喉が開く。


 先生は言った。


「地下の保管庫は使わなくていい。あなたには“要点”だけ渡す。……それで十分、危険だからね」


 わたしはメモ帳に丸を描いた。

 了承の形。


 先生はさらに低い声で続ける。


「“読まない手順”っていうのは、実はただ”読まない”だけの方法じゃない。……読む前に、終わらせる手順のこと」


 読む前に終わらせる。

 終端。

 胸の奥の四つの丸がわずかに擦れる。


 先生はカウンターの端に、紙を一枚置いた。

 コピー用紙のように薄い紙。

 でも重い。


「これも……見ないでいい。覚えないでいい。必要になるのは“形”だけ」


 先生は紙に文字ではなく、図形を描いていく。

 丸。線。切れ目。

 わたしがメモ帳に描いたのと似ている。

 それが怖い。

 似ているほど、ここに来る道筋が最初から敷かれていた気がする。


 先生は丸を三つ描き、一本の線で繋いで、最後に線を断ち切った。

 そして断ち切った先に、小さな四角を描いた。


「この四角が“状態札”。……名を閉じるんじゃない。返事を閉じる」


 返事を閉じる。

 喉の奥に刺さった針が少しだけ納得の形に変わる。


 先生は声を落とす。


「名簿室は呼名が成立した瞬間に負ける場所。……あなたが返事をしなくても、相手が“あなたの名”を呼び終えた時点で、回路が通る」


 背筋が冷たくなる。


(返事をしなくても……呼名が成立しただけで奪われる?)


 先生は頷く代わりに指先で紙の線を軽く叩いた。

 叩く音は小さい。

 それが図書館ではよく響く。


「だから、呼名の“途中”で終端を差し込む。終端は言葉じゃなく、状態。……相手が呼び終える前に、あなたが“終わり”を返す」


 ”終わり”を返す。

 返す、という単語が喉を撫でる。

 わたしは心の中でツッコむ。


(返事するなって言ったのに、“終わり”は返せって、理不尽すぎるでしょ)


 理不尽だけど理屈は通っている。

 “返事”を返さない。

 代わりに“終端”を返す。

 往復を成立させないための、片道の刃。


 先生はさらに言った。


「終端は三種類。状況に合わせる」


 紙に三つの四角を描いた。

 それぞれに、短い記号を付ける。


 △

 ○

 □


「△は“拒否”。○は“完了”。□は“停止”。……文字で書かない。形で返す」


 形で返す。

 わたしの手の中の世界は最初から形で作られていた。

 笑ってしまいそうになる。


 先生は最後に、目線の動きの図を描いた。

 矢印。

 矢印は導線。

 でもこれは黒幕の導線ではなく、こちらの導線だ。


「目を合わせない。鏡を見ない。……でも逃げる目線は逆に呼名を誘う。だから“切る”」


 切る。

 終端と同じ言葉。


「相手の口元を見て、呼名が始まったら、目線を“床”へ落として四角を出す。床は現実。現実はあなたを怪異の外に置く」


 わたしは頷かず、メモ帳に四角を描いた。

 □


 先生はそれを見て小さく息を吐いた。


「……分かった。あなた、もう半分できてる」


 その言い方に、胸が痛くなった。

 褒められているのに、まるで褒められている感じがしない。

 これが“できている”というのは、ここまで追い込まれたという意味でもあるから。


 先生は声をさらに低くした。


「今夜は動かないで。明日の放課後……鐘楼裏へは、ひとりで行かないこと。……あなたが“守った子”も巻き込めない」


 巻き込まない。

 それはわたしの中で、復讐よりも重い命令になりつつある。


『……おねえちゃん……

 ひとり……だめ……』


 紗灯の声が少しだけ強い。


(ひとりで行かない。でも誰を?)


 誰を連れていくか――それは、選択肢になる。

 選択肢はさらに分岐を生む。

 分岐は残酷な物語を伸ばす。

 今は、終わりへ向かうために一本道にしたい。それが最も残酷な結末を生むとしても。


 わたしは決める。

 連れていくのは“人”ではない。

 連れていくのは“手順”だ。


 先生がカウンター越しに封筒の存在を指で示した。

 わたしの鞄の中の封筒。

 中には状態札の“形”が入っているのだろう。


「それ、夜のうちに切り取って。……三枚。△○□。紙の質はなんでもいい。名は書かない。あなたの字で書かない。印刷でもいい」


 メモ帳に短く書いた。


 ――「了解」


 書いてからすぐに紙を閉じた。

 文字が増える。増えた文字は怪異を太らせる。


 先生は最後に、わたしの目を見ずに言った。


「あなたは……まだ“呼ばれている”。呼ばれている限り、あなたは器にされる。でも終端を作れれば、”呼ばれ方”が変わる。……それが唯一の勝ち方」


 勝ち方。

 胸の奥で復讐の熱が一瞬だけ動いた。

 熱は燃料だ。

 燃料は喉を開く。


 わたしはその熱を形に落とす。

 メモ帳に四角を一つだけ描く。


 □


 停止。

 熱も停止。

 返事も停止。


 図書館を出た。

 夕方の光がまぶしい。

 その分だけ影が濃くなる。


 校舎の裏手に回ると、鐘楼が見えた。

 昼に見た影より少しだけ近い。

 近くなるほど、輪郭が鋭く感じられる。


 鐘楼の影が地面に刺さっているように見える。

 刺さった影の先が裏通路へ伸びている。


(明日の放課後、鐘楼裏)


 寮へ戻る。

 戻る途中、足元の影が少しだけ軽くなった気がした。

 安心したわけじゃない。

 対抗手段が手の届く場所に来ただけだ。


 夜。

 自室の机。

 鏡を避け、窓を背にして座る。


 鞄から封筒を出し、机の中央に置く。

 直接触れない。

 メモ帳の角で封を引っ掛け、慎重に開ける。


 中には厚紙が三枚入っていた。

 白。

 ただの白じゃない。

 廊下の白に似た色。


 それぞれに黒い印刷で記号がある。


 △

 ○

 □


 文字はない。

 形だけ。


 三枚を手元に並べ、息を整える。

 紙の白さに反応しそうになる。

 反応はしない。

 そのまま形を握る。


『……おねえちゃん……

 あした……おわり……ちかい……』


 紗灯の声が少しだけ震えた。

 怖さだけじゃない。

 期待と恐怖が混ざった震え方。


 声を出さずに三枚の札をそっと重ねた。

 重ねると、紙の角が揃う。

 揃った輪郭は刃になる。


 机の上の明かりがふっと揺れた。

 電球のフィラメントが呼吸するみたいに。


 揺れの“間”でわたしの影が一瞬だけ増える。


 二つ。

 三つ。

 そして戻る。


 刻印が冷たく疼く。


【影落ち進行:前夜反応】

原因:終端札の準備/導線接近(鐘楼裏)


 目を閉じ、自分の名を握る。


(汐見、灯子)


 返事はしない。

 名も呼ばない。

 ただ、明日のために終端の形だけを指に覚えさせる。


 そのとき、遠くで校内放送がほんの一瞬だけ流れた。


「……とうこ……」


 机の上に札を伏せる。


 伏せた札の上に掌が影を落とす。

 その影が少しだけ濃くなった。


 夜は静かに深くなる。

 深くなるほど、怪異は近づく。


 でも今夜、わたしの手の中には、近づいたものを切るための“形”がある。


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