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6-10A2-1 (BADルート) 戻るための一歩

 放送室裏通路を抜けるころ、校舎の匂いが少しだけ濃くなった。


 差し込む日にきらきら舞う埃。

 人が行き交う廊下の靴底の摩擦。

 遠くの笑い声――“別世界”のまま、薄く響いている。


 戻っている。

 少なくとも身体は。


 けれど喉の奥にはまだ遠い声が残っていた。


 ……とう……こ……


 返事はしない。

 でも呼ばれ続けるだけで名は削れる。


 胸の内側が硬くなる。

 硬さが増すほど息が浅くなる。

 息が浅くなるほど声が漏れやすい。


(息を整えろ。声を出すな)


 わたしは掌の中の札――“封”の紙ごと丁寧に折り畳んだ原初札を鞄のいちばん奥へ押し込んだ。

 折り目がほどけないように。

 読ませる穴が開かないように。


 それでも札は消えていない。

 静かになっただけだ。

 静かになった札は眠ったのではなく、聞き耳を立てているのかもしれない。


 廊下の角を曲がる。

 日常の掲示板。

 生徒会の紙。

 委員会の注意書き。


 その文字の端がわずかに薄い。

 薄い箇所が目に刺さる。


(穴が増えてる……学院全体が“名”を薄くしてる)


 刻印が氷みたいに疼く。

 疼き方がさっきよりも一定だ。


 一定の疼きは危ない。

 危ないのは痛みが強いときではない。

 痛みが規則的になるときだ。

 規則は回路で、回路は拡散する。


 遠くの校内放送がかすかに鳴った。

 さっきは日常に戻っていたはずなのに、音の底がざらついている。


 ざらつきの底から、言葉にならない音が滲む。


 ……もういっかい……


 背中が冷えた。

 放送回路は弱体化しただけで、固定は解けていない。

 透子の影三重化が残した導線が校舎の骨格に貼りついたままだ。


(……わたしが“戻る”って言ったから?)


 その一言が黒幕にとっては有益すぎる。

 “戻る”は承諾みたいに扱える。

 承諾は返事の仲間だ。

 返事は燃料で、燃料は喉を開く。


 紗灯の影が足元に重なり軽く引いた。


『……おねえちゃん……

 へや……

 きをつけて……』


 部屋。

 寮。

 日常の返事が最も多い場所。


 一つノックがあれば、

「入っていい?」

「うん」

「はい」

「どうぞ」


 全部、返事だ。


(返事の海に入ったら溺れる)


 でも、戻らないわけにはいかない。

 未救出の一般生徒がいる。

 呼ぶ声が残っている。

 それを止めない限り、わたしの名は削れ続ける。


 寮の廊下に入った瞬間、匂いがした。


 洗剤。柔軟剤。

 誰かのシャンプー。

 生活の匂い。


 生活の匂いは、いつもなら安心のはずなのに――今日は薄い。

 薄いのは匂いじゃない。

 生活の厚みだ。


 廊下の床板がわずかに鳴る。

 その音がさっきの点検口の金具の音に似ている。

 似ているだけで喉が反応する。


 刻印がひやりと冷えた。


【影落ち進行:上昇(継続)】

原因:地下導線接続/影三重化(放送回路)

追加:一般生徒欠落(未救出)→遠隔共鳴(強)


 “強”の文字が胸の内側へ刺さる。


(遠隔共鳴が強まってる。つまり――あの子が、もっと呼んでる)


 わたしは走りたくなる。

 でも走ると息が乱れる。

 息が乱れると声が漏れる。

 声が漏れると返事が出る。


 走りたいのに、走れない。

 この不自然な制御がいちばん怖い。


 部屋の前に立つ。

 扉の向こうは静か。

 静かすぎる。


 ノックをしかけて、やめる。

 ノックは問いかけ。

 問いかけは返事を生む。


 鍵を回した。


 カチリ。


 その音が廊下の空気を一瞬だけ凍らせた。


 扉が開く。


 部屋は暗い。

 暗いのに、ベッドの輪郭だけが薄く白い。

 白いのは光ではない。

 削られた輪郭の白。


 そして――“あの子”がそこにいた。


 誰なのかわからない。

 わからないのに、知っている気がする。

 地下で奪われかけた影。

 未救出の一般生徒。


 その子は座っている。膝を抱え、前を見ている。

 こちらが入っても、すぐには振り向かない。


 振り向かないのに――呼んでいる。


 喉の奥で声が鳴る。


 ……とう……こ……


 わたしは返事をしない。

 しないのに、足が一歩勝手に出た。


 床板が、ぎし、と鳴る。

 鳴った瞬間、部屋の空気が“喉”の形に変わった気がした。


 扉が蓋になる。

 天井が口腔になる。

 空気の通り道が一本に絞られる。


(……まずい。ここ、喉にされる)


 背後で鞄の奥が微かに温まった。

 折り畳んだ原初札が眠りから起きかける気配。


 封(仮)は効いている。

 でも、封は“静かにする”だけで、“終わらせる”わけじゃない。

 終わらせるには――燃料を断たなきゃいけない。

 呼ぶ声を止めなきゃいけない。


 わたしは名を握る。


(汐見、灯子)


 掌の痛みが薄い。

 薄い現実。

 薄い現実の中で”喉”の存在だけが濃くなる。


 その子がゆっくり顔を上げた。


 目が合う。


 合った瞬間、返事が先に落ちた。


 ……はい……


 質問の前に。

 声をかける前に。

 “日常の形”を借りた、回路の返事。


 視界にUIが立ち上がる。


【欠落深度:上昇】

対象:一般生徒(未救出)

深度:3 → 4


 数字が上がったのは彼女の欠落だけじゃない。

 わたしの影落ちの進行も連動して跳ねる。


 刻印が冷たく疼いた。

 疼きが規則になり、規則が波になる。


(このままじゃ部屋ごと喉になる。

 部屋ごと、わたしの名が撒かれる)


 その子が口を動かした。


 ……とうこ……

 ……こっち……


 それは呼びかけで、命令で、お願いで――

 全部が混ざっている。


 わたしの喉が返事を作ろうとする。


「……う――」


 一音。

 “うん”の入口。


 紗灯の影が足元から叩いた。


『だめっ!』


 強引な叩き方じゃない。

 縫い止めるように、わたしの影に重なる。

 でも縫い目は足りない。


 部屋の空気が、もう”喉”になっているから。


 そして、部屋の隅――暗がりで紙が擦れる音がした。


 媒介札の音。


 わたしは振り向きたくないのに、視線が引かれる。

 引かれた先に、影が三つ重なる輪郭が見えた気がした。


(……透子?)


 いるはずがない。逃げたはずだ。

 でも導線は固定されている。

 固定された導線が“影の像”だけを呼び戻すことはできる。


 像が囁く。


「正しいよ。正しいから、もっと壊れる」


 透子の声だったか、黒幕の声だったか、区別がつかない。

 区別がつかないこと自体が返事を待つ回路側を有利にする。


 わたしは返事をしない。


 しないのに――喉が勝手に次の言葉を探し始める。


(ここから先は一つの返事で全部が固定される)


 わたしは名を握り直し、歯を食いしばった。


(汐見、灯子)


 そして口を閉じたまま、次の手を探した。


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