7-1 読まないための閲覧
朝は夜の後始末みたいにやってくる。
カーテンの隙間から差し込む光が部屋を浮かび上がらせる。
光に舞う埃は昨夜の湿気をなくしてくれるはずなのに――喉の奥にはまだ針が残っていた。
……へんじ……
耳に聞こえたのではない。
そう感じるだけ。
その曖昧さがいちばん厄介だ。
机の上には昨夜見つけた紙片が伏せて置かれている。
熱感紙の触感。薄い印字。
そして端に残った手書きの一文字――「簿」。
わたしは紙を裏返したまま、そっと引き出しにしまった。
読みたくなる形ほど危険だ。
読めば名前が削れる。
制服に着替える。
鏡は見ない。
鏡は夜の名残を映しやすい。
靴下を履くとき、足元の影が少しだけ重なった。
『……おねえちゃん……
きょう……ほん……』
紗灯の声が眠りの底から上がってくるように小さかった。
それが胸の奥を締め付ける。
「……うん。図書館ね」
声にしてしまったことに気づき、すぐに唇を結んだ。
朝は油断して声が漏れる。
油断した声ほど怪異の餌になる。
寮の廊下へ出ると、夜の空白が薄れている。
人の気配。洗面所の水音。遠くの笑い声。
日常が戻るほど、怪異は薄く混ざっていく。
昨夜の異変は壁の内側で死んだわけじゃない。
ただ朝の雑音に紛れて見えにくくなっただけだ。
(見えにくいものほど足を掬う)
わたしは息を整え、校舎へ向かった。
図書館のある棟へ近づくにつれ空気が変わる。
匂いが変わる。
紙の匂い。糊の匂い。古い木の匂い。
文字の匂い。
図書館の入口のガラス扉は朝の光を映して白い。
でも奥は暗い。
棚の背表紙だけが整然と並ぶ。
わたしはその整然さに、昨夜の「名簿」の輪郭を重ねてしまいそうになった。
(だめ。連想も燃料になる)
入口のカウンターには司書の先生がいる。
にこやかな日常の顔。
でも、ここは日常の顔で“返事”を要求してくる場所でもある。
「おはよう。入館カード出してね」
わたしは頷かず、カードを差し出す。
声は使わない。
朝の挨拶は夜の返事よりも軽く出やすい。
先生がカードを受け取って確認し、返す。
「今日は自習? それとも調べもの?」
質問。
返事を要求する形。
(答え方を間違えるな)
口を開かず、あらかじめ書いておいた小さなメモを差し出した。
朝のうちに作った輪郭だけの紙。
そこには短くこう書いてある。
――「調査」
名じゃない。
本のタイトルでもない。
ただの状態。
先生は少し驚いた顔をしたけれど、すぐに笑った。
「分かった。静かにね」
また頷きそうになり、代わりに軽く頭を下げた。
館内へ入った瞬間、空気が一段冷える。
図書館は音が少ない。
薄い音の世界は微細な音が大きくなる。
ページをめくる音。
椅子を引く音。
ペン先が紙を擦る音。
そのすべてが“返事”になり得る。
棚の間を歩きながら胸の奥で推理スロットを起動した。
【共通章:図書館(禁書)】
目的:読まない手順の入手(名簿室侵入の前提)
危険:文字/音/視線が“呼名”に変換される
ルール:
・背表紙を声に出して読まない
・タイトルを心の中で反復しない
・指で文字をなぞらない
・返事をしない(はい/うん/え?)
禁書保管は地下――という噂がある。
でも噂を辿るのは危険だ。
噂は勝手に口に上る。
正面から「禁書」は探さない。
代わりに「保管規則」を探す。
図書館には貸出規則や閲覧規則が掲示されている。
規則は文字だけど、“感情”が入らない。
つまり燃料になりにくい。
掲示板の前に立ち、視線だけで文章を追った。
追うだけ。
指ではなぞらない。
口の中で復唱もしない。
すると、目の端に小さな条文が引っかかった。
――「閲覧禁止資料:特別保管(職員立会)」
その下に番号がある。
番号は輪郭だ。
輪郭は導線になる。
(特別保管。職員立会。――つまり、先生を動かす必要がある)
先生を動かす。
動かすには理由が要る。
理由を言葉にする必要がある。
(“調査”で押し切る)
カウンターへ戻る。
歩く音を小さくする。
床を踏む位置を選ぶ。
足音が反響しないように。
先生は顔を上げる。
「どうしたの?」
わたしは紙をもう一枚出した。
短く、こう書く。
――「特別保管 閲覧」
先生が紙を受け取り、眉をひそめる。
「……あなた、何を調べてるの?」
質問。
返事の罠。
対象を言わせたい。
言った瞬間、文字が怪異になる。
わたしは一拍置き、胸の奥で名を握る。
(汐見、灯子)
そして、紙にペンを走らせた。
――「学院史」
それは嘘じゃない。
学院の“名前”を扱う場所があるなら、学院史の資料に必ず触れている。
しかも「学院史」は日常のカテゴリに寄っている。
怪異の単語より安全だ。
先生は少し迷い、頷きかけて止めた。
代わりに静かに言った。
「分かった。立会が必要だから、少し待って」
わたしは声を出さずに頭を下げる。
待つ時間が怖い。
図書館の待ち時間は文字が勝手に増殖する。
椅子に座らず壁際に立った。
椅子を引く音が返事になるから。
そして、視線を一点に固定しない。
固定は呼名を成立させる。
しばらくして、先生が戻ってきた。
鍵束を手にしている。
鍵の金属音が鳴るたび、喉の奥が乾く。
「ついてきて。地下の保管庫へ行くよ」
地下。
その単語が、昨夜のものと繋がりそうになる。
階段を降りると、空気が変わる。
温度が下がる。
紙の匂いが濃くなる。
そして、音がさらに薄くなる。
ここでは、呼吸音が一番大きい。
でも息は浅くしない。
浅い息は返事が漏れやすくなる。
長く吸って、長く吐く。
吐く音を消すように、舌を上顎につける。
先生が地下の扉に鍵を差し込んだ。
ガチャリ。
その音が妙に遅れて響いた。
遅れは怪異と繋がる兆候。
(ここも近い)
扉が開く。
中は書庫の匂いよりも“水”の匂いがした。
湿った紙の匂い。
先生が言う。
「特別保管の資料はここ。触る前に必ず言ってね」
言ってね――返事を要求する優しい命令。
胸がさっと冷える。
私は口を開かず、頷かず、代わりに指先でメモ帳を示した。
そこにもう一行用意する。
――「無言で可?」
先生は困ったように笑った。
「……なんでよ。あなた、声が出しにくいの?」
声が出しにくい。
それは真実だ。
でも真実を言うと燃料になる。
嘘をついても燃料になる。
だから“状態”だけを返す。
メモに短く書く。
――「喉 不調」
先生はそれ以上深く追及しなかった。
ここは学院だ。事情を抱えた子は珍しくない。
先生は鍵束をしまい、言った。
「分かった。じゃあ、私が必要なページを開くから、目で追って」
その一言に背筋がぞくりとした。
(先生も知ってる)
怪異の仕組みを、完全にではないにせよ知っている。
学院はずっと以前から怪異の“喉”だったのだ。
先生が棚の奥から、布で包まれた一冊を取り出した。
厚い。黒い表紙。背に金の箔押し――でも箔は剥げている。
欠落しかけている文字と同じ感じがする。
先生は机にそれを置き、布をほどいた。
「……これ。学院史の補遺。一般生徒は普通触れないんだけどね」
わたしは目を伏せ、ただ、表紙の中心にある印だけを見る。
円。
その中に細い線がいくつも走っている。
まるで、喉の中の細かい血管みたいに。
先生がページを開く。
その瞬間、紙の擦れる音が地下の空気を一度だけ震わせた。
震えた間だけ影が増えた気がした。
刻印が冷たく疼く。
【警告】文字接触域(地下保管庫)
【注意】呼名誘導:強
先生が言う。
「ここから先は見たものを“口にしない”こと。――絶対に」
心の中で短く答える。
(口にしない。返事もしない)
先生があるページで手を止めた。
そして、指先で文字ではなく、余白を示した。
「これ、読める?」
読める?
問いかけ。返事の罠。
声を出さず、紙に書く。
――「見える」
先生は小さく息を吐き、余白の端を指で押さえた。
そこには細い筆跡で図が描かれていた。
“名を保管する場所”
“名を読ませる穴”
“呼名の終端”
文字は読まない。
でも図の“形”は理解できる。
形は輪郭。輪郭は救いにも刃にもなる。
先生が囁くように言った。
「鐘楼の裏……行くつもり?」
鐘楼。
その単語が昨夜の導線と合致する。
喉が乾く。
返事はしない。
代わりに、机の上のメモ帳に丸を一つ描いた。
先生はそれで十分だと判断したらしく、視線を落としたまま続けた。
「じゃあ、“手順”が必要。名簿室は言葉にした瞬間に終わる」
胸がざわつく。
ようやく言葉として仕様が出た。
先生は禁書の余白を挟むようにして示した。
そこには短い手順が並んでいる。
“読むな”
“呼ぶな”
“返すな”
そして最後に――
“終端を作れ”
その四つを頭の中で復唱しないようにしながら、胸の奥に沈めた。
それからメモ帳に四つの図を描いた。丸で構成した文字に似た図。
読むな。
呼ぶな。
返すな。
終端。
丸はただの集合体であって文字や返事じゃない。
先生が言った。
「ここまで。……これ以上はあなたの中に“言葉”が増える。増えた言葉は、あなたを媒介にする」
わたしは声を出さずに頭を下げた。
禁書が閉じられる。
布がかけられる。
鍵が回される。
ガチャリ。
その音が地下の空気を切った。
その奥で、誰かが笑った気がした。
どこか期待を含んだ笑い。
階段を上がる。
朝の光が近づく。
喉に刺さった針は薄くなる――はずだった。
でも、入口のガラス扉が見えた瞬間、不意に流れた校内放送が擦れた。
「……放送委員より……」
その後に昨夜の「はい」が一瞬だけ混ざる。
……はい……
歩みは止めない。
返事をしない。
ただ自分の名を握る。
(汐見、灯子)
そして、胸の奥にひとつだけ確かな輪郭が残った。
――鐘楼裏。名簿室。
――読むな。呼ぶな。返すな。終端を作れ。
それだけを携えて、わたしは日常の朝へ戻っていった。




