6-8B 点呼――返事の海、寮の夜鳴き
寮の廊下は昼間よりも音が増える。
人が減って静かになるはずなのに、逆だ。
静かになるほど微細な音が目立つ。
ドアの蝶番のわずかな軋み。スリッパが床を撫でる擦過音。換気扇の回転のムラ。
そして――誰かの喉が返事を作る前の空気の溜め。
わたしは廊下の明かりが落ちていくタイミングを見計らって、そっとドアを閉めた。
机の上に置いたヘアピンは、銀色の線として紙の白さの上に妙に際立っている。
ただの金属。
ただの落とし物。
そう言い聞かせるほど、指先の冷たさが増す。
(“置き土産”……)
息を整える。
返事をしない。
引き出しからさっき作ったメモ――折り目の入った小さな紙を出す。
そこに書いてあるのは二文字だけ。
”無事”
誰の無事かは書かない。
言葉にしない。
ただ、二文字を“楔”として喉の奥に打ち込む。
廊下側から軽いノックが来た。控えめで、日常の音。
「汐見さん、点呼、もうすぐだよ。……来れる?」
来れる?
質問。
質問は返事を要求する。
喉が反射で「はい」を作りかけた。
ここは日常の部屋。日常の返事が染み付いている。
(閉じろ)
わたしは口角だけを上げ、声の代わりに扉越しに“うん”と頷く――わけにもいかないか。
頷きも返事に換算されるかもしれない。
だから、わたしは“音のない肯定”を選んだ。
ドアをほんの一瞬だけ開けて、目を合わせずに指で親指を立てる。
日常の合図。言葉の外側。
「……了解。じゃ、廊下で」
扉が閉まる。
閉まった直後、喉の奥で薄い声が擦れた。
……へんじ……
聞こえたのではない。
聞いた“気がした”。
その曖昧さが最も危ない。
『……おねえちゃん……
きょう……“はい” いっぱい……』
紗灯の影がわたしの足元に重なった。
重なり方が、縫い止めるというより、踏み外さないように支える重なり方。
「……分かってる」
わたしは小さく呟いてしまい、すぐに舌を噛んだ。
(声にするな。声は燃料)
けれど、完全な沈黙も別の形で燃料になる。
そして答えないことへの罪悪感は重い。
重い感情は“交換”に向いている――透子の言葉が嫌な形で蘇る。
制服の上着を羽織り、ポケットにヘアピンを入れる。
入れた瞬間、金属が指先に触れた冷たさが、まるで“呼ぶ”みたいに一度だけ跳ねた。
(……次の導線)
廊下へ出た。
寮の夜は白い。
蛍光灯の白ではない。木造の壁が暗さの中で白く浮く。
白いのに、影が濃い。
その中に、時々“影が落ちない場所”がある。
その場所を踏まないように歩いた。
踏めば落ちる。落ちれば喉が開く。
廊下の突き当たりに点呼のための小さなホールがある。
共有の掲示板。消火器。時計。
いつもなら生活の象徴のはずのものが、今夜は全部“装置”に見える。
時計の秒針がやけに大きな音を立てている。
カチ。
カチ。
カチ。
(この音……回転の音に似てる)
スロットの回転音。
照明の明滅。
呼吸の周期。
わたしは胸の奥でUIを起動した。
【返事イベント:点呼】
目的:返事を最小化して点呼を終える
条件:
・「はい」を言わない(音声返事禁止)
・目を合わせすぎない(呼名成立を避ける)
・“名”を出さない(自他とも)
補助:即席メモ『無事』(一回だけ会話誘導を相殺)
ホールにはすでに数人の女子が集まっていた。
普通の子たち。
笑い声。
今日の出来事。
食堂のメニュー。
明日の小テスト。
ここにある日常は厚い。
厚いほど、怪異は薄くなって入り込む。
「汐見さん、今日も顔が強い」
またそれだ、と心の中でツッコむ。
口に出すと燃料になるから、心の中だけで。
(顔面武器扱い、もう定着しつつある……)
「顔が強いって褒め言葉なの?」
「褒めてる褒めてる。襲来しても勝てそう」
「襲来って何の?」
「え、怪異……?」
誰かが言いかけて、空気が一瞬だけ冷えた。
冗談のはずの単語に寮の壁が反応した気がした。
わたしは笑って流す。
「怪異はやめよ、怪異は。ここ、音が反響しやすいから」
言いながら内心で凍る。
“反響”。
放送回路。
拡声器。
(言葉選び、下手か)
紗灯の影が足元で「うん……」と小さく揺れた気がした。
それが慰めなのか、ツッコミなのかは分からない。
点呼の担当――寮の先輩が名簿を手に入ってくる。
紙の擦れる音。
その音が喉の奥に針を刺す。
わたしは視線を落とし、口を閉じる。
閉じた口の中で名を握る。
(汐見、灯子)
名を握るのは自分のため。
返事をしないため。
喉を閉じるため。
先輩が言った。
「じゃあ点呼いくね。返事は――……いつも通りで」
“いつも通り”が今夜は呪いだ。
先輩は名簿を開き一人ずつ呼ぶ。
呼ばれた子が「はい」と返す。
その「はい」がホールの天井に吸われて、壁に貼り付くみたいに残る。
刻印がひやりと冷えた。
【警告】返事蓄積:増加
【注意】放送回路(残留):寮内反響に接続可能
(まずい。返事が“溜まる”)
溜まる場所。
溜まる音。
溜まる言葉。
それらが行き着く先は”喉”だ。
順番が近づくにつれて喉の奥に“未救出の声”が混ざってくる。
……とう……こ……
遠いはずなのに内側で鳴る。
内側で鳴るほど返したくなる。
(返すな)
先輩の声がわたしに近づく。
「汐見――」
呼名が成立する瞬間、世界が一拍遅れる。
秒針がひとつ音を落とす。
わたしは声を出さない代わりに、事前に決めていた“合図”を出す。
指を一本立てて、軽く手を挙げる。
目は合わせない。
動作だけで“在籍”を示す。
先輩が一瞬だけ戸惑う。
「……え、返事は……」
その一言が追加の返事を要求する。
危ない。
わたしの喉が「はい」を作りかける。
その瞬間、ポケットの中の”無事”の紙が熱を持った。
胸の内でそれを“破る”イメージをする。
紙は現実。現実は楔。
楔を一本、代わりに差し出す。
【発動】即席メモ『無事』
→会話誘導(弱)を一回相殺
わたしは口を開かず、もう一度だけ、同じ合図を繰り返した。
指一本。小さく。
“ここ”にいる、という輪郭だけ。
先輩はなぜか納得したように頷いた。
「……うん、確認。次」
(通った……)
胸の奥で小さく息を吐く。
吐く息に音を乗せない。
音が乗ると返事になる。
しかし、返事の海はわたしだけで終わらない。
他の子の「はい」が積み重なり、ホールは確実に“喉”へ近づいていく。
最後の一人が呼ばれたとき、照明が一度だけ、ぱち、と明滅した。
呼吸みたいな明滅。
その明滅の“間”で、わたしの影が一瞬だけ増えた。
二つ。
三つ。
そして戻る。
刻印が冷たく疼く。
【影落ち進行:上昇(点呼反響)】
原因:返事蓄積/寮内反響(疑似拡声器)
先輩は気づかず名簿を閉じる。
「よし、点呼終わり。解散ね」
解散――人が散る。
散ると音が薄くなる。
薄くなると、怪異は濃くなる。
わたしはここで、最も怖いことに気づいた。
“喉”は点呼中に作られるのではなく――点呼が終わって静かになった後に完成する。
誰もいない廊下。
誰もいないホール。
返事だけが残る。
……はい……
……はい……
……はい……
残響が壁の中で腐っていくような感覚。
腐った残響が別の声を呼ぶ。
……とうこ……
わたしは足を止めず自室へ戻ろうとする。
戻ることが正解ではないと分かっていても、今夜は“守る”と決めた日だ。
廊下の曲がり角で、昼間にヘアピンに反応した子がひとり立っていた。
手に小さな裁縫袋。
「汐見さん……それ……」
言いかけた。
言いかけた瞬間、廊下の空気が細くなる。
(会話にするな)
わたしは笑顔を作る。
日常の皮を被せる。
被せるほど、内側が冷える。
「これ? 落とし物。……心当たりある?」
言ってしまった。
質問を作ってしまった。
相手が答えれば「はい」が出る。
「はい」が出れば”喉”が太る。
少女はわずかに口を開いた。
「……はい、わたしの――」
その「はい」が落ちた瞬間、廊下の奥の暗がりが、ぬるりと動いた気がした。
壁の影が喉の形を作る。
わたしは反射でヘアピンを少女の掌へ押し戻した。
乱暴にではない。
返事の前に終わらせる速度で。
「じゃあ返すね。……ごめん、今、ちょっと急いでるから」
少女は続きを言いかけて、飲み込んだ。
飲み込む沈黙が、今度は「はい」の代わりに残る。
沈黙も返事に換算される夜がある。
わたしは歯を食いしばる。
(最悪のタイミングで“はい”が増えた)
そして、廊下のスピーカー――校内放送の末端が一瞬だけ擦れた。
「……放送委員より……」
日常の文句のはずが、語尾だけが擦れて変わる。
「……とうこ……」
呼名。
呼名が寮の反響に乗った。
少女の瞳が揺れる。
揺れは恐怖じゃない。
返事をしたくなる衝動的な感情だ。
わたしは少女の口元に指を当てる――わけにはいかない。
それは暴力で、会話より燃料になる。
だから一歩だけ前へ出て、深く頭を下げた。
謝罪の形。
返事ではない形。
そして、心の中でだけ言う。
(守る。守る。守る)
紗灯の影がわたしの影に重なる。
『……おねえちゃん……
あのこ……
よばれやすい……』
頷かない。
頷きも返事になる。
代わりに、拳を軽く握って返す。
握るという現実で喉を閉じる。
少女は小さく息を吸い、声を出さずに唇だけで「ありがとう」と言った。
音にならない言葉。
それでも“形”がある。
形がある言葉は黒幕に拾われやすい。
廊下の暗がりが、もう一度ぬるりと動いた。
今度は確かに“喉”の入口だった。
わたしは少女の裁縫袋を見た。
白い樹脂の剥離――補修のための材料。
ヘアピンは彼女のものだ。
そして彼女は名簿の文字が薄かった部屋の住人だ。
(次の標的、確定)
視界にUIが浮かぶ。
【状況更新】
・点呼(返事増加イベント):完了
・寮内反響:喉化(進行)
・標的候補:薄い名の部屋(確定)
・取得:ヘアピン(返却済み)→持ち主特定(SR相当)
・影落ち進行:中(増加)
・警告:次の夜間イベントで“返事強制”が来る
わたしは少女に、声を出さずに「部屋まで一緒に行こう」の合図をした。
指先で廊下の先を示す。
少女は一拍遅れて頷きかけ、途中で止めた。
止めた自分に驚いた顔をする。
(学習してる。返事を抑え始めてる)
それが希望に見えた瞬間、希望が罠に変わる気配がした。
黒幕は希望を餌にする。
廊下のスピーカーがもう一度だけ擦れた。
「……もう一回……」
わたしは歩みを止めない。
返事をしない。
ただ、自分の名を握る。
(汐見、灯子)
そして少女の影が薄く震えるのを影の端で支えながら、二人で寮の奥へ進んだ。
夜は、まだ始まったばかりだった。




