☆13A1-A 設備廊下――最短の喉元、三重影の明滅
放送室へ向かう足取りを“普通”に整えた。
走らない。
立ち止まらない。
周囲を見回しすぎない。
速く行きたい。
今すぐ喉元を潰したい。
でも焦りは怪異にとっていちばんの甘い餌だ。
(焦った音。焦った呼吸。焦った目線。
それが全部、回路に乗る)
廊下にはまだ人がいる。
部活へ向かう生徒。帰る生徒。
その日常の波に紛れながら、わたしは特別棟へ抜ける角を曲がった。
曲がった瞬間、音が薄くなる。
ざわめきが一枚の壁の向こうへ引っ込んだみたいに遠くなる。
(ここから裏側だ)
『……おねえちゃん……
うすい……
ここ……ひろう……』
紗灯の影が足元で震える。
影の輪郭が通路の影と馴染みすぎる。
馴染むほど危ない。
放送室の扉は表側にある。
そこはまだ“日常”の顔をしている。
だがわたしが向かうのは裏――設備廊下だ。
「関係者以外立入禁止」と書かれた小さな札。
札の文字が少しだけ滲んで見える。
(滲んでるのはインクじゃない。
ここが怪異に関わる場所だからだ)
深呼吸はしない。
深呼吸は音を立てる。
代わりに、喉の奥で浅く息を回す。
金属の取っ手を掴み、扉を押す。
ぎい――
音が鳴った瞬間、内心で舌打ちした。
扉の音は日常の音より鋭い。
設備廊下は細い。
天井に配線が這い、壁に点検パネルが並ぶ。
床の点検口が等間隔に口を開けている。
照明が、ぱち……ぱち……と呼吸するように明滅していた。
その明滅の“間”で、わたしの影が増える。
二つ。
三つ。
そして一つに戻る。
首元の刻印が冷たく疼いた。
【影落ち進行:上昇(設備廊下)】
トリガー:影三重化/放送回路接続
わたしは札――名の防壁――を掌の中で握った。
冷たさが骨に触れる。
『……おねえちゃん……
こえ……くる……』
その直後、校内放送が遠くで鳴った。
遠いはずなのに、この廊下では“近い”。
「放送委員よりお知らせです。
本日の――」
音が擦れる。
「――……とう……こ……」
背中が冷え、喉が勝手に開きかけた。
(返事するな)
奥歯を噛み、名の防壁を強く握る。
札の角が掌に食い込み、痛みが現実へ引き戻す。
(汐見、灯子)
名を心で握る。
声にはしない。
設備廊下の奥――暗がりに白い紙片が落ちているのが見えた。
朱の欠片。
媒介札の破片だ。
(透子の導線。ここに残ってる)
近づく。
床の点検口を避けて歩く。
点検口の縁だけ影が“落ちない”箇所がある。
(小型無影域。踏んだら終わり)
紙片の前でしゃがみ、触れずに観察する。
紙の裏の文字は見ない。
見ると削られる。
ただ、紙の繊維の方向を見る。
折り筋を見る。
貼られた糊の跡を見る。
(……撒いたんじゃない。
誘導だけじゃない。
“固定”してる)
視界にカードが生まれる。
【証拠カード更新】
『朱の導線:設備廊下固定痕』(SR)
追記:透子は導線を“喉”に貼り付け、放送混入を持続させている。
そのとき。
背後の明滅が一拍だけ長く止まった。
暗い。
暗いはずなのに、暗さが“濃い”。
わたしの影が三つに割れたまま戻らない。
(やばい……固定された)
振り返りたい衝動が走る。
けれど振り返れば、そこに“いる”ことを確定させる。
わたしは振り返らずに言った。
声は短く、輪郭だけ。
「来るなら来い」
直後、喉の奥を撫でる声。
……とうこ……
声は近い。
放送じゃない。
この廊下の“喉”から直接鳴る声だ。
名の防壁を強く握り、唇を噛んだ。
血の味が広がる。
その味が現実の楔になる。
『……おねえちゃん……
うしろ……
でも……みないで……』
(見ない)
ゆっくり立ち上がり前へ進む。
設備廊下の奥に、もう一枚扉がある。
「放送機材倉庫」と小さく書かれた札。
札の文字が半分だけ欠けている。
放送機材__庫
(欠けてる。ここはもう日常じゃない)
扉に手をかけた瞬間、背後で“紙が擦れる音”がした。
誰かが札をめくる音。
透子の気配。
心臓が一拍だけ跳ねる。
(透子がいる? いや、導線だけ?)
明滅の間と廊下の壁に影が映った。
影だけが人の形をしている。
影だけが、透子の輪郭を持っている。
影が笑っているように見えた。
(……本体じゃない。
“影の導線”だ)
わたしはそこで初めて恐ろしいことに気づいた。
透子を追っているつもりで、
透子の“影”に導かれている。
(喉の奥へ。
原初札の口へ)
でも引き返せない。
神社が叩かれた。
すずの穴を守るためにも、拡声器を止めなければならない。
扉を押した。
ぎい、とまた金属が鳴る。
その瞬間、校内放送が“割れた”。
「……放送委員より――」
「――……す……ず……」
「――……とう……こ……」
「――……こっち……」
四つの音が重なる。
日常の放送に名が混ざる。
名が混ざることで世界の輪郭が削れる。
わたしは名の防壁を噛むように握りしめ、心の中で叫んだ。
(汐見、灯子!)
声にしない。
声にしないまま、喉を閉じる。
扉の向こうは機材倉庫だった。
埃。配線。古いスピーカー。
そして床の中央に丸い点検口。
点検口の縁に朱い紙が輪のように貼られている。
輪の中心が黒く濡れている。
(……原初札)
札は紙じゃない。
紙の形をした“穴”だ。
穴がこちらを見上げている気がする。
『……おねえちゃん……
のど……
ここ……』
紗灯の影が震え、わたしの足首に絡む。
止めようとしている。
でも同時に、ここが“核心”だと告げている。
深呼吸しそうになり、やめた。
呼吸は音になる。
音は回路になる。
代わりに、カードを意識に呼び出す。
・朱の導線(設備廊下固定)
・名の防壁
・放送委員名簿の欠落
・校史/旧式機材マニュアル
そして、すずの縫合情報
(ここでやることは一つ。
“喉”を塞ぐ。
原初札を完全に潰せなくても、回路を遮断する)
点検口の縁に膝をつき、札を“読まないまま”観察した。
折り筋。貼り方。糊の向き。
“穴”の呼吸のリズム。
照明が明滅するたび、穴が少しだけ開く。
(明滅が呼吸。
呼吸を止めれば、喉が閉じる)
配線盤へ目を向けた。
古いブレーカーが並んでいる。
そのうち一つだけ、ラベルが剥がれて読めない。
読めないところが当たりだ。
手を伸ばす――
その瞬間、背後の倉庫の扉が、すっと閉まった。
閉まった音がしない。
音がない閉まり方。
暗がりから囁きが落ちた。
……とうこ……
……へんじ……
返事を誘う声。
喉を開かせる声。
喉が痙攣する。
思わず「なに」と言いそうになる。
(だめ)
名の防壁を強く握り、爪を掌に食い込ませた。
痛みで喉を閉じる。
そして、笑う代わりにツッコミを心で放った。
(ここで「返事しろ」は悪役のテンプレすぎんだろ……!)
日常のリズムを持ち込む。
それが結界になる。
わたしはブレーカーを見つめ、決めた。
(ここからが勝負。
次に“遮断”と“封じ”を同時にやる)
点検口の穴が濡れた黒の中で笑った気がした。




