14A1-A-b BAD END⑤「返事」――『喉が開く』
扉の輪郭は暗闇の中で薄く光って見えた。
機材倉庫の外――そこにはまだ人の声がある。
部活の掛け声。靴の音。笑い声。
日常のざわめきがこちらへ流れ込んでくる。
わたしはその“音の群れ”に手を伸ばすように、一歩踏み出した。
その瞬間、掌の中の札がぬるりと動いた。
動いたのは札ではない。
札の端に残った“舐め痕”が、湿った舌を持っているみたいに、皮膚にまとわりついた。
(……触れられる)
わたしは反射で握り直そうとして、止まった。
握り直す動作は、いまこの場所では“返事”に似る。
応じた、という形になる。
背後で点検口の朱い輪が暗闇の中で一度だけ脈打った。
呼吸は止まっている。
なのに、”唾”だけが残っている。
唾は返事を求めている。
『……おねえちゃん……
だめ……
もう……』
紗灯の影が足元で震える。
わたしの影に重なろうとして、重なりきれない。
縫い目がほどけかけている。
(封じが汚れてる。だから――ほどける)
わたしは名を握った。
心の中でだけ。
(汐見、灯子)
扉へ向かう。
逃げる。
日常へ戻る。
戻れば呼び声は薄まる。
薄まる。薄まるはずだ。
取っ手に手をかけた瞬間。
取っ手が冷たくない。
人肌の温度がした。
ぞわ、と背筋の毛が逆立つ。
(……取っ手が“人”になってる)
手を離そうとしたが、離せなかった。
取っ手が掌を握り返してくる。
金属のはずなのに、見えない指がある。
指が、わたしの掌の中の札――“封”の紙の端をそっと撫でた。
撫でるだけで札が浮く。
浮いた隙間から冷たい声が落ちてきた。
……へんじ……
……とうこ……
耳からじゃない。
喉の裏から直接。
わたしの喉が反射で開く。
(閉じろ)
奥歯を噛み、名の防壁を噛むように握り潰した。
掌に痛みが走る。
痛みは鎖。
鎖で喉を縛る。
でも、鎖は一瞬だけ遅れる。
取っ手の“指”が、もう一度札の端を撫でた。
その撫で方は不気味なほど優しい。
優しいからこそ、拒絶できない。
日常で、誰かに肩を叩かれたときの反射に似ている。
「――はい」
声が出た。
出た瞬間、わたしは理解した。
出てしまったのは“言葉”ではない。
扉の向こうへ自分を差し出した合図だ。
暗闇が笑った。
照明は消えているのに、点検口の黒い濡れが一度だけ光った。
舌が喜んで跳ねたように見えた。
校内放送が存在しないはずのスピーカーから鳴った。
「――放送委員より、お知らせです」
「――本日の清掃当番は――」
日常の放送の形。
その形の中に、わたしの声が混ざる。
いや、混ざるのではない。
わたしの声が放送の基音になる。
「――はい」
自分が言った「はい」が校舎の空気に反復する。
何度も。何度も。
返事だけが切り取られて繰り返される。
喉を押さえた。
声が出ていないのに、喉が痛い。
喉が勝手に震える。
首元の刻印が熱ではなく“空洞”になった。
焼けるのではない。
抜かれる。
抜かれた場所に冷たいものが入ってくる。
……とうこ……
呼名が返事を伴って回路に固定される。
わたしは扉を押し開けようとした。
外へ出れば日常へ戻れる。
日常のざわめきで怪異は薄まる。
けれど扉の向こうは廊下ではなかった。
廊下のはずの場所に薄い膜が張っている。
膜の向こうで部活の声がしている。
笑い声がしている。
なのに、膜が一枚隔てていて――届かない。
日常が“絵”になっている。
わたしは膜を叩いた。
叩いたはずなのに、音が鳴らない。
叩いた腕だけが薄く影になる。
『……おねえちゃん……!』
紗灯が叫んだ。
叫んだはずなのに、その叫びも膜に吸われる。
振り返った。
機材倉庫の奥、点検口の朱い輪の上に、透子の“影”が立っていた。
笑っている。
影だけで笑っている。
……いいこ……
……へんじ できた……
言い返そうとして、喉が動いた。
言葉にならない。
代わりに、また返事が漏れる。
「……はい」
返事だけが落ちる。
返事だけが回路に乗る。
返事だけが世界を繋ぐ。
その瞬間、気づいた。
(返事は、名の代わりになる)
名を抜かれた穴に返事が詰められている。
”灯子”という輪郭が削られ、
「はい」という反射だけが残る。
笑い声が校内放送の中で増幅した。
「――はい」
「――はい」
「――はい」
そしてその「はい」が、誰かの耳に届く。
すずの耳に。
みゆの耳に。
りいなの耳に。
しずくの耳に。
彼女たちが日常でわたしに声をかける。
「灯子、これさ――」
「灯子ー、今日帰る?」
「灯子、お願いが――」
その問いかけに、回路が勝手に返事をする。
「――はい」
返事は優しい。
返事は便利だ。
返事は人を安心させる。
だから、みんなは気づかない。
返事をしたのが、わたしではないことに。
返事をしたのが別の”喉”だということに。
わたしは膜の向こうで日常の絵を見ながら、声のない声で笑った。
(……これ、最悪のバッドエンドじゃん)
ツッコミすら声にならない。
ツッコミは回路に乗れない。
乗れるのは返事だけ。
最後に透子の影が囁いた。
……おかえり……
……わたしの こえ……
視界が白いノイズで埋まる。
【BAD END】
『返事――喉が開く』
・灯子の名:回路に固定(部分喪失)
・以後、灯子は問いかけに「はい」しか返せない
・放送回路:新たな拡声器として稼働
・救出対象の保護:不安定化(再混入の兆候)
日常の膜の向こうで、りいなが笑っている。
”灯子”が返事をしたから。
「灯子、やっぱり優しいじゃん!」
わたしは答えられない。
答えたい言葉は全部喉の外へ出られない。
代わりに、回路が返事をする。
「――はい」
それが、終わりだった。
――――――――――――――――
暗転。
音が消えない。
消えないのに、耳に届かない。
“はい”だけが遠くで反復している。
「――はい」
「――はい」
「――はい」
それがノイズに溶けて、細い線になり、
線が画面の端へ吸い込まれていく。
次の瞬間。
――ぱちん。
ブラウン管が切り替わるような小さな破裂音とともに、視界が戻った。
そこは、見慣れたはずの“最初”だった。
墨色の背景。
白鷺女学院の校舎を模した影絵が、遠景に沈んでいる。
その上を、羽根のような白い紙片がゆっくり舞う。
舞う紙片の端に、朱の滲み。
まるで誰かが舐めた痕。
画面中央に、タイトル。
『影喰 - KAGEGUI - 白鷺の夜鳴き 』
タイトル文字の下で、かすかな走査線が揺れる。
揺れの隙間から聞こえてはいけない声が漏れた。
……へんじ……
カーソルが勝手に震えた。
▶ はじめから
つづきから
設定
終了
本来は無いはずの項目が最下段に薄く滲む。
▶ はじめから
つづきから
設定
終了
???(従属影化)
カーソルはそこへ吸い寄せられかけ、
しかし、見えない指で弾かれるように戻った。
戻った先は「つづきから」。
カーソルがそこに合った瞬間、画面右下に小さなログが点滅する。
[SYSTEM] セーブデータを確認しています…
[SYSTEM] 影落ち進行:IF枝終端
[SYSTEM] BAD END:「返事」――『喉が開く』
[SYSTEM] 記録:封じ札(舐め痕)/返事強制/回路固定
ログの最後の一行だけ、文字が欠けた。
[SYSTEM] 推奨:__を避けてリトライしてください
欠けた箇所が黒く濡れている。
その濡れがじわりと画面を伝い、
カーソルの先端へまとわりついた。
――ぬるり。
カーソルが一拍だけ遅れて動く。
まるで、影が追いかけているみたいに。
選択肢が更新された。
▶ リトライ(直前の選択へ)
ロード(最後の安全地点)
タイトルに戻る
その下に薄い注釈。
※「直前の選択」とは、”喉”への対処順を指します。
※”返事”をした場合、以後の記録に残留します。
注釈の最後がゆっくり書き換わる。
※返事は、名の代わりになります。
書き換わった瞬間、背中の刻印が――現実の灯子の首元を想起させるように――ひやりと疼いた。
画面の奥で誰かが笑う気配がした。
透子の笑いじゃない。
もっと深いところからの、静かな笑い。
……もういっかい……
タイトル文字が一瞬だけ、崩れる。
『影喰 - KAGEGUI - 白鷺の夜鳴き』
― 返事 ―
副題が勝手に付け足され、次の瞬間、消える。
カーソルが震えながら選択を待っている。
【選択】
▶ リトライ(直前の選択へ)
ロード(最後の安全地点)
タイトルに戻る
カーソルが震えながら、「▶ リトライ(直前の選択へ)」に吸い付いた。
決定音――のはずが、音が鳴らない。
代わりに、喉の奥で小さく“頷く”感覚がした。
「――はい」
画面の端、即座に警告が走る。
[WARNING] 残留返事を検出
[WARNING] 記録層に微量混入:1
[SYSTEM] 影の洗浄を試みます…
走査線が画面を上から下へ舐める。
舐めるたび、背景の墨色がほんの少し濡れる。
――ぬるり。
タイトル文字が一瞬だけ裏返った。
『影喰 - KAGEGUI - 白鷺の夜鳴き』
『影喰 - KAGEGUI - 白鷺のへんじ 』
すぐに戻る。
戻るが、戻り方が“正しい”とは言い切れない。
画面が暗転し、暗転の中で選択肢だけが残った。
[SYSTEM] リトライ地点を生成しています…
[SYSTEM] 直前の分岐:喉への対処順(A/B)
[SYSTEM] 条件:返事をしないこと
[SYSTEM] ルール:声を最小限/返事禁止
最後の一行が赤く滲む。
[SYSTEM] ※「はい」は返事です。
暗転が揺れる。
揺れの隙間から誰かが囁く。
……もういっかい……
囁きが、まるで操作説明みたいに優しい。
暗転が機材倉庫の匂いを連れてきた。
埃と金属。乾いた喉。
照明の明滅――ではない。
すでに一度見た景色の“手前”で止まっている。
そして、視界の中央に文字が浮かび上がった。
〈リトライ地点〉機材倉庫:点検口(原初札)前
床の点検口の朱い輪がまだ呼吸している。
照明がぱち、ぱち、と明滅し、
喉が開くたびに“呼名”が濡れた音で滲む。
背後から落ちてくる声。
……へんじ……
……とうこ……
喉が開きかける。
開きかけたところで画面が一度だけ固まった。
固まったまま、選択肢が表示される。
【選択:喉への対処順】
a:先にブレーカー遮断(安全寄り)
b:先に封じ札貼付(強行寄り)
カーソルが表示される。
しかし、そのカーソルがほんの少しだけ遅れて動く。
まるで、影がカーソルの後ろに張り付いているみたいに。
右下に薄いログ。
[LOG] 返事残留:微量(1)
[LOG] 影落ち進行:リトライ補正(軽)
[LOG] ※返事をすると即座に回路固定へ移行します
ログの最後に虫食いが走る。
[LOG] __を選ぶと安全です
“安全”の文字だけが黒く濡れた。
選択肢の上で囁きがもう一度落ちる。
……こっち……
どこの“こっち”かは分からない。
分からないのに、喉が勝手に開こうとする。
わたしは心の中でだけ名を握る。
(汐見、灯子)
声にはしない。
返事もしない。
選択だけを、する。
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