6-9B 薄い名の部屋――“返事”をせず、輪郭を縫い止める
廊下の奥へ進むほど音が減っていく。
点呼が終わった直後の夜の寮は、誰かの生活音で満ちているはずなのに、いまは逆に空っぽに近かった。
空っぽの廊下は音を吸う。吸った音が別の形で吐き出される。
吐き出される音――返事として。
……はい……
さっきまでホールに残っていた残響が壁の内側を移動している気配がする。
耳で追えないのに喉の奥で分かる。
理解不能なのに、分かってしまう。
隣を歩く彼女は裁縫袋を胸に抱えている。
抱え方がどこか固い。固く、息が浅い。浅い息は返事が漏れやすい。
わたしは声をかけない。
声をかけることは”問い”になる。
問いは返事を作る。
返事を作れば”喉”に燃料を投げることになる。
だから、わたしは歩幅をわずかに落として、彼女の半歩前に出た。
「守る」選択は行動で示す。言葉でやると全部燃料になるから。
『……おねえちゃん……
ここ……くうき……かたい……』
紗灯の声が足元の影から震えた。
震えは恐怖じゃなく、現実に繋ぎ留める”糸”の不足が原因。そして縫い目の不足。
わたしは影を踏まないように床の板目を選んで歩く。
角を曲がった先、突き当たりに近い廊下は蛍光灯が一本だけ切れていた。
暗い。
暗いのに、壁の白が浮く。
浮く白は削れた輪郭の白だ。
そして、問題の扉が見えた。
扉の上にあるはずの部屋札の文字が半分だけ薄い。
文字が追えるのに読めない。
読めないのに、勝手に喉が読みたがる。
(読むな。読みたがるな)
視線を逸らし、代わりに扉の“縁”を見る。
縁は現実。縁は境界。
現実にある境界は糸で縫える。
扉の横の名札――寮生の名前が書かれる小さなプレートはもっとひどかった。
文字の端が鉛筆を消しゴムで擦ったみたいに薄れている。
最初の一文字だけが残って、残りが欠けている。
残っている一文字が逆に不自然に濃い。
彼女の指がその名札に伸びかけて止まった。
触れたら欠落が“確定”する。
確定した文字の輪郭は黒幕にとっても掴みやすい。
わたしは首を振らず、手のひらを向けて「触らない」の合図を出す。
彼女は一拍遅れてその合図を理解し、指を引っ込めた。
扉の前に立った瞬間、空気がさらに硬くなる。
遠くのスピーカーが一度だけ擦れた。
「……放送委員より……」
日常のフレーズのはずなのに、語尾が擦れている。
その語尾が喉に触る。
「……とうこ……」
呼名。
呼名が寮の反響に乗る。
彼女の肩が跳ねた。
口が開きかける。
返事が出る前の空気の溜め。
(止めろ。返事を渡すな)
わたしは彼女の口元を無理に塞がない。
それは暴力となり、言葉より燃料になる。
代わりに、わたしは“息”を渡した。
彼女の横に立って、同じ速度で息を吸い、同じ速度で息を吐く。
呼吸を合わせる。
合わせることでタイミングをずらし、返事の入口を塞ぐ。
そして、ポケットの中で指を折った。
一本、二本、三本。
声を出さずに数える。
これはわたしの現実。
現実は怪異の外側。
彼女の口が閉じる。
返事が落ちずに済んだ。
『……おねえちゃん……
いま……あけると……“はい” って……でる……』
紗灯の声が針みたいに細くなる。
わたしは心の中で短くツッコむ。
(そんな仕様、ほんとにクソゲーだよ……)
ツッコミは日常の輪郭。
輪郭がわたしの喉を閉める。
鍵穴を見る。
鍵穴は口に似ている。
口に似たものは、怪異の喉にされやすい。
鍵を回す前に、わたしは胸の奥でUIを起動した。
【救出手順:薄い名の部屋(守る優先)】
目的:欠落の進行を止め、輪郭を“部屋に固定”する
禁止:音声返事(はい/うん/え?)/呼名(名を呼ぶ)/目線固定(呼名成立)
手順:
1 入口(扉・鍵穴)を“境界化”(縁を強める)
2 室内の喉(スピーカー/通気口/鏡面)を“遮断”(一時)
3 対象の輪郭を“非名”で固定(位置・状態語)
4 返事の代替として“動作合図”を採用
わたしは鞄からメモ帳を一枚だけちぎった。
さっき”無事”は使い切った。
だから今度は別の輪郭を作る。
名は書かない。
名は餌。
餌は喉を開く。
書いたのは一文字。
”在”
在るの在。
返事じゃない。
でも存在の輪郭になる。
紙を折る。
折り目を深くする。
折り目は封。封は穴を潰す。
その折り紙を扉の“縁”――蝶番側へそっと付けた。
付けると言っても、テープで貼るのではない。
紙の角を木のささくれに引っ掛けるだけ。
余計な物は怪異の燃料になりやすい。
しかしすでにある物を活かした固定は正しい境界になる。
紙は吸い付くように留まった。
ただ、留まり方が少し歪だ。
(……この扉、もう“喉”の手前だ)
息を整えて鍵を回した。
カチ。
その小さな音が廊下の沈黙に刺さる。
その音がすぐに誰かの声の形になりかける。
……はい……
わたしは返さない。
返さないまま、扉を開けた。
部屋の中は暗い。
暗いのに、机の上の鏡だけが薄く光っている。
鏡面は”入口”になりやすい。
映り込みは呼名を成立させやすい。
わたしは鏡を見ない。
鏡に映った自分と目が合うのは最悪だ。
自分への呼名が成立した瞬間、返事はほぼ確定する。
室内の空気が冷たい。
冷たいのに湿っている。
湿りは”喉”の匂いを伴っている。
ベッドが二つ。
片方は整っている。
片方は――整いすぎている。
人が使っていた痕跡がまったくない。
(欠落が進んでる……生活の痕跡が消えていく)
彼女が一歩踏み出した瞬間、床が鳴った。
ぎし。
その直後、部屋の隅の換気口がかすかに擦れた。
……へんじ……
換気口は喉だ。
風の通り道は声の通り道になる。
わたしは即座に動いた。
鞄からハンカチを取り出し、換気口の前に“置く”。
塞ぐのではない。
遮る。
風を乱して声の形を崩す。
ハンカチがふわりと揺れ、換気口の擦れが一拍だけ弱まった。
次に、机の上の鏡に背を向けたまま、彼女へ手を差し出した。
手を取る合図。
声を使わない合図。
彼女は戸惑いながらも手を取った。
手が冷たい。
その冷たさがどこか現実を薄れさせる。
わたしは彼女の手のひらにあるヘアピンをそっと握らせた。
すでに返したヘアピン――それが彼女の掌にまだ残っている。
それをここで輪郭として使う。
名じゃなくて、現実の物。
物は返事を要求されない。
彼女の指がヘアピンを握り直した。
握り直す動作が存在の確認になる。
(いいね。返事じゃなくて動作で固定できてる)
わたしは床の上にもう一枚メモを置く。
書いてあるのは二文字だけ。
”ここ”
位置の輪郭。
名の代わりになる輪郭。
返事の代わりになる輪郭。
紙は床に落ちた瞬間、少しだけ沈む。
影に沈む感触。
部屋の空気が一拍だけ重くなった。
重くなるのは抵抗の証だ。抵抗は現実を生む。
わたしは心の中で推理スロットを回す。
いますべきは救出。そのための手順を導く。
カードを意識で並べる。
A:点呼残響(はい蓄積)(R)
B:薄い名札(欠落進行の兆候)(SR)
C:ヘアピン(旧校リンク物証)(R)
D:即席札『在』+『ここ』(N)
E:換気口(喉)遮断(N)
スロットが静かに回る。
【推理:結果】
・この部屋の喉は「換気口」+「鏡面」+「扉(鍵穴)」の三点
・欠落は“生活痕跡の消去”として進行中(寝具/筆跡/私物が薄れる)
・最優先は「返事の発生源」を減らすこと
→対象に質問しない/呼びかけない
→代替コミュニケーション=動作合図
・対象の輪郭固定は“非名”で可能
→位置/状態(在)/物
・暫定成功条件:欠落深度を“停止”に近づける(進行の鈍化)
わたしは彼女の肩を軽く二回、指で叩いた。
「大丈夫」の合図を音にならない形で。
彼女の瞳が揺れる。
泣きそうな揺れ。
彼女の口が開きかけた。
「……わ、た……」
(だめ)
素早く彼女の視線を床の”ここ”に落とさせるように、指先で紙を示した。
彼女は紙を見る。
紙を見るだけなら呼名が成立しない。
“名簿”を見るのとは違う。
これは輪郭札。喉の餌じゃない。
彼女は紙を見て口を閉じる。
そして、ヘアピンを握り直した。
握り直す、その動作の瞬間――
部屋札の文字がほんのわずかに戻った。
戻ったのは一画だけ。
一画だけなのに、また胸が痛くなる。
(戻る……戻るってことは、私の存在が削れてるってこと)
削れた輪郭の復元には、わたしの刻印を通してわたしの”存在”を消費する。
黒幕がまだ彼女の名を削り続けている証拠だ。
スピーカーがまた擦れた。
今度は廊下側。
寮の反響を通ってここへ届く。
「……とうこ……」
わたしの名。
喉が反射で開く。
(閉じろ)
胸の奥で名を握る。
(汐見、灯子)
握った瞬間、首元の刻印がひやりと冷えた。
視界にUIが浮かぶ。
【影落ち進行:上昇(軽〜中)】
原因:呼名混入(寮内反響)
対策:返事ゼロ維持/喉の入口遮断の継続
その下にもっと嫌な更新が出た。
【欠落深度:変動】
対象:薄い名の部屋の寮生
4.5 → 4.7(進行)
※固定に成功すれば 4.7 → 4.6 へ鈍化可能
数字が動く。
数字が動くということは、いまここで間に合う可能性が残っているということ。
鏡へ背を向けたまま机の引き出しを開けた。
彼女の許可は取らない。
引き出しの中に薄いメモ帳と、シャーペン。
消しゴム。
そして――細い糸。裁縫道具の替え。
(縫える)
糸を一本だけ取り、扉の蝶番側――さっき「在」の紙を引っ掛けた縁へ絡ませた。
結ばない。
結び目は“確定”を意味する。なかったはずの確定は怪異が入る隙を生む。
だから絡ませるだけ。曖昧な縁。
曖昧な縁は怪異には噛みにくい。
糸は木のささくれに引っ掛かって留まった。
その留まり方が、まるで“ここから先へ入るな”と言っているみたいだった。
わたしは床の”ここ”の紙の上に、さらに小さく一文字書いた。
”止”
止まれ。
進行を止めろ。
返事を止めろ。
書いた瞬間、部屋の湿り気が少し和らいだ。
ハンカチが換気口の前で揺れ、擦れる音が弱まる。
鏡面の光がわずかに鈍る。
扉の鍵穴がただの穴に戻る。
彼女が肩で息をしている。
息は浅いけど、さっきよりマシだ。
彼女はわたしを見た。
見たが、目を合わせすぎないように意識している。
この状況で彼女が“学習”した成果だ。
そして、声を出さずに唇だけで「ありがとう」と言った。
音にならない。
返事にならない。
それでも形はある。形も油断がならない。
わたしは念のためその“形”を目で流し、床の”止”に落とした。
形を紙に吸わせる。
紙は輪郭の受け皿。
受け皿に落ちた形はすぐに喉には行かない。
しばらくの沈黙。
沈黙さえ返事に変換される可能性がある。
でも、いまの沈黙には手順が絡んでいる。
返事とは別の意図のある沈黙。現実的な沈黙。
その沈黙の中、廊下のスピーカーがもう一度だけ擦れた。
「……もう一回……」
返事を引き出す誘導。
返事はしない。
しないまま、床の”止”を指で軽く押さえる。
現実に触れる。
喉の外側に触れる。
触れた瞬間、視界に更新が落ちた。
【欠落深度:鈍化】
4.7 → 4.6(暫定)
※維持条件:今夜、返事ゼロ/呼名回避/喉入口遮断
(……よし。止められる。完全じゃないけど、まだ続けられる)
わたしは彼女の裁縫袋を見て、指先で「持って」の合図をする。
彼女は頷きかけて止め、代わりに袋を抱え直した。
その動作が返事の代替になる。
わたしは最後に扉の縁の糸を軽く撫でた。
撫でた指にほんの少し湿り気が移る。
喉になりかけた痕。
まだ完全には死んでいない。
ただ、今夜は――縫い止めた。
わたしは声を出さずに、彼女の部屋の奥――ベッドの足元を指差す。
「ここから動かないで」の合図。
彼女はそれを理解し、布団の端を握りしめる。
握りしめる。行為としての意味は重い。
その現実の重さが欠落を押し返す。
部屋の外で白鷺が鳴いた。
細く長い声。
夜鳴きの声。
その声に寮の壁が一瞬だけ震えた。
わたしは震えを見なかったふりをして、胸の内で名を握る。
(汐見、灯子)
返事はしない。
言葉は増やさない。
彼女たちを守り続けるために、存在は残さないといけない。
だから今削れるものは自分の声しかない。
視界に控えめな通知が浮かぶ。
【暫定成功】
・薄い名の部屋:欠落進行 鈍化
・喉入口:換気口/鏡面/扉(縁) 一時遮断
・危険:寮内反響(点呼残響)は残留
【次の警告】
・深夜帯:寮内巡回/追加点検(返事誘発イベント)
・放送回路:再混入の可能性(弱→中)
わたしは彼女に背を向けない。
背を向ければ、また怪異が隙を見て入口を作る。
彼女を横にして退き、扉の外へ出る。
扉を閉める。
閉める音が返事にならないように、息を殺してじわじわと慎重に閉める。
扉はぎりぎり音を立てずに閉まった。
廊下へ出た瞬間、空気が少しだけ戻る。
戻ったが喉の奥の針は残っている。
……へんじ……
返事の代わりに掌の中で紙を折り直す。
折り目は封。
封は穴を潰す。
夜はまだ終わらない。
けれど――一つは切り抜けた。




