6-7B ヘアピンの持ち主――“守る”ための名簿照合と、消えない喉の湿り
折り畳んだ媒介札が鞄の中でまだ微かに息をしている。
“封”の折り目は形を保っているのに、紙の繊維の隙間から冷気が滲む。
放送室の空気は、たしかに一度だけ“普通”へ戻った。
けれどその普通は古い病室の白さに似ている。――きれいで、痛い。
わたしの足元で紗灯の影が小さく震えた。
震えが「怖い」じゃなく「足りない」に寄っているのが分かる。
糸が足りない。縫い目が足りない。
だから、いま一番やっちゃいけないのは――“置いていく”ことだ。
わたしは床に落ちていたものを拾い、指先で挟んだ。
小さなヘアピン。薄い銀色。先端にだけ、剥げかけた樹脂の白。
見覚えのある形。見覚えのある“安っぽさ”。
あの学校で――紗灯の周りにいた子がつけていたものに似ている。
喉の奥がいやに乾く。
(結……?)
名前は出さない。出した瞬間、札が名札になる。名札は喉の餌になる。
でも、胸の内側でだけ氷みたいにその輪郭を握り直す。
そのとき、放送室の奥で――カタン、と金属が鳴った。
誰かが立ち去った音じゃない。
誰かがいなくなったあとに、世界が遅れて揺れた音。
わたしは息を詰めて、振り向かないまま出口へ向かった。
追わない。今日は“追わない”選択をした。
追わないことが、こんなにも響いてくるなんて知らなかった。
廊下へ出ると、夕方のざわめきが急に濃くなる。
制服の擦れる音。鞄のチャックを閉める音。階段を駆け降りる足音。
日常の音が厚いほど、怪異の音は薄くなる――薄くなって、日常に入り込む。
天井のスピーカーがいまにも言葉を吐きそうに沈黙している。
『……おねえちゃん……
もう、ここ……“のど”……』
紗灯の声は小さい。
小さいのに、鼓膜の内側に針みたいに刺さる。
(分かってる。だから“手順”で切る)
わたしは歩きながら、意識の隅でUIを起動した。
胸の奥に浮かぶ淡い光。現実に寄せるための、嘘みたいな画面。
【取得】
・ヘアピン:旧校規格(R)
属性:既視感/転入前リンク/“同じ白”
【状況更新】
・原初札:封(仮)継続(出力低下)
・放送回路:残留(弱)
・影落ち進行:微増(継続)
・一般生徒欠落:警戒(未解消)
最後の一行を見た瞬間、背中が冷える。
中心を割っても、欠落はまだ止まっていない。
黒幕は“代替”をやめない。そう書いてある。わたしの方が先に理解してしまう。
だから――守るには誰が狙われるかを先に掴む必要がある。
わたしは校舎の角を曲がり、ひと息に特別棟を離れた。
目的地は保健室じゃない。
保健室に運ぶのは“人”だ。
今わたしが抱えているのは“情報”と“燃料”。燃料を人の集まる場所に持ち込むのは最悪の手だ。
代わりに、わたしは寮へ向かった。
廊下の窓から見える中庭は夕日で薄い金色に濡れている。
綺麗だ。綺麗すぎて、嘘みたいだ。
嘘みたいな景色は怪異に似ている。
寮の玄関で同級生たちが笑いながら靴を脱いでいた。
普通の子たち。何も知らないふりが上手い子たち。
……わたしも、きっとその一人に見える。
「汐見さん、今日も顔が強いね」
「強いってなに、武器?」
「顔面が武器ってこと」
「じゃあ合法?」
「合法」
わたしは笑って軽く手を振った。
笑いの形は保ったまま、心の奥だけ冷たく締める。
ここで“怖い”感情を見せたら、黒幕にとって一番おいしい「返事」になる。
「……あ、これ、落とし物なんだけどさ」
わたしはヘアピンを掌に乗せて見せる。
あくまで日常のトーンで。
“うっかり拾った”くらいの顔で。
女の子たちの視線が一瞬だけ集まる。
そして、すぐに散る。
「え、可愛い。誰の?」
「知らない。けど、どっかで見た気がして」
「汐見さん、そういうとこ優しいね」
「うーん……拾わないと、あとで罪悪感に耐えかねて死ぬ」
「そこまで!?」
ツッコミが入って空気が一拍だけ軽くなる。
助かる。こういう軽さがないと、わたしは自分の影に飲まれる。
でも、軽さの奥で――一人だけ、指先が止まった子がいた。
止まったのは一瞬。
けれど“止まり方”が日常じゃない。
(……反応した)
わたしはその子の名前をまだ出さない。
代わりに、寮の掲示板へ視線を流した。
掲示板には、生活当番の紙、委員会の連絡、そして――寮生名簿の控え。
古い紙。新しい紙。いろんな紙が重なっている。
紙の匂いはいまのわたしにとって“薬”にも“毒”にもなる。
わたしは自然に歩き、掲示板の前で立ち止まった。
“名簿”という単語が喉の裏をひやりと撫でる。
(名簿は……危ない。けど、必要だ)
紗灯の影が足元で小さく首を振った気がした。
やめて、じゃない。
気をつけて、の動き。
わたしは呼吸を整え、推理スロットを起動する。
ここは戦闘じゃない。
日常の中で、日常として情報を抜く――そのための“推理”。
カードを並べる。
A:ヘアピン:旧校規格(R)
B:放送室中心“割り”の感触(SR相当:状態)
C:寮掲示板:名簿控え(N)
スロットが静かに回る。
回転音は耳じゃなく、喉の裏で鳴る。
喉が“答え”を欲しがっている。だけど欲しがるな。これは罠だ。
【推理:結果】
・ヘアピンは「落とし物」ではなく「置き土産」
・置いた者は“追わせたい”のではなく“守らせたい”
→守りの導線=寮/名簿/生活圏
・次の怪異は「放送」ではなく「生活音」へ偽装して侵入する
→寮内で“返事”が増える状況(点呼/当番/呼びかけ)に注意
・ヘアピンの持ち主は「旧校リンク」+「白い樹脂の剥離」
→購買部(小物)/手芸部(補修)/寮の共有裁縫箱に接続
胸の奥で嫌に納得してしまう。
追わせたいんじゃない。守らせたい。
守らせることで、返事を増やす。
返事が増えれば回路が太る。
つまり――わたしが“守る”ほど黒幕は楽になる。
(……でも、守る。今日は守ると決めた日だ)
わたしは名簿を指でなぞらない。
触れたら現実が繋がりすぎる。
代わりに、視線だけで読み取る。
二年生の欄。寮部屋割り。委員会。部活動。
そして、ある部屋の項目で視界が止まった。
――そこだけ、文字の端が薄い。
消えかけの鉛筆みたいに。
名が“薄い”。
『……おねえちゃん……
そのへや……いや……』
紗灯が震える。
震えは恐怖じゃない。糸が引っ張られる震えだ。
わたしは笑顔のまま、背筋だけを固くした。
周りの子には、ただの転入生の“掲示板チェック”に見えるように。
「汐見さん、当番表ガチで見るタイプなんだ」
「そう。わたし、当番さぼると夜に影が増えるタイプだから」
「こわっ」
「ホラーじゃん」
「うちの学院でホラーって」
「……っ」
……ここ、すでにホラーだよ?
最後の一言を言いかけて、飲み込む。
飲み込むだけで喉が少し痛む。
痛みは今も“喉”が生きている証拠。
わたしはヘアピンを制服のポケットにしまい、歩き出した。
目指すのは寮の共有裁縫箱――じゃない。
そこに行けば日常の返事が増える。黒幕が喜ぶ。
だから先に“防壁”を作る。
わたしは自室へ戻り、机の引き出しからメモ帳を一枚ちぎった。
ペンを握る。
名は書かない。返事も書かない。
書くのは、輪郭だけ。
――“無事”
たった二文字。
誰の無事かは書かない。
でも“無事”という言葉の形だけで、今夜のわたしの喉に楔を打つ。
紙を折る。折り目に指の熱を通す。
封じ札じゃない。
「返事をしない」ための小さな抵抗。
【作成】
・即席メモ『無事』(N)
効果:会話誘導(弱)を一回だけ相殺
窓の外で白鷺が鳴いた。
夜の前触れみたいに、細く長い声。
その声に――校内放送のスピーカーがほんの一拍だけ擦れた。
……へんじ……
わたしは返事をしない。
しないまま、胸の内側で名を握る。
(汐見、灯子)
そして、ポケットの中のヘアピンが指先に冷たく触れた。
(次は――寮の中だ)
視界に控えめな通知が浮かぶ。
【次の目的地】
・寮内:薄い名の部屋(名簿リンク)
・購買部(小物)/手芸部(補修)※日常偽装の“返事”に注意
・夜間:点呼(当番)=返事増加イベント(危険)
わたしは息を吸う。
夕方の匂いが夜の匂いに変わる境目。
紙と髪、古い木の匂い。
そして喉の裏に残る、湿った針。
(守る。守りながら、情報を抜く)
わたしは机の上にヘアピンをそっと置いた。
その銀色の線が、まるで次の導線みたいに細く光った。




